287枚目 「故の闇」


 十年前のことだ。


 私は魔導王国浮島駐屯地の研究室にて、第一大陸のとある国の人族が他の三種族に喧嘩を売ったことを知った。

 種族格差に始まり見た目や文化の差別に偏見、嫌がらせや暴力の発生のネタになるそれらのことは身に染みて知っていたが、この事件を機に浮島のトラブルが増えたことを覚えている。


 戦争が長引くにつれ、浮島駐屯地からは一人二人と人族が辞めていった。仕事を辞めて第三大陸に無事に辿り着ければ良い方で、酷いときには浮島から海に落とされた者も居た。勿論犯人は裁きを受けたが、その度に殺人は事故に書き換えられ明らかに軽い罪量が言い渡された。後に魔王は入れ替わり、玉座には紫髪の男が座することになる。


 ■■■■・■■■■は、たまたま生き残った人族である。


 私は魔導王国の白魔導士だった。それも、何冊も魔導書を任されるような、割と食いでのある研究者枠にいた。研究室から出ることは殆ど無く、家族以外との付き合いがそこまでなかったことが、種族を理由に寝首をかかれなかった理由だろう。


 あの頃、白魔導士の元には特に多くの患者が運ばれてきた。多くを癒し多くを看取った。敵も味方もなく運び込まれた者たちを等しく治療した。治療を受けた彼らの、その後のことは何も知らない。私には、それしかできなかった。


 研究途中だった糸術式の治療への応用。新たな麻酔薬の開発。苦痛を取り除く安楽毒の調剤。白魔術士と白魔導士の育成。出兵する軍人へ付与される強化術式の開発協力――不死鳥の教えに逆らいかねないギリギリのところを攻めながら、割と浮島の発展に尽くしただろう――と思ったところに徴兵の知らせが届いた。


 男女関係なしに訪れたそれは、娘を含まない私と妻の二人に宛てられたものだった。


 それまで強制徴兵は魔族基準で四十代からと定められていたが、戦争が二年目に入った頃に三十代にまで引き下げられ、そこに私たちが含まれたのだ。


 比較的若い白魔導士まで戦争に駆り出される戦況になったとなれば、娘に治療者を目指させるのは危険だった。それよりも、せめて身一つ守れるくらいの戦う力を持ってほしいと、私たちは出兵前に彼女を騎士隊へと推薦した。徴兵までに残された時間は僅かで、娘と話し合う余裕すら作れなかった。


 言葉が足りないあまりに大げんかをして、それが娘との最後の会話になった。


「……浮島へ行き、聡い者に説明を受けたなら既に知っているかもしれないな。パリーゼデルヴィンド君主国へ出兵した魔導連合軍は、この後帰還叶わず壊滅する。原因は……私には、分からなかった」

「含みがある言い方ね。例えば母さ……あの人なら、分かっていたというの?」

「そうだな。彼女には見えているようだったから」

「?」

「曰く、獣にあらず。人にあらず。精霊にあらず。竜にあらず」

「自然災害、みたいなこと?」

「ああ。それは水が波打つように、空から水が落ちるように、風が吹くように、さも居ることが当然であるという態度で、そこかしこに現れたのだという。いた、という表現の方が近いかもしれないが」

「……」

「君主国と連合軍は成す術なく蹂躙され、種族も老若も関係なく襲われた。私と彼女はたまたま国の外に居たから助かったが、砂漠から南下しようと戻った隊は砂魚と砂虫に襲われ、弱った者から三つ首鷹スリーヘッドホークの餌になった。後方に控えていた私たちはそもそも戦う前提で組まれていなかったからね。護衛がやられてしまえば、あとはなし崩しに連携が崩れていったものだ」

「貴方たちは、その時どうしていたの?」

「南下した隊に居たとも。誰も助けられなかったからこそ、生き残ったのは私と彼女だけだったがね」

「……そう。でも貴方たちは、そのまま南下しようとしなかったのね」

「しなかったというより、できなかったのだよ。道中に当時の私たちが扱えた黒魔術では到底倒せない砂海鷂魚サエイの群れの縄張りがあってだね。どうあっても山脈に近寄れないものだから引き返すしかなかった。つまり、一度南下したにもかかわらず君主国付近まで北上し直すことになった」


 その時点で、君主国壊滅からそれなりの期間が経っていた。土地勘のない私たちは無事だったサンドクラフトを拾って、星を頼りに地図もない砂丘を越えた。


 白峰の山脈は遠ざかり空気が澄んだ日にしか拝めないほどに遠くなった。うざったい陽炎にまみれ、壊れかけの方位磁針を頼りに命綱を日々削いでいくような思いで砂魚を狩り、腐った干物に噛みついた。


