284枚目 「舌足らずの男」
頑健でいて細身の男性が、乱れた黒髪をそのままに山肌を行く。
情に似た砂は積もる度に水を含み、肺の内側で石に成る。
呼吸は日々、浅くなる一方だった。
それを何度も反芻して、結局は取りこぼさないように工夫と配慮を重ねてきたのは、自尊の為か自衛の為か、既に曖昧だった。
恐らくは全てが正しい。そして正しくない。
己を理解できる一線は、とうに過ぎてしまったと知っている。
白砂漠の君主国が燃え尽きた後。蟲や魚をむさぼっていた生き残りの前に、吹き付ける砂礫をものともしない傷だらけの影がやってきたのを思い出す。
見覚えがあった。身に覚えのある友人だった。慌てて駆け寄り、治療を施した。
片腕は曲がり、喉が焼け、確かに変わり果ててはいたが、間違いなく彼だった。
乾いた血で頬を焦がし。彼は、大事そうにひとりの子どもを抱えていた。
黒い髪をした、人族の子だった。
トカを追いかけて辿り着いた洞窟は
笛のように風が通り抜ける。ちりちりと音がすると思えば、外をほんの少し伺える程度の穴が壁には開いていて、そこから白い砂が噴き出ていた。
「……」
突き当りの壁には、バクハイムで見たような手彫りの痕があった。
糸術使いのトカは、その行き止まりで壁を前に膝をつき蹲っている。組んだ指をそのまま心臓に重ねて座り込み伏せるのは、不死鳥信仰で見られる祈りの形だ。
身じろぎもしない男の横で、少年は壁に積もった砂を摘まみとった。
この壁の向こうが、白砂漠――
人族であるトカが、当時どういう思いで魔導王国に所属していたのかはハーミットには分からない。ただ、その名は今なお浮島で耳にすることがあり、その功績は現在の白魔術士が使用しているマニュアルにすら引用がなされている。
ハーミット・ヘッジホッグは、彼の名前を知っている。
「……」
トカは暫く岩の床に突っ伏していたが、やがて身体を起こした。彼は振り返ることなく胡坐をかいて、少しばかり俯く。
防具ごしにも分かるほど背骨の形を露わにして肩を丸めた彼に、ハーミットは琥珀の眼を細めた。
「……探したよ。ノワールが貴方の後をつけていなければ見つけられなかったかもしれない」
「ふん、そう言う割には入り口に一人、付き添いに一人か。私を追いかけてきた全員が無傷で辿り着いたなら、この隠れ家も所詮は人が歩いてたどり着けるような場所でしかなかった、ということだ」
「壁に似た山肌に空いた洞窟なんて、人が歩いて目指す場所じゃないと思うけど」
ハーミットはカンテラを構えたまま腕に蝙蝠を受け止め、鼠顔を外した。
湿気った金糸がぱらぱら剥がれる気配がする。トカは振り向かない。
「見つけるなり引きずりまわされるものだと思っていたんだが、案外甘いのだなハーミット・ヘッジホッグ。隣に居るのはレーテさんだろうか。……申し訳ない、若者の癇癪に付き合ってもらった形になる」
ハーミットとノワールはトカの言葉に眉を顰める。
少年の隣にいたレーテは錆色の目を瞬かせると、口の端を幾分か緩めた。
「ふむ、流石は戦前の魔導王国で生き残った猛者だね。それはそうと、言葉数が足りないようには思うけども」
「……?」
「ははは。まあ、今の言葉を要約すると『若輩者の自分が年長者や上役を振り回すことになって非常に申し訳ない』ということだろうね。心情はともかく、形式的な礼儀はわきまえているようだよ、彼」
言って、レーテはからから笑った。呆気にとられたハーミットとノワールはお互いに目を細めて視線をトカに注ぐ。寒気でもしたのか、背中を丸めた大人の肩が波を打った。
眉を下げたレーテは苦笑しつつも前を向く。
レーテ・オッソ=スカルペッロは魔族だ。ダブルでもクァトロでもない魔族である。血統を辿ればどこかしらの由緒ある貴族に辿り着くとか、そうでもないとかいう家系だ。
他種族国家であるクァリィ共和国が共和国になる以前、いつかの時代の骨守に養子として迎え入れられた魔族を発祥とする――オッソ家に産まれた彼は、第三大陸の生活で人族と魔族、両方の生活に触れながら育った。故に、それとなくトカの苦労を想像できたらしい。
若作りな見た目に反してレーテの人生経験は長い。少なくとも、目の前で蹲っているトカや、呆気に取られているハーミットよりは。
(戦争以前の魔導王国を知っている身としては、彼はまだ素直な方に入るだろう)
時は残酷なものだ。言葉や態度の常識は、ほんの数年の
本心を伝える方法がまどろっこしくて当然だった時代を、思い出す。
(そうと分かれば、私が
レーテはスカルペッロ家に入り婿した側だが、当主スカリィの気質ゆえに喧嘩や交渉の仲裁をした経験はそこそこある。過去の嫁と娘の大喧嘩に比べれば、言葉での介入ができる段階であるだけ、いくらかましであるとも思った。
