53枚目 「below the surface」


「っつ、う、ぎゃああああっ!?」

「不意をついたのは悪いとは思うがその反応は酷くないかな君ぃ」

「そ、そんなこと言われても――あっ」


 中途半端に立ち上がって勢いよく尻餅を着く形になったので、重心は背後に傾く。言うまでも無くラエルが着席していたのは噴水の周囲に用意された背もたれの無い腰掛けだ。水の飛沫で滑りやすくなっていたその光沢の上は、滑った。


「やれやれ」

「……はっ」


 誰のせいでこうなったと思っているのだろうか。ラエルのぼやきはともかく、黒髪の少女が頭から噴水に倒れる事は無かった。噴水の底は石作りな分、あわや勢いよく頭を打っていた可能性もある。


 背骨をなぞるように添えられた男性の腕。頭と首を支える掌。場所が場所でなければ、まるで情熱的な激しい踊りをしているような体制だった。そして、とっくの昔に水没している筈の少女の髪は濡れず、水面には彼女と彼の腕を避けるようにして、ぽっかりと穴が開いていた。


 水に魔力を介して操作したんだと気づくまでに、少し時間がかかる。


「大事ないかい、紫目のお嬢ちゃん」

「え、えぇ」

「はっはっは。それは良かった。しかし、こういうラブロマンス的構図も捨てがたいな、次作のネタにしよう!」

「え」

「さて、このシチュエーション。女性に言い寄る男ならばどうするかな……」

「なになになに、何しようとして」

「こうかな?」

「人の話を聞きなさ、うわっ!」


 がっくん、と一段空が遠ざかる。代わりに男の顔が近くなった。相手の左ひざが自分の両ひざの間に入っている。カンテラの灯りが逆光になって、相手の表情は全くといっていいほど伺えないが、赤い瞳が僅かに光の粒を映す。


