88枚目 「寡黙の紫」
一人で行くとは言ったものの、ハーミット・ヘッジホッグは暗闇が苦手だった。
星空はともかく、重力が向く方向に口を開けた暗闇ぼど恐怖する対象はない。
暗闇に終わりがあり、落ちれば死ぬと本能的に判断するからだろう。
監獄へ降りる石の階段は地下に進むにつれて岩肌をあらわにし、トンネルだった道はひらけ、右手は崖となっている。
左壁に手すりの無い階段が延々と続くこの状況、今から思えばこの階段に手すりをつけない判断をしたのは今回の騒動の布石だったのかもしれないとまで思うほどだった。
加えて手元のカンテラひとつだけが照らす道を駆け下りているのだから、恐怖が倍増するのは至極当然である。
「――滑り台が欲しい! さもなくばソリ! ソリだ! 通路をちゃんと舗装して移動用のソリっぽい何かを作ってもらおう! 俺は決めた!」
ソリを作ろうが滑り台を作ろうが、根本的な対策にはならないのだが――少年は全速力で地下へ向かっていた。声を上げても返事はなく、岩肌に染み入るだけである。
(いや、人権に反しているのは重々承知の上だったけど、彼女に支給した洋服のカフスに仕込んでいた
一応の補足だが、通常時には通信を切っていた。あくまで緊急事態に備えた物であったと弁明しておこう。
余りに視界が悪いので鼠顔を外して走っている彼だが、
地下一階、地下二階、地下三階、地下四階、経ったいま通り過ぎた地下五階にすら、黒髪の少女はいないらしい。一体何処まで連れて行かれたというのだろうか。
とはいえ、金髪少年は心当たりのある囚人を把握していた。
前回少女と面会した人とは別の、今回の一連のできごとに関わる最重要人物である。
魔導王国で唯一の死刑確定罪人――
(ただでさえ人殺しを好まない王様が許さなかった異例中の異例。刑の執行を待つ間、ひたすら生かされるだけの罪人。俺も、顔を合わせたことは一度も無かった)
第三大陸北部の惨劇を引き起こした首謀者とされる一方で、彼がやったという証拠は無い。
冤罪との見方も存在していたが、民の意見にかき消される形で表には出ていない。
「殺したのは自分だ」と自白があったというだけの理由で刑が決まった戦犯者――裏切り者と呼ばれた魔族の兵士。
(けど、パリーゼデルヴィンドでの顛末を調べる中で疑問があった。研究職に就く位に頭が良い一方で戦績は殆どなかった彼が、どうして徴兵されたのか。どうしても納得がいかなかった――けれど。さっきエイデルワースさんと話してみて確信した。……彼女が居たから、彼は前線に出たんだ。出ざるを得なかったんだ。そして、意図せず
それが、今回の騒動が起きた原因だ。
(そして……イゥルポテーさんが狙われた原因でもある)
紫の瞳。
第三大陸北部、パリーゼデルヴィンド君主国の生き残り。
それでいて自我を喪失しておらず、会話ができる軽症のサンプル。
エイデルワースが願ったように。
そんな中で「日常生活と意思疎通に支障がない症例」の存在は希望そのものだっただろう。
ましてやそれが世界的に立場の弱い「人族」で。存在を消された「亡国の人間」で。
本人が理性的で、協力的で、それでいて限りなく天涯孤独に近いなら、
(騒動の糸を引いている人間は、
紫の目をした人間を探しているという、男の名前が頭をよぎる。
同一人物かは確定できないにせよ、ハーミットたちが浮島にラエルを閉じ込めていた事実は相手にとっても都合が良かったのだろう。
(だけど、それはいくらなんでも)
最初から。逃げる事も許されず、留まる事も許されていなかったというのか。
助ける道が間違っていて、助けない道も間違っていて。
最初から最後まで――八方塞がりで。
「……んなの、あってたまるか……!!」
踊り場までの階段を跳躍する。
「っ、く」
着地は足に響くが、駆け下りるよりはいくらか早いだろう。
階段を降りる。降りる。
踊り場程のスペースを確認できたらそこまで飛び降りる。
右手に壁がないことも忘れ、左壁に手すりがないことも忘れ。
少年は地下へ潜る。走って走って、最後の踊り場を抜ける。
真正面に走っていた階段がいきなり右に曲がった。両サイドに現れた石材の人工的な壁が螺旋に地下へ向かっている。
石段に足をかけたその時。
石を踏みつける音がして。
「――は」
「――っ!!」
その革靴の底が男の顔面にめり込んだのは、詠唱からほんの数秒後の話である。
少年は石の壁を蹴って螺旋階段を駆け降りた。壁走りの応用といえばいいのか、驚異的な身体能力の賜物というか、背が低いからぎりぎり可能な荒業というのか。
階段を下りきった先、黒髪の少女の首を掴んでいた紫頭の男の顔面を踏みつけたのである。
「ぶ!?」
――――蹴り飛ばされる。
男は禁書を放り投げるようにして、一番奥の壁まで吹き飛んだ。
赤紫のキノコ頭が崩れる。三白眼が見開かれ、予想外の乱入者を捉える。
男の視界に入ったのは
人の目を奪うように見開かれたその瞳にも、同じように男の姿が映る。
紫髪を乱し、細い三白眼を見開いた赤色。全身緑色のローブに身を包んだ長身の男。
目が合ったのは一瞬だけだ。
着地と同時にハーミットは黒髪の少女の腕をとって抱き上げると、全力で後退する。
檻の外に連れ出されているカーリー・パーカーも見逃せないが、仮にも一般人であるラエルを遠ざけることが先決だと判断したのだ。
目を開いたまま放心している少女を壁にもたれさせるように座らせて、唇を噛みしめた金髪少年は振り返る。見覚えのあるその服装に、ようやく点と点がつながったという顔をして。
