59枚目 「混迷と教示」
日は変わって、今日は七日に二日ある全休日。
朝から資料室にこもっていたラエルに声をかけたのは、伝書蝙蝠のノワールだった。
『毎日毎日、飽きないものです』
「そうねぇ。飽きはしないけれど……お久しぶりね、ノワールさん」
館内に常駐している司書ロゼッタの使い魔である蝙蝠たちは完全シフト制で利用者の選書に付き合ってくれるのだが、ラエルが一人で資料室に通うようになってからノワールが担当になるのは初めてである。
とはいえ、ここ数日出勤の余白を資料検索にあてる様子を見ていたらしいノワールは潤んだ黒い瞳を転がして、ジト目を作り出す。可愛いのでやめて欲しい。
『それだけ長い期間を投じて、どうしても見つからないというのであればお力になりますです』
「んー……いいわ。貴方は
『今日の私の担当は貴女です、貴女が資料室を出入りしたとしても、今日は私がつきますです。個人的には久しぶりのお休み時間というところ。用があればすぐ起きますです』
「そう。毎日飛び回ってるものね。お疲れさま、今日ぐらいはたっぷり休んでいいから」
『…………』
ジト目を解除し、首を振る蝙蝠。
『貴女、嫌味を理解できないです?』
「へ?」
『いえ……その、生きるの楽しそうでなによりです』
遠い目をした後、少女を見据えたままで留まり木にぶら下がる蝙蝠。
ラエルは暇つぶしに読んだ生物学書でこの蝙蝠という生物のことを調べたのだが、体勢に合わせて心臓の位置が上下するとか、骨格と筋繊維の進化によって首が良く回るとか、黒曜石のような瞳に魔術的価値があるとか、それらのことを「はいそうですか」と理解はできなかった。
いや、凄く理解しづらい仕組みをした生き物であることは分かる。
だがそれだけだ。なので、この蝙蝠が人間二十歳相当の知能を持ち合わせていることも、どれだけ凄いことなのかは理解できていない。
興味のない分野の、細かいことを気にしないのが黒髪の少女の真骨頂である。
「それじゃあ、本を探して来るわね。貴方は留まり木にいていいから」
『何言ってるです、私も行きますです』
「そう? 着いてきてもいいけれど、楽しくはないわよ?」
『仕事に楽しみをみいだせるのは狂人か聖人だけだとおもうです。……それに、就職も決まった貴女が、最近資料室に頻繁に来る理由には興味があるです』
黒い瞳は黒髪の少女を見つめ、首を半回転させた。
ラエルは質問に対し、答えを口にする。
そもそも情報を集める為に資料室に入り浸るようになった理由は例の魔法具技師に助言をもらったからだ。
魔導王国に来て資料室という存在を知った時は、昔のおぼろげな記憶の中から両親の書斎のイメージを引っ張り出して「資料室という名前だから本を保管しているのだろう」と大体の予測をつけたのだが、それをどう活用するべきなのか、ラエルはあまり分かっていなかった。
これまで目当ての魔術書や就職に関する書籍しか借りたことが無かった彼女は「とある国家」という漠然とした検索内容をどう調べたものか、頭を悩ませることになったのである。
なので、無知を承知で蝙蝠に片っ端から聞きまくった。
書架の並びからジャンル分けまで。検索に必要なあれこれを頭に叩き込んだ。
故にラエルは、特に迷うことなく赤い絨毯を踏みしめて目的の書架を探す。
「――色々悩んでたのが六日前の話なんだけれど。丁度、朝練前の烈火隊がモスリーキッチンに来てて。知り合いと話す機会があったのよ」
『ほう』
資料室の一階。声を潜めつつ本棚の背表紙をなぞる。
『相手はお友達です?』
「そうねぇ、そうなるのかしら……」
『何と言われたんです?』
「私が
ラエルはそうして、地理学の書籍を一冊引き抜く――鍵がかかっていた。
『鍵、です』
「そう、鍵。この国製の地図って厳重に管理されているみたいで。だから、鍵がついていない稀な本を探すの。本を隠すなら本の中……ってね」
続いて引き出された書籍には、確かに鍵がかかっていない。これなら、書籍を閲覧するのに許可は要らない。ラエルは本を腕に抱き、足を進める。
「でも普通、こういった公共の場では本に鍵なんかかけないでしょう。ということは、これは魔力値の低い人間に開かせないための措置だと思ったの。上級魔術の記述があるとか、人族か獣人には読ませたくない書籍ってこと――知るには相応の魔力が要るんでしょう?」
『です』
「……やっぱりそうなの」
『カマかけたです!?』
「ええ。こうして話せるのも顔見知りの蝙蝠さんだからだし」
呟いた少女の足が止まる。欄干に留まった蝙蝠は首を傾げた。