 目潰しでもしようかと思うが、いかんせん体制が悪い。実は首と背中を支えている男の腕は、ラエルの両腕の自由を制限しているのである。


「はは、びっくりしたかい?」


 言いながら、今度はゆっくりと上体を起こされる。背後でセピアの水が流れる音がする。男はラエルがしっかりと座り直したのを確認して、両腕を滑らせた。


 右の掌は左頬に、左の掌は右の腰に添え。


「どうだい、君が良ければこれから僕とディナーあわよくば楽しい夜をご一緒に」

「しないわよ」


 少女の言葉に硬直する変態。赤紫の髪が柔い風に吹かれる。足元に散らばっていた画用紙の束がばさばさと悲しげにめくれあがる。

 ラエルは辺りを見回して、動こうとしない男に止めをさすべく声を張る。


「あーっ! そこに居る守衛さーんっ! ここにいたいけな乙女に手を出そうとする超絶ワッルイ大人が居るんだけどーっ!!」

「ひぃ!? あ、誤解されたら困るから今日はもう宿に帰るかなじゃあまた!!」


 脱兎の如く、男こと変態は二棟方面へ走り去っていった。


「『また』はないわよ。まったく……」


 やはり、治安が良いのか悪いのか分からない。

 黒髪の少女は何度目かになる溜め息をついて、ふと横を見た。今度はあの珍妙な絵描きではなく、見慣れた後ろ姿がある。


「で、叫び声に応じたは様子を見に来たわけだけど」


 ハリネズミである。背中の針はそのままに、マジックミラーがカンテラの橙を灯す。少年はラエルと人二人分程度の距離を取って、同じ噴水に腰掛けていた。


「気配を殺して近づいておいて何が守衛さんよ」

「ただでさえ守衛さん呼ばわりしておいて、それはないよイゥルポテーさん」


 ハーミットは言って、鼠顔を取り外す。喋りづらいと判断したのか、首の小休憩なのか。もしかすると夜は規制が緩いのかもしれない。


「私は、誰が来ても良かったのよ」

「誰でも?」


 金糸が汗ばんだ頬にかかるのを指で掻き上げる少年。


「誰でも。だけど、貴方で良かったかも」


 ラエルは言って、髪型を改める。軽く結えて纏め、リリアンを結んだ。


「……そういうところだぞ」

「何か言った?」

「いいや。それより、何もされてない?」

「ええ。でも一応、しばらくはここに来ないようにするわ」


 またあの絵描きに絡まれても困る。ラエルが呟くと、ヘッジホッグは首を傾げる。


「絵描き?」

「ええ。少し前に知り合ったのだけれど。えーっと名前は……ごめんなさい忘れちゃった」

「ふーん。仲良いの?」

「あっちが勝手につきまとってくるのよ、絵のモデルにしたいそうだけど断り続けてるわ」

「ほー。それであんな感じに」

「そうそう、あんな感じに……ってなるかっ。ならないわよ! 事故よ事故! そして最後のは事案!」

「はは、見てたから知ってるけどさ」

「見ていたなら助け船が欲しかった!!」


 うなだれる黒髪の少女に、琥珀の瞳が細められる。


「何だか元気になった?」

「……え」

「いや、最近調子が悪いって聞いてたからさ。何かあったのかと思って」


 一体誰に聞いたのだろうか。そして、日常的な監視はどうやら続けられているらしい。思わず両腕を胸元に揃える。


「どうかした」

「いいえ、ちょっと身の振り方を考えて過ごさなきゃいけないかもって思っただけ」

「一体どんな事態に備えてるって言うんだよ……」


 政治介入でもするつもりかい? 金髪少年は言いながら、鼠顔の後ろについている針並みを撫でる。視線は石畳に落ちたままだ。


「そういえば、どうして貴方はここに? 通りかかったって言っても、この時間は部屋か鼠の巣に居そうだけれど」

「アネモネに連れられてね。二棟の酒場でお茶を飲んでたんだ」

「酒場でお茶」

「年齢的にも、まだ酒は飲めないから」


(確かに、私よりも年下じゃあねぇ)


(この国、酒は二十四からなんだよなぁ。それでもあと数週間か)


 多少認識のずれはみられるものの、表向きには当たり障りない着地点に至る二人。


「で。そこの二棟から星を見ていたら、知らない男に絡まれてる女の子に気付いたってわけ」

「ん」


 最後の最後、女の子といわれたことがまんざらでもないのか、照れくさくなったラエルは視線を逸らし、石畳のくぼみを数え始める。


「未成年の女性に手を出そうとするなんてありえないから、横からぶん殴ろうかなとか思ってたんだけど、さすがに早計過ぎたから辞めたんだ。今から考えると、君が機転を利かせてくれて本当によかったよ。もう少し遅かったら俺の拳が唸るところだった」

「……今、物騒なことを言わなかった?」

「大丈夫。浮島の中で物理的介入が起こることは稀だよ」

「聞き間違いじゃなかったのね。っていうか、もはや隠してくれさえしないという」


 金髪少年ことハーミット・ヘッジホッグの驚異的な身体能力は即売会の一件で充分理解している。「殴る」という短絡的な発想は若気の至りだろうが、多分この少年は相手が人族以外であったとしても平然とそれをやってのけるのだろうが。


「あはは。まぁ、実力行使を思いとどまるのも、ある意味俺の仕事だね」


 琥珀の瞳は薄暗い石畳の灰色と、カンテラの鮮やかな橙を半分ずつ反射する。


「ただ、話を聞くに悪い奴とは思えないんだけど。どんな人なんだ?」

「旅をしていて……絵を描くのが生きがいとか、何とか言ってたけれど」


 指先で回る鉛筆。

 画用紙の束。

 黄緑のローブを常に被っている赤紫の髪の男性。

 変態。

 ――ラエルが憶えていたのはそれぐらいだった。


「……ヘッジホッグさん。彼、何か曰くのある人なの?」

「いいや。単に、見覚えのない人だと思っただけだよ、イゥルポテーさん」

「そう。なら、今から情報を更新して頂戴」


 鼠顔を被り直したハーミットの背に、ラエルは告げる。


「あの男は公衆の面前で許可なく人の裸体画を描く変人で、初対面の人にモデルになって欲しいとか言ってくる変態よ。あのまま放置して誰かに何かがあってからでは遅いわ」

「同感」


 即答だった。

 鼠顔越しに、少年の素が垣間見えた瞬間だった。







 かくしてこの日を境に謎の絵描き包囲網なるものが暫く魔導王国に敷かれることになるのだが、それらしい成果が上がることはなかった。絵描きが出国したのか、仮住まいに引きこもって出て来ないのか。それとも誰にも被害が及んでいないだけなのか。詳細は不明のままである。


 一方、不調続きだった黒髪の少女にとってあの夜は良い気分転換になったようで――魔導王国生活三十九目の今日、ラエル・イゥルポテーは新しいメニュー、「サンワドリのから揚げ」を覚えたのだった。




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