54枚目 「カムメ肉の煮込みタワー」
ラエル・イゥルポテーが浮島で生活を始めること四十六日目。
目覚まし鈴の音で目を開ける。左腕は鈴に近いにもかかわらず頭の下に敷いていた所為で痺れ気味だったので、あえなく右腕で音を止めた。
もとより早起きは苦ではない。ちゃんと眠ればいい話だからだ。すっかり慣れてしまったベッドの感触を名残惜しくも背中から引き剥がし、欠伸をしながら床に立つ。
身支度を整える時間はたっぷりある――ただまあ、彼女は寝起きが良い方なので直ぐに準備に取り掛かった。
流水で身体を清め、すっかりなじんだ襟付シャツと、洗濯していた仕事着とを手に取る。
ここ最近の彼女の服装は「身軽」「襟付」「ひらひらしない」といった要素を盛り込んだものが中心である。ロングスカートやワンピースといった服の下にもズボンを穿くのがスタンダードだ。三食賄いで毎日手取り給与がもらえる今、貯金をしながらであっても、好みの服ぐらいは買うことができる。
(化粧まではしないけれど)
飲食店で食材を触る立場で、慣れない化粧が及ぼす影響を想像して首を振る。モスリーは頬に色を足すぐらいの粉を振っているようだが、ラエルの肌年齢からすれば化粧の有無はあまり興味関心のないものだった。
それよりも面倒なのが手首である。検診の時以外はカフス付きの長袖で隠しているが、両腕の赤黒い熱傷痕は中々目立つ。
ラエル自身は気にせずとも、食堂に来る利用者の目を引いてしまうだろう。そうして注目を引かないためには長袖を着ていなければならない。
見られることで同情されるのは嫌だが、長袖を着続けるにも限度がある。厨房は数多くの魔法具が随時作動しており、非常に熱を持つ。
つまるところ、厨房は熱いのだ。
長袖で働き続けるのは厳しい。さて、良い打開案はないだろうか。
黒髪の少女はルームキーを手に取りながら、棚に揃えておいてある水色を目に留める。
(あぁ、そうだ。これを使えば……!)
「それで、調理中の鍋に落としてギトギトになったんだって?」
「……カムメ肉と一緒に煮込んでしまったわ」
「君の対応をしていると飽きが来なくていいけどさ」
「……反省してるわ」
「謝られるほどのことじゃないさ。事件が起きた当日に報告してくれただけでも助かるよ」
報連相は大事だからね。と、鼠顔は会釈を返す。
いや、正面に座っている少年の表情を伺うことは難しい。黒髪の少女と対面するのは、魔鏡素材の反射光と、とても笑っているようには思えない声音だった。
それはそうと、モスリーキッチンにて夕飯を食べるラエルとハーミットの間には握りこぶし程の黒い巾着袋がある。入り口の端と端を簡単に結んでいるだけなので、周囲にはカムメ肉の煮つけと同じ甘じょっぱい香りが漂っていた。
「魔術訓練は明日だったわよね」
「そうだね。因みに、氷球は維持できるようになってきた?」
「実はね、スフェーンさんに立ち会ってもらって実験したのよ。定期健診ついでに怪我しても治せるんだから加減せずにやってみろって言われて。でも魔術を使うとなると、どうしても五回に一回は思いっ切り暴発して天井に穴が開くわ」
他にもカルツェの居る鼠の巣、烈火隊の朝練の休憩中にも同じような事をしたと、指折り数えるラエルに、ハーミットは眉間を抑える。
「ここ数日妙に天井の修理件数が多いと思ったら原因は君か……」
「ふふふふ」
「笑ってごまかすんじゃない。その手袋がカムメ肉と共に煮込まれた事実に変わりは無いんだぞ。そうしたら君の魔術訓練に支障が出るじゃないか」
「ご、ごめんなさい」
そう、手袋。
ラエルは手首の傷痕を隠す手っ取り早い方法として、支給されたあの水色の手袋を使用したのである。
午前中は上手くいった。ラエルが担当するのは魔力を注ぎ込むことで魔法具を作動させ、その後で食材を切ったり混ぜたりするだけで、魔術を使用しての灰汁抜きや毒抜き、使用する食材の指定などはモスリーが行うからだ。
今回の事件の発端は、切ったり混ぜたりする作業工程である。
手袋には固定するためのベルトがついているが、食材を切る為にそれを逐一外していたラエルはそのベルトを留める過程を省略しようとした。
その結果、リストをしっかりと留めなかった手袋が、ふとした拍子にカムメ肉を煮込む鍋へ吸い込まれたというわけである。尚、衛生面の点でもモスリーにお叱りを受けたのは言うまでもない。
