69枚目 「Vivid paint」


 ラエルがロゼッタにパリーゼデルヴィンドの話を聞いて、三日が経った。


 本日も大盛況だったモスリーキッチンは営業時間を終了し、まだら髪のモスリーと共に外へ出たラエルは、バンダナで崩れてしまった黒髪を手櫛で直しつつ今日一日の労働の対価を受け取ったのである。


「今日もお仕事お疲れ様! 明日もよろしくね、ラエル」

「はい。お先になるわ、モスリーさん」


 店主のモスリーが戸締りをするので、店員のラエルが鍵を閉める現場に残ることはない。鍵の形状と使用魔術の組み合わせを覚えるのは店長だけで良いのだ。


(それにしても。ここ数日気張ってみたものの命の危機的な事件は起こらなかったわねぇ。エルメの杞憂だったのかしら)


 三棟へ向かう間にリフレッシュがてらに考え始めた議題は、先日受けた忠告の件である。


 エルメことアルメリアは、烈火隊に所属する騎士だ。


 獣人で、長い耳が頭の上に生えている。語尾に「ぴょーん」がつくことでおなじみの彼女がラエルに告げた「気を張っておけ」という言葉は、ラエルの脳内に引っかかったままでいた。


(幸い、ここ数日は何も起こっていないことだし、強いて言えば注文が増えて忙しくなったぐらいか……繁盛するのは良いことよね)


 仕事が忙しいということはつまり、考える暇が生まれないということでもある。


(この浮島で生活することに慣れてきた自分に、嫌気がさしているのも事実)


 資料室であの話を聞いた以上、本来の目的も相まって早急に島を降りたくなったラエルだったが、急な退職は勤め先に迷惑をかけてしまうし、一応敵とはいえ某針鼠には恩があるし、アネモネはともかくスフェノスにはかなりお世話になっている。


 友達もできたことだし、もうしばらくここに留まってもいいんじゃないかという心の声が聞こえる気がした。


 勿論、その気になれば浮島から飛び降りるなり何なりで人間関係を断つのだろうが、何分なにぶん周囲の対応が良すぎるので情が湧いてしまっている。


 魔導王国に連れて来られた当初に亡国の顛末を知っていたなら、彼女はなりふり構わず他の大陸へ逃げ出す算段を立てていた事だろう。


 黒髪の少女は、その辺りが甘い。甘々だった。


(故郷でもこんなに好条件の生活はしてなかったものね……家はあったけれど、父も母も昼夜問わず忙しそうにしていたし)


 文化的生活と極限下におけるサバイバル生活の両方を経験している彼女にとって、魔導王国はかなりの良物件だ。


 喉の渇きも飢えもない。食べるものや身に着けるものすら選べる豊かな国である。


(初めの頃は早く外に出たくてしょうがなかったはずなのに)


 住めば都とはこのことか。

 ラエル・イゥルポテーはどうやら、浮島での生活をいたく気にいっていたということらしい。


 ……だがまあ、それとこれとは話が別である。

 黒髪の少女は自室の前まで来て、一人ため息を吐く。

 そう。ここ数日の間、肉体的に受けた被害何もない。


「……」


 ラエルは自室の扉から数歩、距離を取って眺める。

 先日受けた物より、明らかに挑戦的で好戦的な魔法陣。

 部屋の壁、扉の中央にある魔法陣を核に広がる連鎖陣と呼ばれる、名の通り連鎖発動する術式である。


 それが、壁一面に刻まれている。赤のラインで引かれている。


「…………」


 なんて雑な黒魔術だろう。


 二日前の事だ、この手の嫌がらせが始まったのは。


 気づいたのは出勤するとき。扉を開いたら頭から塗料を被った。

 開錠して空間をくぐった瞬間のことで驚いた。だが、驚くだけだ。


 ラエル・イゥルポテーはそのまま一度部屋に引っ込み、身体を流して服を整え、再度外に出た。


 また被る。


 二度目ともなれば術式の仕組みが分かるので、三度目は傘をもって外に出た。今度こそ塗料を被ることなく部屋を出たラエルは、その足で出勤したのである。


(別に、命に関わる術を組んでくるわけでもなし。回廊を汚す仕組みなのかと思えば、床に着いた端から蒸発してなくなっちゃうし)


 証拠を残さないためなのか、床には少しも残らない。

 どうやら生体にのみペイントされるものらしい。落とすのは大分苦労した。


(落ちなかった分を誤魔化すために角柱粉状痕隠しプリズムコンシーラーがどんどん減るものだから、仕方なくベリシードさんの所に買いに行ったけれど……何故か、八割値引きで五瓶もおまけされたし)


 ベリシード曰く、この塗料は一度定着すると暫く落ちないらしい。


 まったく迷惑なことだが、別に接客対応がメインという訳でもない黒髪の少女からすると「中途半端な悪戯」程度の認識である。


 半日ごとに陣は進化している様なので、ラエルはそれを解呪することなく放って置くことにした。


 解読する手間がかかるから、という理由もあるが、それよりも日々の生活を支えるお仕事が忙しかったのである。それに、一日二食をモスリーキッチンで食べるラエルは殆ど部屋に戻ることはしなかった。


(……でも、これはいくらなんでも雑。直したくなる)


 うずうずするのは、ラエルが黒魔術士だからだろうか。


(これをやっている誰かは、私がここにいる理由を知っているんだろうか)


