58枚目 「淵に臨みて魚を羨むは」


 ぶつ切りの肉と芋を、鍋に放り込む。葉野菜は刻んでおく。調味料は塩と風味付けの香辛料。水を足して、鍋の蓋を閉める。


 前日にモスリーが仕込んでおいたカムメ肉の煮汁を魔法具で解凍し、プレート上で溶けたそれを移動、適量ずつ平鍋に注いでパスタンを投入する。

 麦製の軟性麺は火が通ってすぐに引っ付くので、調理用の棒で掻き混ぜる。引っ付かなくなったら後は吹きこぼれないように油を少し、後は塩を入れる。


 十分経ったと計り鈴が鳴ったので、一つ目の鍋に戻り蓋を開け、小皿に取った芋を頬張る。肉に関しても同じように、火の通りや味の心配が無ければ葉野菜を投入して混ぜる。火を止めて、後は余熱調理。

 お客さんが入り始める前に適温になるように一定の時間が経ったら再加熱するように魔法具を調整するのだが、そこはモスリーさんにお願いする。


 パスタンに火が通ったら出汁から上げて冷水に通し、用意された箱に詰める。上からトマの実のミートソースをかけて軽く絡め仕切りの半分を埋めたら、もう半分には麦のパンを詰める。


 それを十五回繰り返す。


 端から半球の蓋を閉め、紐で縊る。あとはお取り寄せデリバリー係に領収を切りつつ料金を渡し、お届け先へとよろしくする。


 掃除は毎晩営業終わりに行うので朝はそこまでの手間がないが、飲料を提供するカウンターとトレイ回収を行う場所は特に念入りに掃除する。ついでに、食堂内で飛び回る使い魔たちに賄いを渡して、厨房に戻る。


 現在五時七十分なり (※一時間=九十分)。


「ふぅ」


 橙のバンダナで額の汗を拭い、七分袖に素手のラエル・イゥルポテーは息をついた。


 両手首にあった痛々しい傷痕は見受けられない。モスリーから許可も下りたので、ラエルはハーミットから貰った例の粉――角柱粉状痕隠しプリズムコンシーラー。周囲の色を反射することで傷痕や魔術刻印を隠す化粧品――を、惜しみなく有効活用することにしたのだ。


 ラエルが奢って貰ったそれは一度使うと二十時間保つ。調理に影響する心配もない。


 六時の開店に間に合わせてする作業はあと、日替わりスープの準備ぐらいだが、今日は濃い目に味をつけた透明なスープに小麦の生地をナイフで薄く削り落とした麺を直前に湯通しする「削麺サクメンのスープ」なので、注文を受けるまでは野菜を煮込む以外にやることがない。


「だいぶ手際が良くなったねぇ」

「モスリーさん」

「仕込みお疲れさん、ラエル」


 差し出された器には、なみなみと水が注がれている。

 紫目の少女は礼を言って、一息にそれを飲み干した。汗ばんだ頬の赤みが僅かに引く。


「開店は今からだし、忙しいのはこれからでしょう」

「それはそうだけどねえ。少し前までは時間前に仕込みが終わるなんてことは無かったじゃないか。立派な成長だよ」

「……ありがとうございます」

「調味料も間違えなくなってきたしねぇ」


 モスリーは言いつつ、洗った手でバンダナを解く。どうやら髪を整え直すらしい。赤と黒がまだらになったそれを指に絡め、素早く頭の後ろにまとめ上げる。


 ラエルはというと、朝しっかりまとめたそれを鏡も無しに直すのは難しいので、敢えてまで触らない。髪が出ないようにまとめるのは意外にも難しいのだ。


 髪を触らない指先を顎に当て、モスリーを注視する黒髪の少女。暫くそうしていた少女はぱっと顔をあげると一人手を打った。


「あ。どこかで見た覚えがあると思ったら」

「ん?」


 バンダナを結び直したモスリーが顔を向ける。


「いえ、一棟で会った受付さんがモスリーさんみたいな髪の色をしてたなぁと思って。魔族って、赤色に寄った髪と目の色をした人が多いけれど混ざり髪はあまり見かけないじゃない?」

「ああ……確かに多くはないねえ。第五大陸の方じゃあ珍しい髪色でもないんだよ」

「そうなの」

「そうだよ」


 ふうん、と一人納得してそれから興味を失う。ラエルの好奇心は満たされればすぐに気化する一過性の物なので、一つの事に没頭することは殆どない。


 そんな黒髪の少女を眺めながら、モスリーは眉を寄せる。紫がかった瞳の色が翳っていることを見逃すほど、心の冷たい人間では無かった。


「……何かあったのかい?」

「え!? 何も、何もないわよ。最近は烈火隊から朝練に誘われることも無いし、魔術訓練よりやりたいことを見つけたから、そのせいかしら」

「それにしては、魔力の使い方は上手くなっているとおもうけれど」

「お店の器具は毎日触らせてもらっているからよ。実際に魔術を使おうとすると駄目駄目なの」


 魔力をまとめるのと注ぎ込むのとでは、作業の種類が違う。現在ラエルがつまづいているのは「まとめた魔力を注ぎ込む」段階であり、魔力圧をどうにか抑える方法を模索しているのだった。


