283枚目 「遊糸の行先」
黒い板張りの小屋の横、食事のために広げられた敷物と組み立て式の野営セット。それらで温めたパンとトマの豆煮込みが、人数分の器に盛られて配られる。
賊の三人は器を渡された瞬間こそ興味深そうに豆とトマを見ていたが、一度口にした後はがつがつと無言で食べ進めていった。
量は作ってあったものの、早いペースで食べれば一瞬でなくなるもので、今は三人とも空になった皿を穴が開くほど眺めている。
隣で何かを飲み込む音がする。白魔術士ツァツリーだけは咀嚼の重要性を分かっているのか、単に味わっているのか、もくもくとトマの豆煮込みを口にしていた。
ラエルは日陰で水を口にして、トカが走り去った山の方を見やる。
複雑な心情とは裏腹に、空は晴れ渡っていた。
(……あまり意識していなかったけれど、この山の反対側は白砂漠だったわね)
白塵舞う砂の大地。
地図から消された君主国を囲うようにあった、砂丘の波模様。
柱のような氷の間欠泉と、目を潰すほどに輝く純白。
三人で、力を合わせて生きていた思い出。
(…………)
これ以上考えると、堰き止めているものが溢れてしまいそうだった。
ハーミットたちがトカを追って行って、暫く経つ。過ぎる時間が遅いように感じられるのは彼らの帰還が待ち遠しいからなのか、逆なのか。ラエルには分からなくなっていた。
昼食時にいつも会話をするノワールも、今日はいつの間にかいなくなっている。多分、ハーミットたちに着いて行ったのだろうと思う。逃げたトカを追う為とは言え、馴染んだ会話相手が居ないというのは寂しいものがあった。
日に二食が染みついているラエルは、食事をしている四人からほんの少し距離をとって鍋を空にしたばかりの彼らを観察する。食事の輪を作っているのはラエルを合わせて五人だが、会話がないだけでこうも静かなのか、と思った。
ジェムシが皿の残り汁をパンで吸い取って口に運ぶ。
四人の中で一番表情豊かな彼が、咀嚼の瞬間に眉間へ皺を寄せる。その様子は、一周回って苦し気にすら見えるものだった。
(……水が必要かしら)
思い立ってから行動に移すまで数秒もない。ラエルが水筒を持って駆け寄ろうと腰を浮かせると、ジェムシは眼を瞬かせて両腕を体の前に出して大きく振り、同時に首を横にも振る。
「むぐぅんく。ち、違う違う違う、ただその、食べきっちまうのが名残惜しくてな!」
「そ、そうなの? それならいいけれど……あまりにも誰も話さないから、調味料でも間違えたのかと思って心配だったの」
「は!? 有無を言わせない美味さだったんだが!?」
最後のパンを飲み込んだジェムシは何故か怒り気味に言いながら、空の皿をラエルに見せる。
なるほど、朝食を共にした面々と比べても誰よりも綺麗に食べきっていた。口に合ったようで何よりだが、黒髪の少女にしてみれば何をここまで感動するのかが分からない。
戸惑うラエルに対し、ジェムシは真面目な様子で言葉を続けた。
「いや、だって、これ豆だろ? 煮込んだ豆が美味いって、それはもう革命じゃねぇの?」
「?」
「?」
お互いに首を傾げ合う二人に、ツァツリーが「ふ」と息をつく。黒曜は半眼になって「呆れた」と言葉が後に続いた。
「ジェムシ。まさか
「……みまだら?」
主食なのだから素朴な味でもするんだろうかとラエルは予想したが、二人の反応を見る限り認識に多少のずれがあるようだ。
「第四に行く機会があればぜひ食べてみてください。世界の料理がどんなに素晴らしいかが分かると思います」
「ツァツリーさんがそこまで言うなら機会を見つけて探してみようかしら」
「探すほど良いものではありませんよ」
「そうなの?」
「はい」
「……即答するほどなのね。ますます気になるわ」
「あー、まあ、好奇心もほどほどにな」
ジェムシは皿の回収を始めるが、腰を上げようとしたラエルはツァツリーに引き留められて動くことができなかった。どうやら、ジェムシに任せろということらしい。
立ち耳の獣人ファレは器を丸太椅子に置き、自分は草の上でごろごろしていた。皿をきれいにまっさらにして――いや、洗ったように色染みひとつ残っていない。どうやら皿まで舐めつくしたようだ。大柄な体格を生かしてファレが入る影を作っていたクリザンテイムに至っては、仕上げに太い舌でひと舐めであった。
