87枚目 「分岐と選択」


 遠い。遠い所に、金色の髪が見える。


 目で測れば、それほど距離は開いていない。きっと、腕を伸ばせば届くのだ。


 けれど、手を伸ばそうと私がもがけばもがくほど、彼はずっと先へ行ってしまう。

 ああ、走らないでほしい。たちまち追いつけなくなってしまうじゃあないか。


 酷く心が痛い。水に浮いた葉の上を歩くように不安定だ。

 薄氷に閉じ込められた砂魚のような、限りなく死に近い匂いがする。


 指を伸ばして、それから声をかけようとして。思いとどまった。

 私は、無理に笑う彼にどんな言葉をかければいいのだろう。


 彼のことを何も知らないのに。彼が誰なのかも分からないのに。

 遠退いていく背中は、瞬く間に黒い霧に沈んで行った。







「お早い目覚めだね紫目しめの娘。寝心地はいかがだったかな」

「……最悪」


 全身に力が入らない。やけに背中が冷たいから何かと思えば、石の床に仰向けで寝かされているというだけの話だった。


「……『沈黙サイレンス』はかけないのね」


 首も動かせない状態で問いかけた黒髪の少女に「そうだね、会話できなくなるし」と、何とも言えない返答を返す男。


「……ここは何処。私は今、どうして貴方に拉致られなければならなかったわけ」

「一言で幾つも質問を貰えるとは、私も人気度が上がったものだねぇ。まあいい。全部答えてあげるとしよう」


 そう言うと彼は、ぱちん、と指を鳴らした。


 少女の身体に纏わりついていた脱力感が失せ、ゆっくりと身体を起こした。

 どさくさに紛れて魔法の使用を試みるも不発する。


「申し訳ないが魔法は封じさせてもらったよ。最近手に入れた魔法具に掘り出し物があってね」


 これ見よがしに魔力封じの札をひらひらとさせて、絵描きを名乗っていた魔族の男は振り返った。


 赤紫の髪に、全身を覆う苔色のローブ。


「貴方、まさかあの島に居た」

「ああ。そうだよ――君は覚えていないかもしれないけれど、結構間近で会話もしている」

「……」


 黒髪の少女は――ラエルは、靄のかかる思考をどうにか鮮明にしようと努力した。が、鮮明な記憶に辿り着かない。あのテントで確実に出会っているはずなのに、よく思い出せなかった。


