23枚目 「赤いスープのモーニング」


 魔導王国、浮島駐屯地の朝はやや早い。


 地上に比べて雲上の日の出が遅れるためにそう感じるのかもしれないが、毎朝暁光を拝めるという点では悪くなかった。


 ピッタリ一時間、二度寝を完遂したラエルは部屋に備え付けられた水道で顔を洗い、それから着替えを持って水を浴びた。出てくるついでに温風装置で全身を乾かして、それから髪を結える。使っているのはリリアンだ。ひとつまとめにして、馬のしっぽのようにした。


 水風呂以外に手入れができていない黒髪は多少パサついていて、癖のある巻き毛であることから少々末広がりに仕上がっていた。肩を越える髪先を、ラエルはクルクルと指で巻く。


 すっかり伸びてしまった前髪を整え、支給服の丸襟を正す。

 そうやって鏡の前で一人、ロングスカートのワンピースを翻してみた。


 ここまで準備してちょうど十五分。


 本来ならばこの後にお化粧なり何なりがあるのだろうが、そこまでの補助は受けていない。

 というよりも、ラエル自身が断っていた。


 今回の一件ではこれといった後遺症もなく、日常生活に支障をきたすほど心の傷を負ったわけでもない。ラエルが願い出た補助は寝床と食事、あとは水浴びの環境と身につける物の支給ぐらいのもので、それ以上は特に望んでいなかった。


 聞けば。化粧なりアクセサリーなり、身の回りを飾る為の支給も用意されているという。


 スフェーン曰く、それらはメンタル面を補強する為の治療にも用いられるということだった。なので、断ったのである。必要な物資は必要な人の元にあるべきという考え方も根底にはあったが、素直に「要らない」と思ったし、必要な人が他に居るならそちらに回して欲しいという心の余裕からだった。


 だから、この十五分で彼女の身支度はお終いである。


 白魔術士カルツェから教わった『指文字フィンガースペリング』を記録する手帳を、腰に下げた小さなポーチにしまい、今日一日で使用する資金 (単位はスカーロ)とを用意する。


「本当、つい最近まで砂漠にいて、人売りに売られそうになっていたっていうのに。人生どう転がるか分からないものね」


 呟きつつ、魔導王国の意匠が施された青銅の指輪を手に取った。


 浮島では魔力子を一定量納めれば誰でも簡単にワンルームを借りることができるのだという。空間魔術を使用しているために部屋数に上限はなく、ルームキーになっているのがこの指輪なのだった。


 とはいえ、この部屋は貴重品の盗難等の心配がない代わりに、部屋が事故等で消失・紛失した場合の補償もない。よって、重症の患者や地位がある人にはそれぞれ普通の部屋が用意されているらしい。ラエルが借りているのは、あくまで貸家に過ぎない。


 勿論、彼女がこのような部屋に回されている理由は上層部のみぞ知る、ある疑いの為であり――残念ながら、彼女自身もスフェーン伝手にそれとなく聞いていた。


 一応、驚きはする。

 まさか、人殺しの嫌疑をかけられることになるとは、と。


 ただまあ、ラエルはそのことに関して誰かを恨めしく思ったり、憎らしく思ったりということはなかった。


 魔導王国に軟禁、監視されているといえば聞こえは悪いかも知れないが、今この時も彼らの関係者がその件で第三大陸を走り回っているのも事実。与えられたままに熱心に仕事をする役人たちを責める気には、どうにもなれない。


 だから今日も今日とて、素知らぬ顔をして、黒髪の少女は胸を張る。

 まずは朝食を食べなければ、と。ラエルは指輪を扉にかざした。







「うわ……」


 朝食を摂るために訪れた食堂には、座る場所がなかった。

 食事処が開店して、あまり時間は経っていないはずなのに。である。


(どうしてこう、毎日毎日混む時間に食事をとらなきゃ、ならない、の!?)


