162枚目 「惟は望まれし」
鐘の音から半刻。
事情を知って待機している町の人々が「なんだ、今のは鐘の打ち間違いか」、「回数通りに鳴ったのを聞き間違ったんだろう」と各々解釈して店を回す頃になってようやく、スカルペッロ家の跡継ぎ候補キニーネ・スカルペッロ=ラールギロスはポフから姿を現した。
すっかり待ちくたびれた様子のレーテが本邸の屋上から腕を振る。
今日はラエルたちと同じ灰色のシャツに、サスペンダーの肩を外していた。
レーテが扱う結界術式はスカルペッロ家本邸の屋上に刻まれた魔術陣を起点に発現するものである。彼らは作戦が始まると同時に、町全体に結界を張る役目を担っていた。
キーナの木製リストバンドに、
『――随分と着替えが遅かったじゃないかキーナ。流石に肝が冷えたぞ』
「個人的な話題が盛り上がってつい。魔術の使用に支障はないよ、いつでも行ける」
キーナが頷きながら言うと、レーテは安心したのか屋上の内側へ行って見えなくなった。
梳き通された灰髪はきらきらと真昼の日を反射して、全身を覆っているベールがブワリと波打つ。
キーナは笑顔のまま、黒髪の少女とツノつきの青年を目に映した。
ラエルは何をしているかといえば、第一カフスまで閉じていた襟を開け、内側に提げていた紫色の
連絡をとるわけでもなく、ただ無言で胸元に仕舞い込む。
「……ごめんなさい。私のせいで遅くなっちゃったわね」
「いや、構わないよ。それじゃあ、ラエルさんは器の縁を抑えてて。ペタはこっち側宜しく」
ペンタスは目元に、キーナは左腕に巻きつけたゴーグルーをそれぞれ起動させ、
町長宅の庭に置かれた巨大な水がめには、
そして。
ペンタスは手元に何やら赤い瓶を取り出す。キーナとラエルと、顔を見合わせた。
今から何をしでかそうとしているのか、彼らはちゃんと自覚している。
三人組はもう一度だけ本邸の屋上から人が覗いていないかを確認して――残念ながらこの時、誰も彼らを止められる者はいなかった――三人の責任で、小瓶の中身を水がめにぶちまけた。
赤い細かい砂のようなキラキラしたものが、水がめの内側に消えていく。
ペンタスはひと瓶では足りないと思ったのか、事実足りないと判断して幾つも同じような瓶を取り出しては栓を開けて中身を放り込んだ。
ラエルより背が高いペンタスは、本邸の方から水がめの方を影にする。完全犯罪が行えるのは、立ち位置の都合により彼だけだった。
これまでいたずらの類をしたことがない彼にとって、この作業は非常に苦痛を伴うものであるが――ものの数十秒で水がめ一杯に沈んだ赤い粉末を前に、震える手で最後の蓋を閉じた。懐に忍ばせた鞄へ、空の瓶を投じた。
目を閉じる。深呼吸する。
ばくつく心臓がうるさいが、まだ何も起きていない。まだ、何も起きていないのである。
キーナは準備が整ったことを認めると後戻りできない現実に別れを告げる為、魔術書の錠を解いた。魔術書に挟まれていた銀の栞が形を変え、タクト状の杖となる。
「……準備は良い、ラエルさん」
「ええ。使う分だけ持っていくと良いわ」
ラエルの一言に、ベールの内側にあった青灰の瞳が丸くなる。
なんだ、緊張しているのは自分だけでは無かったようだと気づいた彼は、鼻を衝く香ばしさに目を細めた。
身に纏った魔法具に魔力を流し込む。防音魔術が発動する。
詠唱の内容は、外部に漏れない。
「僕の名前はキニーネ。キニーネ・スカルペッロ=ラールギロス――」
――『
キーナはゆっくりと水がめの底をかき混ぜ始めた。渦を巻くことで徐々に水面がせり上がり、器の壁を這いあがって来る。
赤や黒や黄色や、時々緑や白の粒粒とした粉が水の流れに乗って水がめの中を滞留する。水がめの縁をのぼっていた水の勢いは増し、遂には器の内側に零れ始めた。
(……正しいか正しくないかといえば、明らかに間違っているんだろうけど。これで被害が出たらそれは僕らの責任だけども)
――『
詠唱を重ねながら、もう一人の自分が見下ろしている。
この行為は空しいんじゃないか、無謀なんじゃないか。かえって人の迷惑なんじゃないか。
そう、理性的な自分が問い掛ける。
――
けれどキーナは否定する。
この場の誰よりも冷静な自分を否定して、感情を優先させる。
彼が危機に直面した際に出す結論は、決まって一つだった。
(やらずに後悔するのだけは、まっぴらごめんだ……!!)
