285枚目 「珪肺」
違う、と。
否定の言葉は、金髪少年ではなく糸術使いの口から出たものだった。
違う、違う。と、トカはその口で繰り返し否定する。
丸かった背中が更に丸くなって、頭が岩に擦り付けられた。
「違う。私はそのような、できた人間ではない。親を名乗る資格も育てたと胸を張る道理もない。貧弱な私には、彼女の意思を守る資格も力もない」
「……」
「トカ殿」
「あの娘を作戦に組み込んだのは『あの娘が使える』と分かっていたからだ。今なら別の人材をあてがう。それに、あの娘が居ない数か月は実に快適だったとも。なにしろ名も身分も隠す必要もなかった」
けれど。騒がしさに慣れた耳に、静寂は毒だった。
互いに無関心であるには長い時間を共に過ごしすぎた。
互いに愛着を持つには十分な関わりを持ってしまった。
「私には生きて帰らなければならない理由がある。魔導王国に残してきた娘がいる」
トカは、ラエルを家族と呼ぶことを選べない。
「だが私はあの娘に、私たちを妄信して欲しいと願ったことなどない」
手帳に刻まれていた言葉は、確かに彼らが白砂漠でラエルに教えたことだった。しかしトカは出会った頃に教えたことを、ラエルが未だに憶えているとは思ってもいなかったのだ。
なんとも健気だと思ったと同時に、己のことが恐ろしくもなった。
あの時の言葉が、まさか鎖にまで成ったとは思いたくなかった。
「決して、あのように言わせるつもりは」
「その言葉は私たちではなく、ラエルくんに言いたまえ」
レーテは、その先の言葉を遮った。追いかけて続きを口にしようとしたトカの両肩を掴むと無理やり顔を上げさせて茶色の虹彩を覗き込む。
「っ……」
「逃げてくれるな。傷つけた自覚が僅かでもあるなら、君は彼女の前でも同じ言葉を口にできるはずだ。私たちにではなく、ラエルくんに面と向かって言うべきだ」
岩に水が染み込み砕くように、レーテの言葉はトカに注がれた。
親子問題を傍目に観察していた側として、見かねたところも大いにあったのだろう。レーテの冷静を保っているようで熱を持った言葉は着実に、ハーミットとの対話では届かなかった何かに触れたらしい。
情の砂は降り積もり、石になった。
砕かれた石は――水を、吐き出した。
「……あ。合わせる顔が、無い、だろう」
「むむ」
「育ての親を名乗るほど立派な教育者にもなれなかった名ばかりの白魔導師の謝罪に価値など無い。このような愚か者は山肌で凍死するのが似合いだ……!」
「はあ? おいおい、そんなことを言うな。君がテコでも動かないというなら我々はラエルくんをこの場所に連れてくるぞ? 逃げ場のない袋小路で黒魔術の暴発をその身に受けたいというなら止めないけれども。そも、生きて帰ることが目的なのだろう。ここで死んでどうする」
「うううううう」
「あー、もう、仕方がないか!! こういう弱いところをラエルくんには見せられないんだな君は!? 分かったから落ち着いてくれ、紳士のたしなみとしてハンカチを持ってはいるが手持ちが一枚なのだよ……!!」
懐からハンカチを音もなく取り出して、レーテがトカの背をさする。
すっかり毒気を抜かれてしまったハーミットは怒り八割理解二割の複雑な面持ちのまま、懲りずに飛び蹴りの準備を始めたノワールの足を再び掴み取った。
「なんだろう、既視感がある意地の張り方だなと思ったんだけど……」
『急に
「俺が思ってること全部代弁してくれてありがとうノワール」
『冷静になったノワールに言わせれば全然似てないです!!』
「認めがたさが拮抗してるなぁ……」
唯一違う点があるとすれば、ラエルがいたいけな乙女なのに対して目の前で蹲っているのがいい年をしたおっさんだということだが。まあ、いい年をしたおっさんだからといって泣いてはいけないという法があるわけもない。
堪えられないものを無理に堪える必要はないだろう。
どうあろうと、どうあがこうと、トカがラエルに償わねばならない現実は何一つ変わりはしないのだから。
その証拠に、レーテはトカに対し一切の手心を加えなかった。