 しかし、こればかりは誰も悪くない。

 ひしめきあう軽装の筋肉男子の横をすり抜け、無難にスープとパンの朝食を購入する。


「おはようモスリーさん! 鳥とトマのスープセット一つお願い!」

「あいよー、おはよう! はい、番号札」

「ありがとう!」


 ラエルがやっとのことで「三十二」と刻まれた細長い木の板を手にした頃には、数分前まで人がごった返していたとは思えないほど、人が減った食堂が広がっていた。どうやらピークの時間帯は過ぎたみたいだ。


(……明日からは診察もないし、時間をずらすべきね……よくよく考えたら、この時間は軍人さんが多いし、朝から訓練があるのかもしれない)


 番号札を握り締め、席を探す。

 魔導王国の浮島で生活するようになって、空気を読むことを憶えたラエルだった。


 清掃中を示す駆動ランプが消えている席を選ぶ。注文から調理まで時間があることは承知しているので、呼ばれるまで料理を待つのだ。


 使い魔たちの働きを眺めつつ、ぼんやりと思考を進める。


 実は昨日までメディカルチェックという名の検診と能力測定との繰り返しだったので、ラエルが自由に過ごせる一日というのは今日が初めてだったりする。


 生活に慣れてきたといっても、それはこの食堂と自室と診察室を行ったり来たりすることに限っての話。太陽が真上に登る頃に諸々の結果が出るということだが、それまでは本当にやることがない。


 時間を潰すにしても、何か新しい情報を仕入れられないものだろうか。


「はあ」


 息を吐くと、より憂鬱度が増した。

 幸せは溜め息と共に逃げていくものだと誰かが言ったような、言ってないような。


 番号が呼ばれるまでロビーにいる使い魔の数でも数えようか。そんなことを考え始めた頃になって、ラエルはとある人物と目が合うことになった。


 赤い三つ編みに、赤い瞳。

 どういう訳か、彼は注文を済ませるなりラエルのところまで一直線にやって来る。


「よっ、元気してたか?」

「……アネモネさん」

「はは、そうそう! 今日も元気なアネモネさんだ。おはよ、ラエルお嬢ちゃん」

「おはようございます」


 前の席良いか? と聞かれ、慌てて首を縦に振る。何だか周囲の視線が痛い。


 ここに来て知ったことなのだが、このアネモネという青年は魔王直属の部下の一人で「嫉妬」の称号を受けている――何とも凄い魔族らしいじゃあないか。


 魔導王国に関わる荒事が起きた際に真っ先に現場に入る烈火隊を率いる隊長でもあると聞く。


 つまり、魔王軍の五本指には入るだろう偉い人物である。保身の為にも無下にはできないが、どうやらアネモネの方は気にしていないらしく、廊下ですれ違うたびにラエルに挨拶してくる。


 アネモネが声をかけると、周囲の魔族の目がラエルに向くのである。


 ラエルはアネモネのことが嫌いではないが、この視線は中々慣れなかった。

 それにラエルが辞めて欲しいとやんわり返しても、アネモネは懲りずに会話を求めてくる。それがこうも数日連続するとなれば――ラエルは遂に、気にすることを諦めたのだった。


 敵意でも嫌悪でもない視線については、我慢すればいい話なのだと。


「お嬢ちゃんは何頼んだんだ? いつものやつ?」

「え、ええ。『日替わりスープセット』を」

「ふーん、それでお腹足りてんのか?」


(正直な事を言うと、足りないけれど)


 そう思うが口にはしない。保証されている資金でどうにか六十日間やりくりしなければならないラエルにしてみれば、節約するのは当然だった。


「女の子のお腹には充分よ。アネモネさんは?」

「俺もいつもの。『あさっぱらから肉セット』だ」

「そう、なの」


(朝から鳥の丸焼き。相変わらずよく食べるわね。あれ、全体で砂魚三匹分位の重さあったわよね? 中々の量だと思うんだけど?)


 ラエルが重さを知っているのは、ここへ来た初日に食べたからである。

 勿論完食したし、美味しかったのは言うまでもない。


 これは今日も、羨望の視線を向けつつ食事を摂らなければならないか。

 鼻をくすぐる香辛料のスパイシーさによだれを誘発されながら、トマのスープセットを噛みしめて食すのだ――。


「三十二番さーん!」

「あ、はぁい! ……受けとってくるわね」

「はいはーい、いってら」


 アネモネに見送られ、追加の視線にさらされ、心臓の辺りがきゅっとする。


 これが、殺気とは別ベクトルのプレッシャーというやつだろうか。まだまだ人生経験が乏しいラエルにとっては未知の状況だった。


(父さん母さん。私、ここで上手くやっていける自信がないわ……)


 ラエルは内心ぼやきながら、受け取り口へふらふら歩いて行った。




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