鍋の中身は向こう数日のラエルの賄いとなった。
そういう訳で、現在彼女が夕飯としてつついているカムメ肉の煮込みタワー。節約の為に質素な食事をする彼女を知る人であれば一目で異常に気付く圧巻のボリュームである。
普段は一人で夕飯を済ませるハーミット・ヘッジホッグがモスリーキッチンで足を留めたのは、四棟への帰り道に食堂で一人さめざめとする黒髪の少女を発見したからだった。
無論、彼らが囲むテーブルの中央にある黒い巾着の中には、例の手袋が入っている。
「聞きづらいのだけれど」
「うん?」
「これ、大丈夫かしら」
「多分、魔法具工房に出せば問題ないよ。修理に必要な経費は実際に見てもらわなきゃ分からないけど」
「知り合いが居ないわ」
「まあ、こっちの条件を飲んでくれるなら、俺が紹介するのを考えないこともない」
条件――その言葉にラエルは身を固くする。
仲介料を取るつもりだろうか。それとも、何か仕事を無賃労働させられるのだろうか。それこそ、この浮島から出ていって欲しいとかまさかそんな事は言わないだろうが、嫌な予想しか頭の中を飛び回らない。
黒髪の少女は咀嚼していたサンワドリの柔い肉を飲み込む。
味付けは間違えていないので、普通に美味しい。
「……私にできることであれば」
「それじゃあ、お皿のそれ」
鼠頭をパージした少年はそう言って。少女の目の前にあるカムメ肉のタワーを指差した。
言わずもがな、それはラエルが本日調理したものであり、現在巾着袋に入っている手袋と共にサクッと混ぜ合わせてしまった一品である。黒髪の少女にとっては、単なる失敗料理よりも恥ずかしい代物なのだが――。
「こ、これを、どうしようって?」
「うん。さっきから、美味そうだなーって思っててさ」
金髪少年はにっこりと笑みを浮かべて空になった自らの皿を傾け、琥珀を輝かせた。
魔導王国の三棟は商業区画であり技術棟でもある。
裁縫や雑貨、食品に武具の錬成。それらは洗練された技術を必要とするもので、他の大陸との貿易品の他は空間魔術で仕切られた向こう側――いわゆる工場や工房と呼ばれるようなスペースで――日々制作されている。
ラエルが受けた求人の中にもそのような技術職があったが、落ちてしまった。魔力を細やかに操る作業特化型の人に向いている仕事らしいので、不器用には狭き門なのである。
商業区画は八階より下の階層なので、ハーミットとラエルは灰色の絨毯が敷き詰められた階段を降りていく。すれ違う魔族や獣人の目が向けられることはない。
一か月前までは四天王と行動する謎の少女扱いだった彼女も、現在では「なんだか変な人族」ぐらいにしか思われていないようである。
紫目であることを除いても奇異の視線はあまり向けられなくなっていた。まあ、それでもたまには眉を顰められたり目を逸らされたりすることはあるが、実害はないのでラエルはあまり気にしていない。
隣を行く針鼠もこの手の視線には慣れっこなのか、見向きもしなかった。
「そうだ、今回の事の発端である君の手首の話だけれど」
六階へ降りる階段の途中、二段を飛び降りて振り向く少年。
「傷痕を隠すだけで良ければ、当てがあるんだ。それも揃える方向で構わない?」
「ええ、いいけれど……高い物?」
「魔導王国生活一か月記念ということで、俺が奢るよ」
ハーミットは続けて「値段は聞かない方が良い」とも言った。先行きが不安である。
夕食時間のピークを過ぎた魔導王国は静かなもので、行き交う人もまばらだ。誰も彼も談笑しながら二棟へ向かう足取りが軽いのは酒の引力というやつなのだろう。
商業区画は午後も営業している店も多いが、この時間になるとほぼすべての店舗が閉まっている。開いているのは夜こそにぎわう焼肉屋か夜間のみ営業している保存食品の専門店か。だ。
「朝から働いている人たちが夜まで働かなきゃならない道理はないからね」
もっともなことを呟いて、武骨な革靴は止まった。
三棟三階、灯りが消えて人通りの無くなった商業区画の一角。入り口の端に置かれたカンテラの黄色が目に付く。
煤焦げた扉には金属光沢のあるプレートが打ちつけられ、雑な掘り込みで「魔法具・マツカサ」とあった。
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