 訓練場所は専ら自室である――とはいえ、彼女の魔術は未だ暴発を繰り返しているのだが――練習は主に就寝前の日課になっていた。


「しかし、最近は全く顔を見せないねえ、あの獣人もどき君」

「忙しいんじゃないかしら。アネモネさんから話は聞いているから、心配はしてないのだけど」

「そうかい」


 なら気のせいかねえ、とぼやいて、六時を回った文字盤に目をやる。

 モスリーキッチンは六時から二十時までの営業だ。バンダナを締め直したモスリーはカウンターに立ち、ラエルの視界から外れた。


 ラエルは店主の動きを確認して、一人目を伏せた。







 朝昼夜と勤務時間を三分割しているラエル・イゥルポテーは、殆どフルタイムで出勤するモスリーとは違い業務時間の合間に数時間の空きがある。

 合計で七時間。連続しての労働ではない分、午前と午後の両方で仕事以外の活動をすることが可能だ。


 魔術訓練にも参加せず、彼女は資料室の利用にその時間を費やしていた。元々週に二回は通っていたラエルだが、ここ数日は時間があれば資料室に行き、ひたすら書籍を漁っている。


 主な調べものは、人族の歴史、魔族の歴史。主に魔導戦争の記録だ。


 第一大陸「トゥ・カイリーゼオ王国」の権力者を発端とした争いが第一大陸東の野を焼き、第二大陸北部の森を灰塵に帰し、第三大陸中部に穴を穿った――そのような勇者一行が辿った軌跡も目に入った。人族の間に伝わる伝承としての「勇者の書」は、戦後に焚書されたとも。


 しかし、おとぎ話の勇者の書の内容や、実際の勇者が辿った旅の記録よりも、黒髪の少女が知りたいことは別にあった。


「……やっぱり、無い」


 館内を飛び回るレファレンス係、伝書蝙蝠コウモリのサポートを受けつつ、四日かかって辿り着いた違和感の正体に、ラエルは肩を落とした。

 資料室内は私語厳禁。静かに本を開き資料を読み解くのが礼儀だが、この時ばかりは音を立てて机に突っ伏したのだ。


 十年前、戦火に巻き込まれた筈の祖国。パリーゼデルヴィンド君主国。

 その名前が、魔導王国の地図から消えていたのである。


(既に国が無いのだから、新しい地図に名前がのっていないことは理解できる)


 ラエルは短くなった前髪を握る。手のひらには汗がにじんでいた。


(でも、過去の全ての地図から国名が消えるなんて――そんなことってある?)


 魔導王国に保管されている地図は、その全てが魔法具製である。古い物から新しいものまで等しく、魔術式によって構築と記入がされている。

 保管している全ての地図からある一国の名称を消し去るなどやろうと思えばできないことでもない。精通した技術者であれば資料に赤いインクを引くような気軽さで実行できることだろう。

 

 パリーゼデルヴィンドという国など、最初からなかったかのようにできるだろう。


「……成程、確かに変。変よ……でもどうして、あの人はそのことを私に?」


 これらのことは、調べなければ気がつかなかっただろう。


 もしラエルが調べている件が魔導王国にとって害となるならば、今までのように誰かがはぐらかしたりごまかしたり、ラエルが資料室に通うのを止めることもできた筈。だが監視役の彼らはそれをしてこなかった。ここ数日、針鼠に会っていないというのはそういうことだ。


(教える義理はないけれど、自ら知る分には関与しない……ということなのかしら)


 そもそも、ベリシードがラエルにこの単語を投げつけたのは感情欠損ハートロスの前例について話をしようとした時である。

 だとするなら、監視役の彼らが気に掛ける「ラエル・イゥルポテーに知られたくない情報」の中に、パリーゼデルヴィンドの名前が地図から消されている事は含まれないのかもしれなかった。


 あと一歩。踏み込まなければならない。


(知りたいなら、監視の目をかいくぐれ、ってやつ?)


 もしそうであるなら、全身全霊をもって考えなければならない。現在のラエル・イゥルポテーは、魔王直属の部下である「強欲」にされているのだから――。


 館内に鈴音が響く。一時間ごとに鳴る予鈴だ。

 ラエルは全ての資料を片付けて、調理場へ戻るために席を立った。




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