178枚目 「紫苑は憂う」


 地下道の地面はじんわりと湿っていて真夏日に食べる氷菓子のように、ひやりと冷たい。


 その中で金髪少年は黄土色の琥珀を伏せ、色が抜けた唇を震わせる。

 皺を寄せた眉間を赤いグローブで押さえて隠し、視線を地面に向けたまま口を開いた。


「……え、っと。待ってくださいアステルさん。貴方の旦那さんって数年前に行方不明になってたんじゃ?」

「ええ。はそうですが」

「書類上、婚姻関係も解消してないですもんね?」

「ええ。行方不明になって長いとはいえ、死亡届は出していないですから。彼とはまだ婚姻関係ですわね」


 にこりと笑うアステル。

 そう、そこまではいいのだ。何も間違っていない。


「……ネオンさん?」

「はい。子どももいますよ?」


 養子縁組というわけではなく。夫。


「なる、ほど。時間を下さい。どうにか飲み込んでみせますので」

「あ? 一妻多夫がそんなに珍しぃのかよ」

「サンゲイザーは黙っててくれ」


 茶化すようにケタケタ笑った蜥蜴の獣人に青筋を浮かせながら、わなわなと顔を上げる。

 ここでサンゲイザーのペースに乗っても何もいいことはない。突発的な怒り感情を抑え込むために、少年は深く息を吐いた。


「……提出された書類にはシンさんの名前しか記載がなかったんですが」

「ああ。それはまあ、ネオンはシャイなので情報提供にあまり協力的ではなくって。戦後すぐは血の種類を調べる検査をする余裕もありませんでしたし、ないものはないので提出していなかったのです。その後、なあなあになって忘れてしまっていましたわ」

「その心は?」

「うふふ」

「『うふふ』じゃあないんですよアステルさん……!?」


 立場上、立ち寄る町の情報は嫌というほど仕入れてから訪れているハーミットには、急に目の前で開かれたブラックボックスが厄介に思えるのだろう――箱があることも知らず、しかも既に暴かれているのだから責めようもないのだが。


(これだから商人……いや、スカルペッロ家の人は苦手なんだ……)


 栗髪を手櫛で整えながら、アステルは両眼を薄く開く。


 網膜ごと眼球を負傷した結果失明したその視界に、光は映るのか、影は捉えられるのか。

 思えば、そのような些細なことですら金髪少年は知らないのだった。


 ……爪を立てかけた手のひらを意図的に開く。


 アステルはハーミットが落ち着いたと見るなり、人差し指を口元に寄せた。


「まあ、そのような冗談はさておき。かつて、ネオンとわたくしは恋愛結婚を企んでいました。わたくしは目が見えないので、書類提出などはどうしても彼に頼ってしまっていて。恐らく、彼は私のお腹に子どもができていると知らなかったのでしょう。だから提出しなかった」


 結婚していないアステルの胎に子どもが居ると分かったとき、スカルペッロ家の人間は大層驚いたに違いない。


「使用人と令嬢の恋物語は世に溢れていますが、それが現実となれば話は変わるものです。話し合いの末に子を成すならともかく、ですわね」

「……そうですね。事実、貴方は一子を産む前にラールギロス姓になっている」

「ええ。それもわたくしが子どもを産む直前のこと。訴えれば勝てるような政略結婚ですわ」


 結婚していない令嬢が子を孕んだ。その事実を隠す為にあてがわれた婚約者――国を捨て、行き場もない白き者エルフを、スカルペッロ家は屋敷に引き留めた。


「勿論、喧嘩も抗議も抵抗もしましたし、駆動を手にお母さまたちの寝所を襲ったこともありますが。あの頃は姉さまも妹も同じ屋敷に住んでいましたし、全て未遂に終わりました。止めて下さった中には、ネオンとシンもいたのですよ。あの二人は仲が良かったみたいで……それに」


 アステルはそこで一度言葉を切る。言葉を選んでいるのか、誤解として伝わることを恐れるような振る舞いだった。


「わたくしは――事情を知りながらも、産まれたあの子に精一杯尽してくれる彼を、愛しいと思いました。重婚はその結果に過ぎませんわ」

「いえ、重婚は構わないので後で書類をしっかり出してくださいお願いします」


 押し気味の言葉に、アステルは濁った瞳を丸くする。何か処分があるとでも思っていたのか、悪いことをした自覚があったのかは定かではないが……最後は呆れたように苦笑した。


