2章 就活と動機と魔王と

22枚目 「目覚まし鈴が鳴る前に」


「よし。血中毒再発の気も見られなくなったな。今回の診断をもって完治とみなそう、次の週からは定期健診だ。怠らずに通えよ」


 モスグリーンの宝石のような輝きが、向かい側に着席している少女の眼を射抜く。


 白衣の男性は自身の診断結果に満足しているようで、口の端に十五度の笑みを浮かべていたが……対する少女の瞳は虚ろなまま、宙をぼんやりと見つめていた。


 宙を見つめる紫の瞳に男性も流石に笑みを引っ込め、浮かしかけていた腰と「では、さっさとお帰り願おうか」と続けようとした舌の動きとを飲み込む。


「どうした。不調でもあるのか?」

「……ねえ。ここって、相談の一つや二つ、聞いてくれたりする?」


 口を開いた少女は、完治と言われたことに喜ぶどころか落ち込んでいる様子である。


 モスグリーンの瞳を細め、医者は足を組む。

 精神に関する分野は専門ではない。そう普段なら突っぱねる所を、今回は辞めておくことにした。彼女の抱えている問題の一つに、感情の欠落があるからだ。


 大方、ここ・・での暮らしに適応するにあたって問題が起きているのだろうと予想して、男性は眼鏡の縁を持って位置を直す。この医者は患者の味方だった。


「相談か。長話でなければ、ここで聞くが」

「予約の順番もあるものね。じゃあ、一つだけ」

「ああ」


 壁に飾られた名も知らない絵画とカラフルな魔力補給瓶ポーションに囲まれながら、少女は少しの間を置いて口を開いた。


「治療が終わったら、働かなくちゃいけないのよね?」

「?」

「ほら、手当ての資料にもあったから。健康体になったら、働き口を探すか、ここから出て行かなくちゃいけない――期限は六十日、だったわよね」

「ああ。そうだな、そういうことになるが」

「……こういう職業探し? っていうのは、誰に聞くのが一番早いかしら」

「……」


 医者が思わず無言になってしまったが、こうなるのも必然だったのかもしれない。


 少女は、幼き頃に国を戦火で追われてから今日に至るまでずっとサバイバル生活をしてきたのである。家族と過ごしていた彼女には、生活できる範囲の常識と付け焼き刃の魔術知識以外がほとんど無いに等しく――そして彼女自身、それを自覚していた。


 医者は腕を組む。なんということもない、自分が介入する必要がない問題だと判断した。


 寧ろ、既にここには特殊な経歴の持ち主が数えられない程に所属している。そのことを知っている彼はラエルの反応に胸を撫で下ろし、いつもの調子で回答した。


 返す手で、ひらひらと振る。


「そういう事は、食事がてら気の合う奴にでも聞いてくるといい」

「丸投げ……!?」

「私はそういう事情に疎いんだ。産まれてからずっと白魔術一筋だからな」

「そ、そう。それなら仕方がない……わね」


 そんなノリで診察室を追い出された黒髪紫目の少女――ラエル・イゥルポテーは、とりあえずどうしたものかと天井を仰いだ。


 毛足の短い絨毯が敷き詰められた長い回廊。巨大な石造りの柱で支えられたアーチ式の天井。その隅々には、豪華とは言えないものの職人の技が光る枝葉の彫刻が成されている。


 診察室の前には順番を待つ人影が一つ二つあったので、まずは扉の前から移動する。

 回廊を歩いて昇降台に乗り、三棟にある個人の部屋へ向かうことにした。


 枷の島、センチュアリッジで彼女が保護されてから一週間が経つ。


 診療所の予約を取るのも人と会うのも面倒だった彼女は、今日までの七日間毎朝一番の予約を取っていた。


 まだ、太陽が昇る前である。空が白み、星がまだ観測できるような時間だ。

 最初の時間に予約を入れているからこそ、彼女はドクターことスフェーンにあれこれ言われながらも他愛の無い世間話をしつつ、地道な情報収集を行うことができていた。


 おかげでここ――かつて魔王城と呼ばれた、浮島の街並みや一日の仕組みに慣れてきているのも確かである。


 時計を確認する。

 朝食の支給が始まるまで、あと二時間。


「…………」


 本来ならば、明日からは無理をしてまでこの時間に起床する必要は無いのだが。彼女にとってはそうはいかないようだ。


 働くことを知らないラエルはというと、この状況に恐怖などしないのだけど。


「まあ、なんとかなるわよね……?」


 やっぱり、不安はぬぐえない。


 そんなこんなでページは進む。

 これは、彼女の就職譚である。




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