「…………」
「んにゃぁ。けぷぅ」
「おっ、クリザンテイムが美味かったってよ。ファレも腹いっぱい食えたみたいでよかったぜ。こいつ好き嫌い激しくて、ここのところ肉しか食ってなかったからさ」
「無理もないでしょう。彼の料理は一種の薬草鍋でしたから。身体に良いとは思いますが」
「……そうね。でも、今は食べられるものだけで煮込んでいるからましかもしれないわ。少し前なら、
ず。と、水を飲み込むラエル。
その場にいた全員から物凄い眼を向けられたような気がしたが、浮島で人とかかわるようになってこのリアクションにも慣れてきた気がする。
「と、
「身になるかは知らないけれど、ハーミットは薬の材料にもなるって言ってたわね。飢えを満たすために食べるものではないと思うけれど」
「味の感想は?」
「焼いた炭」
ラエルが真顔になって言う。
ジェムシは飲みかけの水で盛大に噎せた。
ひいひい言いながら復帰するも、腹からこみあげる笑いは止まらないらしい。ファレもクリザンテイムも無言のままで、ツァツリーまで何も言わないところを見ると
「っ、ふ、くくくく……っやっぱ、
「?」
「いやぁなぁ。さっきの今で、よく雑談が成立するなって思ったんだよ。見た目にそぐわず肝が据わってるよなぁ。それとも、目を逸らしてるだけか?」
水球が皿を洗う。器に染みていたトマの実の赤色が透明だった水を汚す。
ジェムシは濯いだ皿を乾かして椅子に積み上げた。人数分の匙と器、パンがなくなった籠。
「……できれば、正直な感想を聞かせてほしいんだがよぅ」
「感想?
「いいや」
白髪の青年は閉口して、その続きを口にすることは無かった。
言わずとも分かるだろう――とはその通りで、ジェムシが何を聞きたがっているのかはラエルも察している。
けれど。自信をもって即答できるほど、心の整理がついているわけでもない。
「……何も思っていないわけじゃないわ。考えている途中よ」
「何を?」
「雷を落とすのが先か、不満を言うのが先か」
ラエルは、ハーミットほどトカに怒りを抱いているわけではない。
ただ、あの場でトカにひと泡吹かせるためには「あの言葉」が適切だろうと思っただけであって。その想定が見事に的中した場合の展開を、予測できなかっただけであって。
「私だって、悪かったと思っているわ。酷いことを言っちゃったなぁって。でも、心のどこかで納得しているの。あの人が口にしたことは理にかなっている。あの人が私の実父でないなら、私を無理に守る理由なんてない。愛した相手を優先するのは普通、でしょう?」
罪悪感と、不満と、泥のように纏わりつく無力感がある。
「だから、強いて感想をあげるなら……『そうなんだ。それで?』って感じなのよ」
本当は。諦めて、しまいたい。
母親のことを考えるのも疲れた。父親のことを考えるのも疲れた。
魔導王国のことを考えるのも疲れた。故郷のことを考えるのも疲れた。
他者の生き様に思い悩むことに疲れた。他者の信念に反抗することに疲れた。
知ることに疲れた。思い知ることに疲れた。
どれも間違っているなら。何も、選びたくない。
でも、選択の責任すら放棄してしまったら「ラエル・イゥルポテー」という個人がなくなってしまいそうだ。欠けた感情の先で、憶えのない過去の自分すらも風化して無くなってしまいそうだ。
もしかしたら、魔導王国やイシクブールで経験したことすら無意味になるのかもしれないと思うと。
ラエルは何故だか、「嫌だ」と思ったのだ。
嫌だから。耐えられないから、耐えている。
……耐え続けた結果が、今なのだが。
(例え親として慕ってきた相手が、私のことを、何とも思っていなかったのだとしても)
ラエルは、それを受け入れるつもりでいる。
ジェムシは、少女が俯きながら言ったのを聞き終わると顔を上げた。
「そうか。あんたはそれでも悩むんだな――俺は、トカさんは一発ぐらい殴り飛ばされて当然だと思うんだが」
想定外の方角から飛来した提案に、ラエルは眉根を寄せた。
確かに暴力でことを収めてすっきりするのは、楽な選択なのだろう。
でも、それはラエルが「よし」とする行動ではない。
重要なことは、悩んで悩んで決めなければ、意味がないのでは?