 記憶力がないだけなのか、記憶に細工をされているのか。


「思い出せないのも無理はないさ。寧ろ、人族の魔力適正で認識阻害に抗える方が珍しい」


 認識阻害術式。

 人から見られる認識を曖昧にし、自らを他者の記憶に残らないように細工する禁術だ。


「……それ、人族だけを対象にしてるわけじゃあないわよね? 魔族の人の目にも留まっていなかったとしたら相当な魔術の使い手ってことよね?」

「さあ。その辺りはご想像にお任せするよ」


 男は言うと立ち上がり、黒髪の少女に着いて来るように促した。

 ラエルは眉を寄せながらも、その後ろについていくことにする。


「――さて、先程の質問への回答だが。ここは浮島の地下にある監獄だ。君は以前来たことがあるのかな?」

「監獄には一度だけ。でも、石造りの廊下じゃなかったわ」

「そうか。ならば殺しをしていない罪人と面会する階層だったのだろう。対してここは深い階層だ。最深部とは言わないがね」

「……妙に詳しいのね」

「昔、浮島に勤めていたからね。これでも人気のある騎士だったんだぞ?」

「人気があったのが本当かどうかは別として」


 黒髪の少女は魔族の男の後をつきながら腰元を探る。どうやら持ち物を取り上げられたりはしていないらしい。


「今は何処に向かっているのかしら。左を見ても壁、右を見ても空の檻が続いているのだけれど」

「……君に会ってもらいたい人が居るんだ」


 男は言って振り返る。細い目が少しだけ開かれ、鋭い三白眼になった。


 赤い宝石のような瞳だ。魔族特有の魔力量の多さからか、瞳の色は白く繰り抜かれたようになっている。


 目つきは悪いというのに、不思議と威圧感は感じない。先程不意を突かれて殴られた恨みは晴らさねばならないが、ラエルは一旦、戦意を振りまくことを辞めた。


「時間が解決してくれると甘く見ていたんだが、帰って来てみれば七年前と同じ場所に彼は居る――君が、何かの鍵になると嬉しいんだが」


 その口ぶりは希望にあふれていた。まるで黒髪の少女こそが生きる目標だったとでも言いたげで、しかしその視線は進行方向を向いてしまって、もう振り返ることはない。


 男が足を止めたのは、長い石床を突き当たった右手にある柵の前だった。


 一人の男が、一人だけ、広い檻に入っている。


 両腕を鎖に吊られ、両足を重りに繋がれ、首は壁に支えられ。

 細くて若い魔族だ。特に筋肉質という事も無く、かと言って不健康には見えない。


 虚空を一点に見つめるその様子が健康なのかと問われれば、甚だ疑問ではあるが。


「……ここの白魔導士は殺さず生かすのが得意だとみえる」


 男は持っていた白い本を開くと、赤い魔術陣を発動させた。

 火系統魔術の式の様だが、詠唱を用いないその使用方法から禁書に近い魔法具であろうとラエルは判断する。


 溶解した金属の柱を目にしながら、男は無言で鎖に繋がれた男を解放していく。

 溶けた金属が肌につかないように注意しながら、最後に首を支える鈍色の枷を解き放った。


 黒髪の少女は逃げる事も忘れ、ただそれを見ているしかなかった。この犯罪者の行動を咎めるべきなのか、よく分からなくなったからだ。


 自らを縛るものがなくなったと見るや、何か行動を起こすのが罪人だとラエルは勝手に思っていたがそんなことはなかった。


 解放されたというのに中にいた男は脱力したままで、ゆっくりと瞬きをするだけ。


 その瞳の色を見て、少女は自らが連行された意味を理解する。


 ――紫の目だ。


 幽閉されていた男の目はラエルと同じ、鮮やかな紫色をしていた。


「……感情欠損ハートロス。既に知っているかと思うが、これは不治の病だとされている。後天的疾患で突然発症する為に原因が不明、また殆どの人間が意思疎通をはかれない程に感情を喪失する為に患者の記録が少ない。そして、現代白魔術では治せない病の一つだ」


 男の言葉は、少女の耳に入らない。


 パリーゼデルヴィンド君主国に侵攻した魔族の生き残り。同胞を殺した感情欠損ハートロス

 資料を読んで知っているつもりになっていたラエルは現実を飲み込めずに、一歩だけ後ろに下がる。


 この細腕で、万単位の味方を殺した? まさか、とても考えられない。


 彼女が想像していたのと裏腹に、忌まわしい記録の当事者はあまりにも弱者だった。あまりにも普通。間違っても戦闘要員の様には見えないし、人を殺す様にも――見えない。


 男は、立ちあがる気力すらないらしい彼に肩を貸して檻を出る。


 檻を出るのが久しぶりなのか、紫の瞳はゆるゆると動いたように見えたが、ラエルを一瞥すると目を虚ろに戻した。その他に何かを見ようとしている様子はない。


 魔族の男は赤い瞳を伏せる。


「君を見ても、特に反応はないか。そうか……何か少しでも刺激になるかと思ったんだがね」

「……貴方が今回の大掛かりな仕掛けを打ったのも、私だけを術式の適応から弾いたのも。彼に会わせるためだったの?」

「ああ。とはいえ、少々巻き込み過ぎた感もある。旧友然り、旧友の子ども然り、この浮島の従軍兵然り、ね」


 会う必要のない人間にも顔を見せてしまったことだし、これからは逃げの生活が続くだろう。と、何でもないように脱獄の計画を語る。


「何処へ行くの」

「何処って、外に行くのさ。私は彼と、この国を出る」

「そう」


 ラエルは来た道を確認し、それからもう一度男の前に立つ。


「……」

「……」


 少女は動かない。通路を空けようとしない。


「……どういうつもりかな?」

「どういうつもりって。私こそ貴方に聞きたいわ――私の友達を巻き込んでおいて、ここの人達を巻き込んでおいて、謝罪の一つも無しに出ていくつもりなの? 本気……?」


 ラエル・イゥルポテーは紫の瞳を向ける。赤い瞳を逸らさず射抜く。


「……私はこの島から彼が外に出ることを許容しない。彼を連れ出そうとする貴方を否定する。彼は私の故郷を滅ぼした要因の一つなのだから道理は通っているでしょう? 邪魔をする動機としては十分ではない?」

「それは、君の本心かい? この浮島にほだされただけではないか? 君が友と思っている人々が、助けてくれたと思っている人々が、本当に心の底から君のことを案じていると思っているのかい。そもそも、君の故郷を追い詰めたのはこの国そのものだろう」

「人と国を分けて考えることができないなんて悲しい人ね。私は魔導王国は嫌いだけれど浮島の人は嫌いじゃないわ。貴方が彼らの心情を代弁したところで信憑性に欠けるし、私は貴方を信用していないからその言葉を信じようがないもの」