 ラエルは腕を組んだ。部屋向かいの壁に背を預ける。


 見えている魔法陣を整理してみると、こうだ。


 出入り口上部に悪戯の魔術式。

 扉を巻き込んで周辺の壁面にばら撒かれるようにからの魔法陣。

 からの魔法陣の一部に重なるように火系統の基本陣。

 それらが連鎖するように上書きされているのが連鎖魔術陣。


 分からない。その意図が読めない。


 まず、この組み方だと火系統は満足な発現すらできないだろう。


 連鎖式に魔力を繋ぐと何か問題が起きるかといわれればそういう訳でもなく、単純に暴発するだけだ。


 カラーペイントついでに燃やすつもりだったのだろうか。

 いやいやいや、もしそうだとしても、多少魔術を齧っていればこんなに悲惨な魔法陣になりはしない。魔法陣は重ねて書かないのが常識だ。


(まるで子どもの落書きだけど)


 しかし、ラエルはこの浮島で子どもを見かけたことが一度もない。子どもの悪戯という線は消える。


 黒髪の少女は髪を絡めていた指を、普段持ち歩いている引き出しの箱ドロワーボックス搭載ポーチの中に突っ込むとメモ帳を取り出す。


 指文字フィンガースペリングは使わない。鉛筆を手に取った。


(普段から魔法陣や式は見たり書いたりするから、写すぐらいはどうってことないわね)


 分からないものは書き写す。


 できる限りの転写を終えたラエルは、手帳を閉じて頭をひねる。さて、どうしたものか。


(誰かに連絡をしようにも回線硝子ラインビードロは部屋の中だし……今日になって陣が追加されているから、発動条件が今までと同じとは限らない)


 手元には、杖の様にした傘がある。


 今までは只の塗料だったからいいものの、万が一知らない術式が発動し火の玉が降って来た日には対応が遅れて怪我をする可能性だってある。


 怪我は周りに迷惑をかけてしまう。それに、痛いのは苦手だ。


(仕方がない。今日は誰かに泊めてもらうことにしよう)


 ラエルはそう考えて、この時間まで起きていそうな人物を探して五棟へ足を向けるのだった。


 さて。お忘れかも知れないが、ラエル・イゥルポテーは魔導王国にとって監視対象である。


 一時間後。黒髪の少女が何処にも連絡を入れることなくカルツェとカフィオレを嗜んだが故に、鼠の巣の扉は乱暴に開け放たれることとなった。


 好きな魔術書の作者について話をしていた二人は、鼠の巣に乱入した殿方共に目を丸くする。


 駆け込んできたのは赤髪三つ編みをボロボロにした騎士と、針並みが乱れた針鼠。

 その両方が、ラエルの姿を確認して脱力した。


「ごめんなさい、捜させたかしら」

「いや、これぐらいどうってことないから、気にしないでくれ」

「そーだそーだラエルちゃん、何が悪いって最近しっかりお目付してなかった俺らが十割悪いんだから仕方がないっつーか」

「二人して息上がってるじゃない」

「あっはははまさかそんなことは、なあ、アネモネ」

「ああ。まさか普通と違う行動を始めるなんて予想もしないからさ……!」

「貴方たち、私のことを信用し過ぎじゃあないかしら……!?」


 どうやら部屋にいないラエルを探して城中走り回っていたらしい。


 すっかり研究室の機材配置を覚えたラエルは硝子の器に水を入れて差し出した。側面に目盛りがついているが、上の棚にあるのは飲食用だと聞いたので問題ないだろう。


 二人はほぼ同時に差し出された水を一気に飲み下すと、おかわりを要求した。


 二杯目はカルツェが持ってきた色のついた水を注ぐ――どうやら魔力補給瓶ポーションが薄められているようだ。


 それも飲み干す両者。良い飲みっぷりである。


 彼らが研究室に上がって机を囲むと、珍しいことに用意されていた四人席が埋まることになった。


「――それで。どうして鼠の巣に君が居るんだい、消灯時間はとっくに超えている筈だけど」

「そうだそうだ、叩き起こされた俺の身にもなってくれよラエルちゃん!」


 男二人に詰め寄られ、目を逸らす黒髪の少女。


「あはは、ごめんなさい。部屋で眠るには少し不安があって。カルツェもいきなり訪ねてごめんね」

「いえ、僕は別に。そこの男性陣よりは柔軟性がありますから」


 白魔導士カルツェは得意げに愛用の丸い眼鏡を押し上げる。ラエル・イゥルポテーに頼られた事実が嬉しかったのだろう。


「ハーミットさんもハーミットさんですよ。彼女、思いつめちゃってるじゃないですか。お得意のメンタル安定剤的マスコットの役割をきちんと果たしていただかないと」

「か、カルツェ。俺、最近君に怒られるようなことしたかな」

「いいえ。根に持っているだけです」

「持ってるんじゃないか! ……ってなに、思いつめるって。何かあったの」


 鼠頭をパージしつつ首を回した金髪少年は琥珀の目を濁らせた。

 熱を持った額に手の甲を当て、張り付く金糸を振り払う。


 ラエルはその様子を見て、ふと安心したように息をついた。


「ここに居る人は、白なのね?」

「え? ……まあ、うん。俺が保証するよ」

「そう。よかった」


 ラエルはポーチからメモ帳を取り出すと、四人全員が見下ろせる机の中心に置く。


「これは?」

「私の部屋の前に書かれている変な魔法陣の転写よ」


 メモされた陣を見て、みるみる顔が歪む二人。

 先程カルツェに見せた時も同じような顔をされたので、ラエルは本日二度目になる説明を始めるのだった。




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