「意外だって顔をしているな。というか、まさかラエルさん、あんなに酷く言われておいて丸くおさめるつもりなのか? 育ての親だろうが親の振りした他人だろうが、刷り込まれた信頼を今更勝手な都合で裏切られてムカつかねぇの?」
「……」
「愛情と暴力は同時に成立しないだろう。俺はトカさんに助けられて恩を感じてはいるが、先の言動はどうしたもんかとは思っているぞ」
「そうなの」
「ああ、その辺りの線引きはある。やべぇやつはやべぇし、ずれてるやつはずれてる。身内だろうと他人だろうと恩人だろうと、そこは変わらん」
ジェムシは錆浅葱の視線を逸らす。彼の視線の先には、草が生えた上で昼寝を始めたファレのしっぽと、丸太を削って何かを作っているクリザンテイムの姿があった。
耳が良い彼らのことだ、今ラエルたちがしている会話の内容を聞いて、各々意見はあるだろう。けれど彼らが口を挟むことは無かった。リーダーらしいジェムシが総括して意見を述べているのか、単に話す気分じゃないだけなのか。
頭の高い位置に結ばれた白髪の毛先が、きらきらと風に揺れている。
「……そうだ、誰だってな。均衡を崩すきっかけに『自分が』なることを恐れるんだ。だから、外からやってきたあんたらが引っ搔き回して台無しにしたこの数日を意味のある時間にしてくれねぇと俺は困る。ラエルさんには、せいぜい責任を負って頑張ってくれねぇとだな……」
「……」
「……」
ツァツリーが無言で立ち上がり、無抵抗のジェムシを「べちり」と叩いた。
青年は舌を出しておどけながら、続いて
「……ええと。途中まではいい話だと思っていたけれど、よくよく聞くと傲慢というか、貴方も大概強欲ね?」
「そ、そりゃあな。欲深くねぇで誰が盗賊なんてやれるよ」
「考えてみれば、そうね。そうだった」
そう。これは誰かを巻き込むような問題ですらないのだ。
育ててもらった子と、自らが親だと嘯いて子を育てあげた大人との、問題なのだ。
ラエルは肩の力を抜く。
腹から呼吸を数回、肺の空気を根こそぎ入れ替える気持ちで深呼吸する。
(……欲深く、ねぇ)
ラエルは、この場に居ない針鼠の少年のことを想起する。
発言の内容からして、捻くれた言葉ながらもジェムシはラエルの意思を尊重しようとしてくれているのだろう。
紫の目をゆったりと瞬く。貼りついていた喉が潤いを取り戻し、呼吸がいっそう楽になる。空の眩しさを目に入れても、痛みを感じることはなくなっていた。
ラエルは自らの頬を軽く叩こうとして、辞める。
「……ジェムシさんは、あの大蟲を殺すべきだと思う?」
「身内の仇だからな。申し訳ないが、それだけは譲れない」
「そう。今、聞けて良かったわ。答えてくれてありがとう」
ラエルは無理に切り替えを図らなかった。代わりに、今できることをしようと決めた。
今夜には出さなければならない答えの為に、自分には何ができるだろうか。
(つらい、けれど。今だけは、私だけは、考えることを止めちゃいけないと思うから)
……何を選びたいかなんて、初めから決まっていたのかもしれないけれど。
ラエルは暫くの無言の後、懐から黒鞘のナイフを取り出した。
この武具がどういうものなのかは、商人二人から既に聞き出した後だった。この一見変哲もないナイフを上手く扱えば、非常時の戦力増強にひと役買うだろうことも――そう扱った時点で、トカたちが定めた
けれど、冷静になって考えればおかしい教えだったのだ。
何故ラエルに魔術を教えたのに、発現を安定させる方法をとらせてくれなかったのか?
少女は鞘を取る。
抜き身の刃に
「……ツァツリーさん」
「はい」
「あの人たちが戻って来る前に、このナイフの使い方を私に叩き込んでほしいの」
染みつくほど叩き込まれた教えに反抗する意思を固めた黒魔術士に対し、白魔術士は頷くことも了承を口にすることもしなかった。
代わりに、無表情の唇が綻ぶように開かれる。
ツァツリーは、どこからか現れた斧棍を掴み取った。
「それでは、実践形式で学びましょうか」
「ええ。よろしくお願いします」
重い斧棍の先が、まだ新しい黒靴が、地に跡を刻む音がした。
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