 再び君主国に辿り着いたのは真夜中で、凍えるような寒さを防具の魔術でどうにか凌ぎながら命からがら城壁に手をついたことを覚えている。

 国の周囲には氷の柱が立たず、水を得るためには砂漠に行かねばならなかったが、拠点ができたのはいいことだった。いいことだと思わなければ、とっくにおかしくなっていただろう。


「そうして日を数えていると、いつの間にか年を越していることに気がついた。これだけ日が過ぎても救援や増援がないのだ。どうやら私たちは死んだことになったのだろうと自覚したのはその頃だったな」

「……質問をしても構いませんか」

「どうぞ、ツァツリーさん。その為の立会人だろう」

「心遣い感謝します。……その。今までの話の中にラエルさんの影が無いのですが」

「ああ、それはそうだ。私たちが一度君主国から離れ、君主国付近に戻るまで、ラエルとはまだ会っていないんだよ。私たちがラエルと出会ったのは、年を越して後のことだ」

「でも。私には貴方たちと過ごした記憶があるわ。砂の国で過ごした記憶が」

「私たちが、そういう風にしたんだ」

「……刷り込み。ですか」

「ああ。認識阻害、記憶操作、魅了……使える魔術は、全て使わせてもらった。あの時点での生き残りはたったの四名。内三人は魔導王国の人間で、ラエルの味方になる者は居なかったからね。何より、私たちも生き残るのに必死だった」

「……四名? 三名じゃなくて?」


 そうだ、四名。

 指摘の通り一名多い。


 引き返した先の君主国。生き残りなど居ないだろうと思っていた鉄門の内から知り合いが出てきたのは、私たちが栄養不足で死にかけていた時だった。


 手持ちの食料は心許なく、他者に施せるだけの精神的余裕もない私たちの前に。旧友が見知らぬ子どもを抱えて現れたのだ。彼は歪んだ腕で、こけた頬で、見知らぬ誰かと見まごう様な風貌になっていたが――当時の私たちにはまだ、理性が残っていたらしい。


 死に体の彼と子どもに治療を施すことに、迷いはなかった。


「その時、抱えられていたのがラエルだ」

「……!」

「君は目覚めて尚、何一つ思い出すことがなかった。自らの諱も分からず、ただ周囲を警戒して近寄ろうものなら魔術を奮うあり様でな。こちらも死に体なのに怪我を増やすと不味いだろう。私たちは全員で生き残る為に、君の記憶操作をすると決めたのだ」

「……」

「その。四人目の方は?」

「ラエルを私たちに引き渡すと、食料も持たずにどこかへ行ってしまったよ。城壁の内には踏み込むな、私の後を追うな、と言い残してね」


 ……話を続けよう。


 誠意をもって明かすとすれば、まずは私たちがラエルに施した魔術の内容についてだろう。記憶操作、といってもそう難しいことはしていない。私たちが君主国への侵攻時に見た街並みを綺麗な形で思い出として植え付けただけだ。


 諱の端すら口にできず、自分が何処の誰かも憶えていない子どもであっても、君主国から連れ出されたなら君主国の人間なのだろうと推測した。それならきっと砂の国の情景は馴染みが良いに違いないと。

 今思えば、他国と交易があったあの国には外から来た者がいてもおかしくなかったんだが……そこまでは頭が回らなかったな。


 付与した虚偽の記憶と魅了による愛着の形成をもって、ラエルは私たちのことを親だという風に認識した。


 私たちは安堵した――法を犯すような手管で幼子の記憶に手を加え知覚を歪めた自覚がありながら、これで自分たちに暴力を向けられることはないだろうという事実に喜んだ。教えごとはラエルの中に染み付き、簡単には千切れない枷になった。


 敵対国の生き残りに対して私たちが何も思わなかったわけではない。だがあの時は。息を吸うように禁術行使に及んでしまった罪の意識よりも、姿を消した友人や遥か遠くに見える浮島よりも、今日を生き残る為に何をすべきか取捨選択するので精一杯だったのだ。


 あの場に居た大人二人は少しも立派ではなく、心が狭かった。


「だから実は、ラエルはかなりの回数死にかけている」

「初耳なのだけど」

「……憶えていないか。砂虫のすり鉢に落ちた時も、氷柱が立つ位置を読み間違えて危うく凍死しかけた時も、三つ首鷹の砂肝を食べた時も……」

「それは憶えているけれど、あれが全部自演だったっていうの?」

「そんなことはないが。どれもラエルが大怪我をしたか体調を崩すことになった事ばかりだろう。治療者は私たちしかいないのだから、ラエルの命の主導権は私たちの手にあったんだよ」

