289枚目 「杖に足る刃」
数刻前。
黒鞘のナイフを見せて教えを請うとツァツリーが斧棍を取り出したので、尻尾取りの七回目と同じように「手合わせ」になるんだろうと早合点したラエルは踵を返し、歩き出そうとしたところで足払いを食らいずっこけた。
目元も眉も口元も何一つぴくりともしていなかったものの、ツァツリーは武器を取り出しただけで戦闘になると判断されたことに遺憾の意を表す。
「忘れているようですが。私は白魔術士ですよ」
「実践って言うから……」
「私は温厚な白魔術士です」
「……」
「事実に対して疑いの眼差しを向けないでください」
そうして促されたラエルは、鞘ごとナイフを手渡す。
ツァツリーは黒鞘を一通り観察した後、剣身を前に目を細めた。
「
「グリッタさんとレーテさんもそう言っていたけれど……珍しいものなの?」
「どうでしょう。
仄かに青みを放つ剣身が、黒鞘に飲み込まれて消える。
因みにラエルがこのナイフを見せたところ「鑑定資格がないので詳しいことまでは分からない」と言われたばかりである。使い方も人それぞれで、とりあえず魔力をこめるといいんじゃないかとも言われている。
(それを一目で看破するなんて。ツァツリーさんって何者……?)
ラエルには益々ツァツリーが何者か分からない。ただの白魔術士ではないのだろうが、賊の一人と知り合いだったことも含めて深く気にすると負けな気がする。
解けない疑問よりも、まずはこの魔法武具について考えよう。
(キーナさんの色彩変化鏡とか支給のゴーグルーとか、ポフの内装のことも考えると、このナイフにもあれこれ仕込まれていたりするんでしょうね)
もしそうならマツカサ工房にて毎度おなじみの説明量にも頷ける。再び機会があればベリシードらの説明を端から端まで録音してみようかと思うラエルだった。機会があれば、の話だが。
(それにしても……私が
「含有量も控えめなので剣身もそう簡単には錆びず折れず曲がらない。耐久には不安がありますが。誰でも適度に使いやすいバランス型といったところでしょう」
「……
「刃物なら、物がよく切れますね」
「そう。杖なら?」
「通常より重さが増すので一撃の威力が高まりますね」
「物理的ね」
「なにか不都合でも?」
そうなるとラエルは困る。
武器の打ち直しや新規調達の手段が取れない以上、このナイフで立ち回るしかないだろうし、そうなると当初の予定通りナイフ術を磨く以外に手がない――。
そこまで考えて「ふむ」と何も疑うことなく頷いたラエルにツァツリーは固まって、隣で聞くだけだったジェムシが水を飲み込み損ねて咳き込んだ。
「いやいやいやいや、他にも使い用があるに決まってるだろ!! 流されるな!!」
「え。い、いや。だってツァツリーさんが嘘を言うなんて」
「嘘を吐かなくても人に誤解させることはできるんだよ……! というかテメェもだテメェ! 真面目に教える気あんのかよ!」
「…………」
「沈黙は肯定とみなすぞ!?」
ツァツリーは咳払いをしてジェムシを無視すると、ラエルを見据えた。
瞳が伺えない真黒の瞳は暫く少女の反応を観察していたが――満足したのか、ふと息をこぼす。
「失礼しました。先日は魔術発現に魔法具の類を使用しないように教わったと聞いていたので。その辺りの踏ん切りはついたんですね」
「……ええ」
「分かりました。それではこのナイフの『使い用』を教えましょう」
ツァツリーはラエルに黒鞘ごとナイフを返し、自身の斧棍を抱え直す。
真鍮を思わせる輝きが黄銅色に混ざり、鋭くも鈍い光を放つ。
「端的にいいますと。こちらの
「――
左から弧を描くような鋭い銀閃。針鼠の少年は身を逸らし剣先を躱す。
青く仄かな光を纏うナイフ。その魔力の流れは少年の目にははっきりと届かず、鈍い発光としかとらえられない。
魔力可視を底上げできるゴーグルーを使えば或いは、ラエルに支給されたナイフが
その証拠に、ハーミットはラエルが
(
その「もしも」が、起きていないことが救いである。
ハーミットの動きが鈍ったのは『
丁度良く雷をため込んだ背針を手札として使おうものならあっという間に勝負がつくのだが、ハーミットは剣はおろかナイフを抜く様子すらない。
ラエルの練習台になるには今ぐらいが丁度いいと判断したようだ。
鼠顔の下、少年は皮肉から零れた笑みを噛み殺す。普段通り、張り付けたような屈託ない笑顔を心がけながら口を開いた。
「……うーん、結構さまになってるね!」
「っ、く、人の全力を、軽々避けながらよく言うわね!?」
「ははは。初撃の『
「っ、分析なんて余裕ね!?」
「俺も、やれることをやるって言っただろう?」
ラエルの踏み込みを確認して、ハーミットが右足を引く。半身になった身体を沿うように剣筋が下りて行く――硝子玉に黒髪がはためき細い首が映る。
背中ごと、がら空きだ。
「ラエル、その体制からナイフ振りあげなよ、右斜め正面に」
「はあ!?」
そう振り下ろした直後に言われてラエルは思わず身を捩る。ハーミットのいう通りに動くのは癪だが何か考えがあるのだろう――と、そのつもりで用意していなかった軸足は滑り、視界を空が埋め尽くした。