「……君は、自分が間違っていると思った事は、ないのかい?」


 赤い瞳が少女を見据える。


 黒髪の少女は、以前金髪少年にされたのと同じその質問に、回答する。


「ずっと、間違ってると思っているわ。?」

「――」


 多分、それが全てで。それが彼女の在り方だった。


 間違っていると思い続けながらも、生きなければならない。死ぬことは悪いことだから。


 土壇場の選択を正しくないと分かっていながらも、曲げる事ができない。そんな事をしてしまったらそれこそ、ラエル・イゥルポテーという人格は死んでしまう――と、思っている。


 重大な判断を下すその瞬間、彼女は自分以外の他人の意見が至極どうでもいいと思えてしまうのだ。


 誰が何を考えていようと、それは必要になった時に考えればいい。

 四六時中誰かの思考を予測して気を配ったり、目の前に居ない人間の事について分析するのは必要最低限の時だけで構わない。


 だから彼女は一度所属したコミュニティですら素知らぬ顔で捨てられるだろう。

 衣食住が管理され、そこそこ気の合う住民と出会えたなら彼女の感覚も変わるかもしれない。だがそれも、快適だから不満がないというだけの話なのである。


 嫌になったら出ていく。嫌だと思われていると分かったなら出ていく。


 ラエルにとってはそれだけの話で。悩む必要すらないことだった。


 誰だって、自分に良くしてくれた相手には不利益を被って欲しくないものである。


――いえ、


 啖呵を切る。


「私は自分のことを正しいと信じている人間を信用することができないし――貴方を信じる為に労力を払おうとも、思わない」

「……君は、私が信用するに値しないから、道を譲らないとでもいうのかい?」

「要約するとそうね。色々と端折っている気はするけれど」


 三白眼は暫く少女を見つめて、それから閉じられた。


 細い眼に反して、口元は形容しがたい歪みを伴なって笑う。

 カムメをひっくり返したような口先が、しばらくして突き出した。


「っふははははははは!! 面白い! やはり普通ではないな!」


 堪えられなかったのか飛び出した笑い声は物語の悪役そのものだった。暫く顔を抑えて喘いでいた男は、すと顔を上げる。


「私と一緒に来るかい? イゥルポテー嬢」

「まさか、冗談は口だけにして頂戴」

「そっ、そうだよなぁ、君のことだ。後先考える癖がないからそのような発言ができるんだろう。まったく、面白い娘だよ本当に。個人的なファンになってしまいそうだ」

「……?」


 今の応答の中に惚れこまれる要素などあっただろうか、と。


 他人の心を考えない少女は眉を顰める。男に肩を借りている感情欠損ハートロスの魔族も状況が読めないらしく、頭を左右に振るだけだった。


「ははは。はは、はー。笑った笑った。いやしかし、君も運が悪いな。欲しくなってしまったじゃあないか――まぁ、その人格がそのまま手元に残るとは思わないが」


 きゅ、と。


 ラエル・イゥルポテーの細い首に、男の掌が滑った。

 細身とはいえラエルより体格の良い男性の手のひらは、細い少女の首を片手で一周する。


「私は、欲しいと思った人材は手に入れる主義でね」

「……脅し?」

「いや? 決定だよ。ラエル・イゥルポテー」


 ――全身が硬直する。指先一つ動かせなくなる。黒髪の少女は目を見開いた。


 無詠唱で発動する呪術式。大方反対の掌に持っている白磁の本が要なのだろうが、眼球一つ動かす余地がないので解呪のしようがない。


 尤も前提として、少女は魔術を封じられている。


「さあ。君が友と呼んだ彼女にも同じことをしたんだが、君には浅くかけるような躊躇はしない。禁術を扱う者らしく、この術式の真価を発揮させてもらうこととしよう」


(――不味い)


 本能的に逃げろと脳髄が叫んでいる。

 これは駄目だ。明らかに選択を間違えた。


(ここを打開できなければ。今、この瞬間にどうにかしないと私が私でなくなってしまう)


 恐れはない。怖くもない。

 心臓は危機感に脈を増やすのみで全身に冷たい血液を送っている。


 ああ、どうしよう。どうしたらいいのだろう。


(私は彼に。まだ聞けていないことがあるのに)


 どうしようもない不安だけが、募る。


「それじゃあ最後に一言。何かあればどうぞ?」


 数か月前、舞台の上で少年に言われた言葉と同じように。男ははにかんで言う。

 これから手に入る人間の成長を願いながら。無邪気に、慈愛の瞳を向けて。


「……」


 感情欠損ハートロスの魔族は、ラエルに一瞥もくれない。

 少女は腹を決めて強がろうとしたが――しかし、そうするにはどうしようもなく状況が詰んでいた。


「……だ」

「ん?」

「嫌だ……って、言ったのよ……!」


 彼ら三人以外にはとても聞こえない小さな声で弱々しく吐き捨てる。


 魔族の男は、その言葉に満足そうにうなずいて。


「『催眠ヒュプシス』」


 呪いの言葉を、囁いた。




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