「そう言う割には、すぐに治してくれたわよね?」

「……医者の矜持が許さなかっただけだとも」

「どうして目を逸らすのよ。話を聞いた限り、ほぼ悪いことはしていないじゃない。そんな状態で、何を負い目に感じているっていうわけ?」

「…………」

「?」


 次いで言おうとした感情が、上手く声にならなかった。


 言葉が足りないと、指摘を受けた。故に、言葉を尽くしたはずだ。


 それなのにこうも伝わらないものなのだろうか。私がラエルに向けている感情を、言語化するには足りないというのだろうか。そんなことがあっていいはずがない。


 私に。何が足りていないというんだろうか。


「――普通は、怒るだろう。憤るものだ。自らの認識を書き換えた相手に親を騙られて、その上『子どもだと思えない』とまで言われれば。恨むだろう。恨む権利が、あるはずなんだ」

「……今の私がどう思ったところで、どうにもならなかったことなんでしょう? 何。貴方は怒ってほしくてここに戻って来たの? 恨んでほしくてこの場に居るの? そうじゃないでしょう。貴方は、生き残りたくてしょうがないだけ。私とそう変わらない。違う?」

「……そんな、ことは」

「あの時、君主国で何が起きたのかは分からないけれど。少なくとも私は貴方たちに拾われなければそこで終わっていたと思うのよ。そうしたら私は今ここに立っていないし、この村にたどり着くまでの出来事も何一つ体験していなかった」

「…………」

「貴方の自責を止める権利は私にはないわ。でも、少なくとも私は貴方のこともあの人のことも同じくらい好きだし、嫌いにもなれない。今の話を聞いて、嫌いになろうとも思えなくなった……というか、昔の私ってとんだやんちゃだったのね。記憶があればこっちが謝るべきじゃないの。魔力量はともかく、魔術の威力に子どもも大人もないんだし」

「ラエル。私は」


 ああ。この娘は、本当に欠けているのだ。本当に、忘れているのだ。


「私も貴方も等しく間違った人なの。私は貴方たちの命を脅かしたから報いを受けた。貴方は自ら選んだ選択に迷いがあった」

「違う。私は」

「駄目よ。謝ったら許されるとでも思ってる? 許すべき罪なんて、私には憶えがないのに?」


 何度思い出してもそこに残るのは「驚き」と「戸惑い」だけで。理由が分かれば「不安」の影もなく立ち消える。かつてあったはずの強い感情をかき消し、霧散させる。


 それがどれだけのことだったか意識することなく。

 怖くなか・・・・ったから・・・・忘れてしまえるというのか!!


「違うと言っているだろう、私は傷をつけるべきでない者に傷をつけたのだ!!」


 ……ラエルは、ぽかんと目を丸くした。


 喉が裂けるかと思った。こんなに声を張るのはいつぶりだったか。


 言葉が足りていないのは重々承知だったが、ここまでとは。

 反省。しなければ。


「理解できなくていいから聞きなさいラエル」

「えっなんで説教の雰囲気に」

「いいから聞きなさい。……正直に話すぞ。君と初めて出会った時、少なくとも私は君に恐怖を抱いたのだ。私は、君を助けることに反対した」

「!」

「君を助ける判断をしたのも、君を魔術士として育てる判断をしたのも妻の意思があったからだ。理由なんてそういうちっぽけで些細なことだ、君が私に憶えている少しばかりの恩と釣り合わないほどに私は君を危険視していた!」


 恐怖を抱いてしまった時点でラエルを家族として受け入れられなくなった。


 愛する者が恐怖の対象たにんであるわけがない。


「そんな薄情な大人が近くにいて足を引っ張っていたのに、君は私を助けまくったんだぞ!? 砂肝はつまみ食いの結果で自業自得だが、砂虫の時も氷柱の時も、ラエルは私を庇って怪我をしたんだ憶えていないとは言わせないぞ、特に氷柱の時は見つけるのも掘り出すのもたいそう苦労した!! あの時は何でこうも必死になって助けようとしているのか自分自身の思考回路が意味不明だったがな、今ならわかる。私は君に借りを作りたくなかったんだ。何故かは知らんが!!」

「……え、えぇと」

「なんだね!!」

「貴方。もしかしなくても私のこと『嫌ってはいない』ってこと……?」

「嫌いな人のことで思い悩むのは私の信条に反している。私が悩むのは私にとって好ましい人々についてだけだ。そうでなければ自己犠牲の一つや二つ放置するとも。少なくとも、こう感情的に怒ったりはしない……!!」