(相手の根が真面目であるなら、これは商人の戦場とほど近い。期待に応えるという意味でも、この場に居合わせて正解だった)
結界術使いは気を取り直して顔を上げる。
糸術使いは背を丸めたまま、不機嫌そうに口を開いた。
「どうとでも取るがいい。ともかく、私は戻らないぞ。私はそもそも君たちに協力することができない立ち位置なのだからな」
「……驚いた。ハーミットくんの選択にも理があると認めてはいるのか。そしてラエルくんが貴方と違う選択をした場合、貴方には後がなくなると?」
「ああ」
「ラエルくんが貴方の選択にそぐわない道を決断した場合はどうするつもりだったんだい?」
「意地でも私一人でどうにかするつもりだったさ」
「……え。ジェムシくんたちの手も、借りずにかい?」
トカは口を噤み、沈黙する。
レーテは沈黙を肯定と認めて、ハーミットの方を振り返った。
琥珀の視線はやはり半信半疑だったが、なんとなく状況は掴めてきたらしい。隙を見つけては飛び立とうとする伝書蝙蝠の足をわし掴みにしているのが証拠だった。
緊張で強張っていた肩も下がってきているし、これならハーミットも冷静に聞いてくれるかもしれない。レーテは内心胸を撫でおろしながら話を振る。
「ハーミットくん。この事態は事前に予想できていたことなのかい? 私は君とトカ殿の間で交わされた約束とやらの内容を知らないが、ラエルくんが迫られている選択と今回の件が関係するというなら、君も無関係ではないだろう」
「……俺が彼の意見に賛成できないのは、彼の意見と作戦がラエルを組み込むことを必須としたからです。選択の善悪や結果よりも、俺は大怪我を負ったラエルを当たり前のように駒にして扱おうとしていることが許せなかった」
「ふむ」
「だからこそ、ラエルの言葉にああいう反応をするとは思ってもいなかった。あれじゃあ、まるで……」
金髪少年は言いかけて、口を噤む。
ノワールは伸ばしかけた翼で抗議の意を示したが、ハーミットはそれに首を振る。レーテは苦笑して、錆色の目を伏せた。
「ハーミットくん。質問があるんだが」
「はい」
「ラエルくんが答えを出そうが出さまいが、ハーミットくんは回答にタイムリミットを設定している。君は明日になれば一人でも動くつもりでいたね? 勿論、ラエルくんを置いて。それこそ柱に縛り付けてでも」
「……はい」
『!!』
この場で嘘を吐くのは理にならないと、ハーミットは正直に頷いた。
誤魔化そうと撫でかけた蝙蝠の額は逃げて、ハーミットはその顎に頭突きを食らった。
「っ、ぐ。いえ。ま、まさか一人でとは考えていませんでしたよ。でも、ノワールと相性が悪くて蜥蜴が捕まるほどとなれば、片っ端から
「……いや、一人で行こうとしていたことは許しがたいが、それよりも見逃せない問題があるだろう?」
「?」
「ハーミットくんは、ラエルくんを柱に縛りつけてでも置いて行こうと思ったのかもしれないが。ラエルくんは、その気になれば小屋ひとつくらい簡単に燃やせるのでは?」
「……そうですね」
「うむ、以上を踏まえて聞いて欲しい。ラエルくんを闘いに行かせたくない人物が居るとしよう。少々暴力的な思考になってしまうが、彼女を前線に立たせたくないなら今日この日に再起不能にしてしまえばいいと思わないかい?」
「それは……考えはしても、してはいけないことです」
「ああ、その通りだね」
それでも、これは有効な手段のひとつなのだ。
精神的あるいは身体的な理由で戦えなくなれば、彼女が前線に立つことはなくなる。
少女は蟲と対面することなく、事態の収拾を待つことになっただろう。
(恐らくトカ殿は、それに近い状況を作り出そうとしていたのだろうね)
そんなことをすればラエルからは嫌悪されるだろうし、現状のように周囲から非難されることにもなるだろう。当たり前に、トカも分かっていたはずだ。
それでも彼が、その状況を作り出すためにハーミットとの対立を利用しようとしたのであれば……一連の騒動の説明がつくように思う。
唯一の誤算があったとすれば――そんなにも大事にしている相手が「自分の方が蟲になった方がよかったんだろう?」などと
(何とも身勝手だが……同じような状況で、娘や孫に同じような言葉を口にされたらと思うと……私は、胃を握り潰された心地になる)
その心中を計ることは、レーテにはできない。
「トカ殿。貴方は、ラエルくんの言葉を否定せずにいられなかったのでは?」
「違う」
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