「心を砕いて育てた相手を『家族と呼べない』などと思い悩むのは貴方の勝手だ。だが周囲に迷惑をかけている身で駄々をこねるな。立派に大人なのだから、自らがした行動の責任をとりたまえ」
優しげな言葉の背後に鋭い刃と
ハーミットも年齢で言えば大人扱いされる立場なので、この状況には背筋を正さざるを得なかった――というより今後、レーテに逆らえる未来が浮かばなかった。
(……やっぱり
身内への愛の重さというか、愛の施し方というか。
「――ほらぁ、君からも言ってくれハーミットくん! このままだと彼は家路につくのはおろか、ラエルくんへの罪悪感で当初の目的すらも忘れて凍死してしまいかねないぞ!」
「うっぐ!?」
『です……』
完全に想定外だが、レーテが言わんとすることも理解できる。何より、ラエルに頼まれてここへ来たハーミットには彼を連れ帰る以外の選択肢がないのだ。
彼を元気づけるなど、金髪少年にとっては肌が粟立つほどしたくないことなのだが……トカの心中を垣間見た今、以前と全く同じように辛く当たるのも違う気がしている。
第一印象はそう簡単には塗り替えられるものではないが、折り合いは必要だ。
ノワールは腕の上で必死に被膜を突いている。
ハーミットは熟考の後、金の髪をわしわしと崩した。
いつの間にか振り向いていたトカは、ハーミットのことを見上げるようにしている。
濁った茶色と目が合ったことで琥珀も濁ったが、妥協点が見つかるのも同時だった。
「……貴方は、本当に……」
半壊した部屋で見た顔とは違い、ハーミットはトカの必死さをようやく知ることができた。それは栄養失調でぼろぼろの肌でも、洗いきれていない髪の油からでもない。
きつく結ばれた唇と、許しを請うつもりのない覚悟の視線。
(……ああ。この人は確かに■■■■・■■■■なのか。例外なく他者を慮るには自らを異端だと認めろと、固い教えを残したあの白魔導士……なんだな)
ハーミットは、ここでようやく観念した。
どれだけ否定したくなろうとも、本人の自覚がどうあったとしても――彼は立派に、ラエルの育ての親なのだと理解してしまった。
瞬きひとつ分の沈黙は、随分と長い。
金髪少年はやがて糸術使いを見据えた。
「……少なくともラエルは貴方のことを父親だと思っていたし、変質した彼女のことも母親だと慕っているんだ。家族とか家族じゃないとかそういうのは後で話し合って決めたらいい。しっかり謝れば関係の再構築も不可能じゃないだろう。しっかり謝れれば、ね」
「……」
『貴方の謝罪でラエルが元気になるなら、貴方に拒否権はない、です』
「……」
「……」
『……』
「それはそうとして手帳の件は納得していないからな。説明を求める」
『です!!』
……このやり取りによって、トカの顔面で起こった大洪水は止まったようだ。ハンカチで鼻をすすりながら黙り続ける彼を見て、レーテは口元をカムメにして眉根を寄せる。
「ちょ、どうにか場の沸点を上げたはずなのに数秒で元に戻っただって!? どうしてそんなに喧嘩腰になるんだいハーミットくん!!」
「今の彼に対して発言を控える理由が無くなったので、これを機に言いたいことを全部吐き出そうと思いまして。それに、ラエルが居ないからこそ聞ける話があると思いませんか? 質問と疑問なら山ほど用意があるので夜明けまで聴取することも可能ですよ?」
「ははははは、間に入る私の身にもなってくれたまえ! して、手帳とはなんのことだね!?」
「…………それ、は、だな……」
『あ、ようやく話す気になったです?』
「そういう、ことだ。こうなっては、隠していても仕方がないだろう」
――どうやら戦争も、終わっているらしいしな。
時折嗚咽の残りで言葉をつっかえながら、トカはそう続けた。
ハーミットたちは目を丸くして、次の言葉を待つ。
「…………彼女は」
「彼女は?」
「……ラエル、は。魔術を扱うには、優秀すぎたのだよ」
トカは骨に似た言葉を紡ぐ。
レーテは首を傾げたが、ハーミットにはそれで十分だった。
咳交じりに吐き出されたそれは、懺悔の肉を孕んでいる。
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