「あ、やっぱり怒ってくれていたのね。妙だと思ったのよ、黒魔術にしては向けられた時に威力がなかったから」

「……あれは私の全力をつぎ込んだ風魔術だったのだが」

「え」


 咳払いを一つ。

 凍り付いた空気を温めることはできなかったが、喉は温まった。


「失礼、取り乱した。だがねラエル、忘れないでほしい。怒りだろうが悲しみだろうが、相手を想ってしたことだと口では言えどもだ。暴力をもって察してくれというのは過剰な暴力を向けられた場合にとる最終手段の意思表示であって最適解ではない」


 情のあるなしに関わらずやっていいことと悪いことがある。


「情は、暴力を奮う理由にも奮われる理由にもならない。私が愚かだった。いかなる罰も受け入れる、この通りだ」







 トカはラエルに頭を下げた。椅子から降りて、床に脛と手と額を着けて。


 ラエルはそれを、呆然と見ていた。


(父さ……トカさんが私に謝ることに正当性があることは理解できたけれど、元を辿れば私が謝らなきゃいけないはずで)


 紫目は瞬く。


(でも、貴方は私の謝罪を望んでいないのね)


 どうしたらいいだろうか。


(謝られても。家族じゃなくても情があったなんて言われても。なんだか全然嬉しくない)


 ラエルは考える。

 罪と思えないものに罰は与えられない。

 愛を向けられたことに忌避はないが、彼はラエルを娘と呼べないという。


 ラエルとトカの間に生じている認識の齟齬を、ならす方法はないだろうか。


 許さなければいいのだろうか。

 許す必要がなければ、いいんだろうか。


(そうか。私はこの後にも及んで――諦めたくなかっただけで)


 自問自答が胸にすとんと収まって、ラエルは納得した。


 それは、今まで考えた中で最も当てはまる答えだった。


 欲っしていたものは分かった。

 でも、それはもう手に入らないとも理解した。


(それなら、もういらないわ)


 もう、求めたりはしない。


「……トカさん、謝ってくれてありがとう。私も、あんなことを言ってごめんなさい。ああいうことは、もう言わないようにする」

「……ラエル……」

「えぇ、だから――今回貴方にされた事も、さっぱり忘れるわ」


 今度は、息を呑む音も聞こえなかった。

 ラエルは憑き物が落ちたような朗らかな顔で笑う。


「貴方の心が晴れないなら、私の代わりに憶えていて頂戴。それで、痛み分けになるんじゃないかしら」


 途中から口を挟みもしなかった立会人二人も、床を凝視したままのトカも、誰一人了承も頷きもしなかった。しかしラエルはこの沈黙を肯定だと受け取ったらしい。


 手首の傷痕を見せつけるように、柏手を打つ。


「これで、湿気た話はおしまいね。私、ハーミットに用ができたからちょっと出てくるわ。鳥肉を使った夕食、楽しみにしてるから」


 ラエルは場の空気に眉を寄せ、椅子を立つと扉に手をかける。

 炭樹トレントの風鈴だけが、音を立てた。


 小屋から出てきたラエルを見て、ジェムシとハーミットが手を振ろうとしたが辞める。


 ラエルは二人を見つけるなりあっという間に距離を詰め、通り過ぎた。声をかけられるような雰囲気ではなく、少女は鍋の影に置かれていた自身の装備品を拾いあげると人目もはばからず装着していく。


 太ももにナイフ、肩にケープ、黒靴の調子を確かめて、その場で数回ジャンプした。

 軽いストレッチをして伸びをする。そうして振り返れば怖いほどすっきりした顔で――憂いの欠片もない、表情で。


 まるで、人が変わったようだとすら思った。


「……ラエル?」

「ハーミット、色々と待たせてごめんなさい。あとね、決めたわ」

「え――あぁ。そうか」


 少年の動揺が声に出るのも仕方がなかった。少女は淡々と言って、顔を上げる。


「でもね。伝える前に、ひとつわがままを聞いて欲しいの。構わない?」


 ラエル・イゥルポテーは返事も聞かない内に、血染めの魔法手袋を二つとも地面に落とす。

 赤い傷跡の腕輪が露わになるのも気にせず、針鼠の少年へ素手を差し向ける。


「私、ラエル・イゥルポテーは。ハーミット・ヘッジホッグに手合わせを申し込みます」

「……今?」

「今」


 忘れていたの? お昼前に約束したじゃない。

 纏めていた髪を下ろし、黒魔術士はニコリとした。




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