黒髪が地面につく前にナイフを持つ右腕が掴み取られ、引き起こされる。
「あぁ。いきなりは身体起こせないか、そうだよな。踏み込みが足りないし」
「な、何を言うかと思ったら、危ないじゃないの!」
「いやぁ、これ前にも言ったけど。君、腕を振り抜いた後の隙が大きすぎるから……その調子だと首を狙われると思うんだよね」
ハーミットはラエルを解放して、ひらひらと赤手袋を振った。
「ナイフ術も格闘術もすぐに身に着くものじゃあない。俺を見て動きを盗んだところで、単調な動きを繰り返すだけだと相手に次手を取られることになるよ」
「……つまり?」
「君がそれを武具として扱うには練習量が足りない。そして、今から鍛える時間はほぼない」
「……杖としてなら?」
「んー、君がそのナイフを握ることで魔術を放ちやすくなっているなら十分な
黒髪の少女は息を呑む。
それはそうだ。元々砂魚や砂虫といった自然の生き物を相手にしてきた少女が、この数か月でいきなり対人戦や武具の達人になれるわけがない。
何かできることが欲しくて、できるだけのことがしたくて。動かずにはいられないから動いている――そのようにがむしゃらでは、届く刃も届かない。
それは、ラエルもハーミットも嫌というほど思い知っていることだ。
「よし。趣向を変えよう」
口を噤んだラエルに対し、ハーミットの判断は早かった。
立ち上がった黒髪の少女は不安そうにしながらも、硝子玉の目を覗きこむ。
「趣向?」
「さっきまでラエルが攻める役だっただろう? 逆にしてみようよ。ナイフでもなんでも使っていいから、地面に背中がつかないように防いでみて」
言って、ハーミットは拳を解く。
腕と膝を折りたたみ――まるで蟲の脚のようにする。
「え、ちょ、ま」
「敵は、律儀に待ってはくれないよ」
ラエルが瞬きを一つすると、次の瞬間にはハーミットの鼠顔が眼前にあった。打ち出された右手は手刀で、畳まれていた腕から長いストロークを経て頬をかすめる。そして、直ぐに左ひざが放たれる。
「っ!?」
蹴り上げを鼻先すれすれに避け、黒髪の少女は一、二歩後退する。着地した針鼠はその膝をバネに、再び少女へと奇襲をかけた。
いつ抜いたのか、少年の手にもナイフがある。
「――~~~~っ!!」
ラエルは突き出された刃を反射的にナイフで受け止めた。金属が擦れる。力勝負では押し負けると判断して相手のナイフの軌道を逸らし、距離を取った。
冷たい汗が頬を流れ落ちる。手汗と痺れでナイフを取り落としそうになる。
(明らかに手加減されてるのに……たった一度受け流しただけで、こんなに重い……!!)
相手がハーミットだからというのもあるかもしれないが、どうにも調子が出ない。しかし陰った紫目に、少年は朗らかな微笑みを返す。
「ん、今の動きは良かったよ。ラエルは防ぐ方が得意なのかな」
「褒めてないわよね!?」
「こんな時に嘘を吐いてどうする。褒めてるよ」
ハーミットは言って鼠顔を後ろに外す。暑かったのか更なるハンデのつもりか――それとも。
西日が琥珀に赤を足す。
「さ、続きをしよう。時間が来るか、君が満足するまでね」
「……もしかしなくても、全部わかった上で受けてくれたの?」
「そうなるかなとは思ってた。それとも、もう
「…………『
「どうぞ」
ラエルは礼を言って、瓶をひと息にあおる。返した手で太ももにあった鞘を抜き取ると、手と繋がった魔力糸はそのままにナイフを収めた。
手首に巻いていた紐を解く。髪ではなく、鞘を腕に括りつける。
これで、ラエルの両手はあいた。冷えた指の感覚と、震えがはっきり見て取れる。
赤い腕輪に似た傷の根が熱を持つ。
ぐらぐら煮えるような行き場のない熱。
期待ではない。歓喜でもない。
「――それじゃあ遠慮なく、反抗期を頑張らせて頂くことにするわ」
「……はんこうき?」
この感情に名前をつけるなら「憤り」だろうか。
「ええ。えぇ、そうよ、反抗期!! 駄目って言われてきて、全力でやったことなんてないし行き当たりばったりだからどうなるかなんて分かんないけど!!」
「割と不安になることを言うなぁ!? って、え。あれぇ……?」
ラエルは両腕を広げた。
魔力圧で空気が歪む。周囲に熱が伝わる。
鞘に納めたナイフの輝きが増し、纏う光質が明らかに変わる。少年の目にもはっきりと確認できるほどに強く青い光を放つ。
ラエルは震える指を抑え込みながら拳を握り、紅潮した頬を隠すようにする。
ハーミットはポカンとして、赤手袋で口元を覆った。
「えっ、もしかして――まだ
「……っ、ええ……!!」
「なるほどぉー、まじかぁー」
言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうに口の端を歪めたハーミットが構えを取る。ラエルの紫目が輝き、あっという間に臨戦態勢に入る。
そうして合図もなく、暗黙の了解で少女は駆けだした――金糸を乱し、少年は全力で応じる。
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