――
少年の詠唱と
本来なら、ここで気を抜いて大雨を降らせるのだが――キーナは、上空に広げた素体の水を砕き、粒を粒子に近づける。地表に着くまでに風に乗るよう加工する。
(これが長年の不審者対策の成果……!! 思い知れ!!)
拳を眼前に突き出し、宝石のような青灰が魔力子の火花を散らす。
握っていた手のひらを開いた。
――『
その日。イシクブールに降り注いだ霧雨の色は、黄色く、赤く。確実に真水では、無かった。
まず違和感を訴えたのは子どもたちだ。
彼らは目がしばしばする、肌がひりひりするといって、親の服を引っ張った。
次に高齢者が喉が辛い、鼻が辛い、と呟きながら退却していく。
そして中年層と成人層、そして青年層。
目のかゆみと喉の痛みに悶えながら、何人もが空を見上げた。
町長宅での会議で異常事態時の対応法を聞いていた商人や衛兵たちも、たまらず屋内に駆け込み窓を閉める。
関所では、「土砂降りの雨で祭りを止める計画じゃなかったのか」とか、「この雨はあのスカルペッロ家がやったものなのか?」とか、「もしかしてこれこそ賊の報復……!?」と、深読みする者も現れた。
まさか町の住民は地元で可愛がっている噂好きの少年が犯人だとは思わないし、術者である彼が「一般人を狙って」魔術構築を行ったとは考えもしないだろう。
町から人は消え、あまりの事態に屋台は殆どそのまま放置となった。
石畳の上で呆然とする「何も症状が出なかった人間たち」は、互いに顔を見合わせて青ざめる。
彼らは、お互いの顔をよく知っていた。
何年もの間同じ釜の飯を食べ、何年もの間同じ悪事を背負って来た間柄である――つまり、
一般人をあえて狙うなど滅茶苦茶な作戦であることに間違いは無かったが、問題の賊たちは確かにこの瞬間をもって、イシクブールを覆っていた蚤の市の喧噪そのものからあぶり出されたのである――!!
「まぁでも普通は、
「めぇ……もし不発に終わったらどうしようかとおもってた……」
ラエルたち三人は、慌てふためく賊たちを植木の影から盗み見て、ほっと息を吐く。
これらの案は魔法具技師ベリシードが、時間稼ぎを名目に提案した作戦の一つを採用したものである。限りなくマシで、限りなく怪我が残らない、限りなく平和な案だ。
間違っても「つららの雨」を採用しなくてよかったとラエルは今でも思っているし、何ならキーナは「酸の土砂降り」の提案を「催涙の霧」にしたのだからかなり優しい。霧を選択したのは、手元にあった材料が多くなかったという点も要因ではあるのだが。
「人質を取られる可能性を限りなく低くするためとはいえ、普通に一般人を巻き込む選択肢を出して来る魔法具技師って……魔導王国の人間はすべからず脳筋な訳?」
「魔導王国の人間が脳筋思考なのか、浮島の人が異常なのか私にはもうわからないわ……」
「何も関係ないお客さんまで巻き込むなんて……罪悪感が……胃が……」
「避難誘導の手間が減ったと考えればいいのよ。私はそう思うことにする……」
水がめの素体にペンタスが投入していた赤い粉は香辛料である――それも、普段から持ち歩いている「対人用」の、丹念に臼でひいた粉末である。
数日前、肋骨の下で針鼠とグリッタを襲った子どもたち (とグリッタ)に、キーナとペンタスが食らわせた催涙液がこれだ。
この場に居る誰もが、まさかこのような形で使うことになるとは思ってもいなかったが。
「そういえば、ゴーグルーをかけていない僕には周囲の魔力がはっきり見えないけど、二人には見えてるんだよね?」
「……ええ。とは言っても、キーナさんが町に香辛料を撒いた後から風は止んでるわね。相当ショックだったのかしら」
「ひとまず情報収集の妨害には成功したってことになる、めぇ?」
「あまり油断はできないけれど、そうだと嬉しいわね」
ラエルは身を低くしながら、町の様子をじっと観察する。
屋上に待機していた町長夫妻はキーナの思惑を読んだのだろうか。当初の予定通り、町を覆うように半球面の結界を発現させたようだ。
人の厚みほどもある分厚い魔力の結界は町全体を覆い、賊が逃げ出すことを許さない。
蚤の市に浮かれていた石工の町は、この時をもって賊の面々の牢獄へと化した。
キーナは身に着けていた礼衣を脱ぎ、庭の隅に隠すと振り返る。
「よーし、それじゃあ早速、第一目標達成の為に動こうか」
「めぇ」
「そうね。上手く合流できるといいのだけど……」
彼らの言う第一目標。それは賊の鎮圧でも状況の解決でもない。
魔導王国四天王『強欲』――ハーミットと、キーナを速やかに合流させること、である。
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