「あらあら。懸念事項がすっかりお役人さまのそれですわね?」

「書類未提出に振り回される現場が阿鼻叫喚するのを嫌というほど見て来たので……」


 ハーミットは頭痛がする額をぐりぐりとマッサージすると、思考を進める。


 使用人ネオンが今回の一件をかきまわしていると分かった以上、打てる手は全て打つべきだと判断する。身体の調子が悪いとか、片付ける問題があまりにも多いとか、そのような弱音は後回しにするしかないだろう。


 サンゲイザーは眉間の皺を解かない金髪少年を物珍し気に眺め、瞳孔を開く。


「しゅるるる。あのさぁ」

「なんだい」

「そのネオンってやつ、お嬢さんには愛されてんだろう? 会議で見た限り、異父子である灰髪の小僧とも険悪じゃあねぇし、屋敷内でそれなりの信用も積み上げてるときた。そんな奴が、どうしてここまでやるんだよ。祭りをぶち壊してまですることが、雷を落とすだけってかぁ?」

「……」

「動機次第じゃあ、割と真面目に殴りに行きたいんだが」


 ちりちりと、焚き木が燻る様な殺気。ハーミットはサンゲイザーと視線を交わすが、蜥蜴に退く気は毛頭ないらしい。「ばきり」と、爪で破られた手袋の内側から骨を鳴らす音が聞こえた。


 一方でアステルは右足を組み会釈する。

 その方向にサンゲイザーはおらず、壁があるだけなのだが。


「いいですよ。死なない程度なら、幾らでも」

「あぁ?」

「彼はそれだけのことをした、ということですわ。因果応報、鉄拳制裁、何も間違えたことはありません。そこにいらっしゃる魔導王国の役人さまが目をつむって頂けたら済む話です」

「いや、見逃しませんが?」

「まあ。頭が固いお役人さまですわ。今この一瞬すらも、彼の手のひらの上だというのに?」


 ハーミットはその言葉を聞いて閉口する。確かに、この場で足踏みする時間すら惜しい。体調が許すなら一人で本邸へ突っ込んでいくところだった。


「……しゅる。おい、分かるように説明しろ金髪。仮にも協力者だぞオレは」

だろう? 一応、貴方がネオンさんに情報を流したんだってことは首領さんから聞き出して把握してるけどさ。堂々と裏切られた後に信用できると思うか?」

「っぐ……いやいやいや、ついさっき雷雨から身を挺して庇ってやったことを忘れたのか!? オレ、あんたらの命の恩人!」

「だとしても、貴方が俺たちに協力しようとする『動機』が分からない。そっちこそ賊の構成員を一人でも多く救出しようとしてるんじゃないのか? 第三大陸はともかく、魔導王国に捕まったら二度と外の土は踏めないしな」

「んなのお前らには関係ないだろうが!?」

「イシクブールと魔導王国はともかく、捕まえた俺には関係があるんだよ……!」

「まあまあ、お二人共落ち着いて下さいませ。こんな狭い場所で争っても碌に発散できませんわ。もし闘り合うというのなら雷の雨に打たれながらどうぞ?」

「……」

「……しゅるるる」


 今にも取っ組み合いそうになっていた男二人組は納得いかない様子で身体を離し、対角線上の壁に背をつける。


「そもそも、どうして貴方は町長の護衛を外れたんだ。あの場に残っていれば、ネオンは捕獲できたかもしれないのに」

「護衛じゃなくて日傘・・な。……言っただろ、気がついたら落ちてたんだ。正確には、お前らを襲った初撃の雷魔術が止んだあとに、屋上からどつき落とされた」


 蜥蜴の獣人は目を細める。地面の湿り気で、手袋と服が汚れていた。


「『アステルとキーナを宜しくお願いします』ってよ。一方的だぞ。受け身とってなきゃあ背骨か尻尾が逝ってたところだ! でもってあの様子じゃあ、そこのお嬢さんが懸念してるような理由を知ってるんだろうなぁ? けっ!」

「……理由を知っていたから黙っていた。指示を出さなかった、と?」

「しゅるる。結果は雷の雨だがなぁ!! 一体何を懸念してたんだか!!」

「…………」

「なんだその目は」

「裏取引をしてたのは許せないけど、実質そっちにも裏切られてるみたいだからいいかなって思い直したんだよ。敵の敵は味方、って言うじゃないか」

「お前、敵の敵は敵って言葉知ってる?」

「うん」


 ハーミットはサンゲイザーの投げやりな言葉に首肯する。同時に、ずっと謎に思えていた事実が氷解した。


 町長らが、催涙雨で町が混乱に陥った際も放置した理由。

 スカリィたちが町長の立場にあるにもかかわらず全く動かなかった理由。


「邪魔だったんだ」

「?」

渥地あつしち酸土テラロッサも魔導王国の役人も商人も観光客も住民も衛兵も邪魔だった。単純に、邪魔だった。町の上から退いて貰う必要があった。雷の雨を降らせるために」

「しゅるるる。だから、どうしてそれが雷に繋がるんだよ」

「……雷系統魔術は、最も身体に負荷をかける魔法系統だとされている。魔力導線を酷使するし、術式を組むにも難度が高い。出力に反して魔力を食うから、発現できても出力調整が難しいし何より燃費が悪い。他の系統より優れている点と言えば『素早さ』くらいのものだ」


 人族の中で魔力値が高いとされるラエルですら、扱っている雷魔術は「中級」。

 「上級」の雷系統魔術となれば、魔族でも発現と維持に手こずるだろう。


「……けれど、白き者エルフが使うとなると別の意味を持つ」


 ハーミットは赤手袋の指を組む。琥珀が俯いた。


「彼らにとって魔術は乱発するものじゃあないんだ。身体に負荷がかかる魔術を乱発するなんて、血中毒まっしぐらか魔力導線の切断が起きるか――晶化の進行を早めるか。そのどれかだよ」


 晶化。その言葉を聞いて、アステルが顔を背けた。

 蜥蜴の獣人は納得したのか、していないのか。不機嫌に尻尾を揺らす。


 愛があるのに。満たされているのに。それ・・を選ぶことが許せないと言いたげに。


「そのために、あいつらは毒を持ち歩いてるんじゃなかったのか」

「……第四では自殺が禁じられている。第二や第一はともかく、第三では人に害がある薬物は簡単に手に入らない。売買が禁止されているからね」

「……しゅるるる」

「俺は止めにいく。『強欲』は、その為に居るようなものだ」


 金髪少年は立ち上がろうとして失敗する。


 地面に着いた手の感触が無い。震えが止まらないところをみれば、どうやら薬の効果がすっかり切れたらしい。これではナイフの一つも握れないだろう。


「しゅるる。威勢がいい割には満身創痍だなぁ?」

「……どの道アステルさんとサンゲイザーを二人きりにするわけにもいかないんだ。戦力が集まるまで、この場を動くつもりはないよ」


 浮きかけた腰を再び下ろすと、先程より深く背をつく金髪少年。

 香水と薬草と血が混ざった芳香が鼻を掠めて、蜥蜴の獣人は嫌そうな顔をした。


 毒が抜けきらない腕の片方は明らかに賊の過失なのだが――サンゲイザーは果たしてそれを知っているのか、知らないのか――あざ笑うように歪んでいた蜥蜴の目がパチリと開かれたのは、その時だ。


 蜥蜴の獣人は徐に立ち上がると、壁から距離を取った。


「……」

「何かありましたか?」

「……しっ。ちょいと黙っててくれよ」


 サンゲイザーの鱗がばらばらばらと動き出す。威嚇行動だ。


 ハーミットはアステルの前に着く。暫くすると、足音が聞こえ始めた。

 人のものが一つ、二つ、三つ。そして羽音も。


 サンゲイザーは暫く匂いを嗅いでいたが、足音が近くなると戦闘態勢を解いた。


 イシクブールの地下道。その曲がり角を走って来たのは黒髪の少女と、灰髪の少年と、昔馴染みの蝙蝠と、教会に所属する人族の女性だった。


 黒髪の少女は金髪少年の姿を目にするなり、剣呑とした視線を投げるサンゲイザーを無視して嬉しそうに紫目を細める。


「――あぁ、こんな所に居た!! ハーミット!!」

「……はは。無事で何よりだよ、ラエル」


 状況は劣勢、再会に浸る余韻などない。


 けれど、少女が駆け寄って来る僅かな間だけ。ハーミットには溜め息を零すことが許された。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る