「お前は――噴水広場で目撃された変態絵描きだな!!」
「うぶぁっ!?」
ハーミットの最寄りの記憶はそこだった。
紫頭の男性は無言の笑顔を浮かべたまま特に反撃するわけでもなく歩いてくると、石床に膝を立てて座っていたカーリーの目の前にしゃがみ込んだ。
「……なあ、何時から私は変態呼ばわりされるほどになってしまったんだと思う……?」
「……」
返す言葉がないのか、発する言葉すら忘れているのか、無言を貫く紫目の魔族。
いや、顔を逸らした。何となく気まずいだけのようだ。
「反応として無言ほど辛いものはない……!」
「……あのさ、えっと、一応貴方が今回の騒動の犯人でいいんだよね?」
「え? ああ。その通りだが」
本日二回目の変態呼ばわりを喰らった男は、引き攣る様な笑みを浮かべて立ち上がる。
「大人しく捕まってくれる気はあるのか? エイデルワースさんは確保しちゃったけど」
「……君、素直そうな顔しながら私のことを全く信用とかしてないような気がするんだが?」
「うん。ぶっちゃけ問当とか時間の無駄だと思ってるよ。聞かなきゃいけないから聞いてるって言うのが本音かな。これでも結構沸点低い方なんだよ」
「言うねぇ。さては、紫目の娘が酷い目に遭う前に止められなかった自分に怒ってる系だな?」
「……」
「図星みたいだ、面白くもない」
私の観察眼も捨てたもんじゃないねぇ――と、男は言ってローブの裾を払う。
「それで、どうするんだい。力ずくでも止めるかい?」
「ああ」
ハーミットは言って、上着を外す。鼠頭は針と共に転がって行った。
簡素な支給服。首元まで隠すタートルネック。そして、腕の手袋を両方外す。
赤い戦闘用グローブまで後方へ飛んで行ったのを見て、男は目を丸くした。
「…………うん?」
「非常事態だからな。王様もとやかく言わないだろう」
対峙する彼が他にどのような魔術を仕込んでいるか分からない以上、魔力を吸収する性質を持った針衣は使えないし、狭い通路で戦うには邪魔なだけだ。少年はそう判断した。
「いや、そうじゃないよ。素手でいいのかい?」
「グローブつける時間をくれるのか?」
「あげないけども」
男は言って、禁書を開く。
視線を落とすと、開いた禁書の下に金の髪が見えた。
「!?」
「空白式――成程。禁書だな」
ぱし。と本を閉じて取り上げ、腰のポーチに突っ込む金髪少年。
白磁の装丁は虹色の影の中に吸い込まれていった。
間髪入れず、突き上げられた掌底が男の顎を掠める。
「うひぃ!」
まさかの猛攻に左足を引こうとした男は、その膝の上に左の革靴がのったことに気づいて右腕を顔の横に構えた。吸い込まれるように少年の右足が叩き込まれる。
「うぎゃあ!」
わざとらしく声を上げている本人はほぼ無傷だ。
(……防がれた)
状況を見て、男から一度距離を取るハーミット。
(やっぱり、簡単に触らせてはくれないか)
かつて魔王城と呼ばれた浮島を丸ごと嵌める程の魔術師――そんな格上を相手に、彼は勝つつもりなどさらさらなかった。
ハーミット・ヘッジホッグは魔術を扱えない上に腕力も人族並みだ。
自らの能力を過信している相手ならともかく、その道のプロには到底敵わない。彼が魔族と相対してできる唯一の仕事は、魔術を封じつつ時間稼ぎをすること。応援を信じて守るべき人間を安全な場所に誘導することである。
(……カーリー・パーカーは動く様子がないけど、油断はできないよな)
ハーミットは距離を詰めたが、それに合わせて男は一歩下がった。
少年は慌てて後ろにのけ反る。首を狙った蹴り上げが天井に向かって行った。
少年の背より少女の背が頭一つ半ほど高いことからも分かるように、少年と男の身長差はかなりある。足の長さも腕の長さも手のひら一枚以上の差がある――そしてその差は、戦闘においては致命的だ。
懐から弾き出されたハーミットは追撃できず、一歩、また一歩と後退するしかなかった。
「はっはっは。まあ、魔術強化無しの人族だとそんなものだ。蹴りは十分重かったが、私には効かないね!」
「……」
「何か突っ込んでくれよカーリー。私の一人芝居になってしまうじゃあないか」
「……」
「うーむ。少年よ、紫目の少女と彼との違いは何か知らないかい?」
振られた質問に金髪少年が返したのは
手裏剣の要領で飛ばされたそれを指の間に挟み込むことで受け止める男。
「暗器! 流石に驚くぞ!? 使うと言ってから放て!」
「使う前に宣言したら暗器じゃないだろうが!」
「まあそれはそうなんだが。何だい君、話してみると中々常識人じゃあないか?」
その辺に針を捨てて、お手上げのポーズを取る男。
「……症状の、重さの違いじゃあないか」
「ん?」
「さっきの質問に答えたんだ――俺だって、
「ふむ、重さ……深度と言った方がいいのか、分からないが」
首を傾げ、余裕の表情で思考する男。ローブの膝辺りを払った。
「私は、
赤い三白眼が細く閉じられる。口はカムメを逆様にしたようなそれだ。
(取り戻せるもの? ……失った感情を、取り戻すって?)
まるで、誰かに
「ああ、仮説だよ仮説! 興味があるかい? 君も彼女と共に連れ出してあげようか?」
「冗談も大概にしてくれ。というか逃がすつもりは無い」
「ははは! よく言った!」
男は獲物を見つけた獣のように口を歪めた。
「まぁ――彼女は、そう思っていないようだがね」
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