紫目はきつく細められ、下方を見つめている。
「……実は相談したときにね。『見つかる筈がないんです』って言ったのよ。彼女――その意味を理解したのが二日前。地図に目的の国名がなかったのもあるけれど、
『資料はあるのに、無い、です?』
「そう。正にそうなの、凄く不自然だと思わない?」
だからこうして、調べるのを続けては居るんだけれど、と。
行き場を失った指先が、横に揃った背表紙を意味も無くなぞった。
「魔導王国には
ベリシードからの進言を考えたなら、ラエルの故郷と
ラエルは
それでも目に映る僅かな情報をかき集め、黒髪の少女は地図から祖国が消えた事実を突き止めた――だが、その事実が一体何の役に立つというのだろう。
帰る場所も無い少女の、心の仕組みすら壊れた少女の、平和な思い出すら否定されたならば。
それでも、彼女がすることは変わらない。
読める情報を集めて探し、答えを求める努力を重ねるだけである。
黒髪の少女はそう割り切ったつもりで、腕に集めた書籍を戻って来た席に積み上げた。
艶やかな毛並みの蝙蝠は、席に着いた少女を追って留まり木に落ち着く。
『…………』
「どうしたの、急に黙って」
本を読む前準備として手袋を両手に嵌めたラエルは問うが、蝙蝠は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。へえ、蝙蝠にも皺が寄る程の眉間があるのか――。
『気づいてないです、泣いてますよ貴女』
「え」
水色の甲には、色の濃い染みができていた。
喉の奥から塩の風味がしたのは、ノワールに指摘されてからのことだ。
無色無臭の涙液は頬を伝い首に染みた。
ラエルはこの日、久しぶりに首元が丸く開いたワンピースを着ていたのだが、その襟にも滲んでいる。傍目に見れば水でも零したようにも見えるその染みに気付くと本を遠ざけ、ポーチからハンカチを取り出した。
布製の手袋を応急処置し、襟元も拭き、首、頬、最後に瞼が覆われる。
「……お見苦しいところを見せたわね」
『いえ。その……貴方は本当に、
「不安定なだけよ」
『そうです?』
蝙蝠は留まり木から机に下り、跳ねるようにして俯いた少女の視界に入る。
涙を流したわけでもないその艶やかな瞳。白目の見えないその黒色と目が合う。
『ノワールには、小娘がホームシックになってるようにしか見えません。別にこの感想は、貴女が人族だからじゃあないです。これまでの観察からあくまでも個人的にそういう人間なのではないかと、推測したまでです』
「そういう人間」
『強がりで見栄っ張りで、どうにもならないと分かっていても助けを求められない不器用の極み。最後の最後まで自力で辿り着こうと足掻くのはよろしいです、が。何の為に我々が配置されているのか考えたことはあります?』
「ない、わよ」
『はあぁ。やっぱり脳筋思考です。ちょっとは自分で考えてくださいです』
ぷいっとそっぽを向いた蝙蝠に対し、ハンカチで押さえていた目元を開放するラエル。
(……考えなきゃ……)
散らばってしまった集中力を、かき集める。
……見えている事実に驚愕しているばかりで、何も考えようとしていなかった自分が居る。
パリーゼデルヴィンド? それは只のキーワードだろう。情をかける必要も無く、ただパーツとして扱えばいい話じゃあないのか。
そうだ。地図なんてどうだっていい。だって、ラエルは祖国に帰る予定など無い。
……愛国心を会得する前に国を追われた過去に、こんなにも感謝する日が来ようとは。
(私が、本当に知りたいのは。そんなことじゃあ、なくて)
色々な人間にはぐらかされ、先回りされては知る機会を奪い。ああ、それならどれほどの労力と時間がこの小娘に掛けられていたのだろうか。
元々の目的すら曖昧になるほどの思考誘導――すなわち、この国の人間がもっともラエルに知らせたくなかったことについて、彼女が疑問を追及することがないように。
地図から消えた国の詳細? その理由? ――いいや。
どうでもよくはないにしても、それらは最優先の興味対象ではないはずだった。
そして、この資料室に居る蝙蝠の役目といえば。
「……ノワールちゃん」
『な、なんです』
ちゃん付けされたことに若干引き気味の蝙蝠を相手に、ラエルは満面の笑みを作る。
水色の指先は、目の前に積まれた書籍に。
「今持ってきた本、全部元の位置に戻したいわ」
『……です』
武者震いか、蝙蝠は身体を揺らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます