第8話

 『軽音部』とプレートの下がった扉を開けると、ソファーにどっかりと座り込んだ赤メッシュが「待ってたぜ、姉さん」とニッと嗤った。

「ごめんね、急に『行きたい』なんて言っちゃって…」

「いや、寧ろ嬉しかったんだぜ。姉さんが来るのなんて珍しいじゃねえか」

 紅茶淹れるから座っといてくれや、と腰を上げて、べには部屋の隅へとポニーテールを翻して行く。

 …ふと視線を移せば、部屋の中心を陣取ったガラスのローテーブル上にパステルカラーの花束が生けられているのが目に入った。

 穂先についた沢山の花と細い葉。…確か、名前は…。

「この花…もしかしてリナリア?」

「お、知ってんのか?流石だな、澪さんからのリクエストで生けたんだ」

 アンティークの施されたカップを二つ置くと、べには何かを懐かしむようにフッと息を吐く。

「博識の副会長の姉さんに説明は不要だろうけどよ…この花の主な花言葉には『この恋に気付いて』『幻想』があるんだ。実は昨日澪さんの誕生日だったんだけどよ、プレゼントは何が良いかって訊いたら、この花を生けて欲しいって言われたんだ」

 澪さんも誰かに恋してるんだろうな、なんて柔らかく笑うと、べにはおもむろに赤メッシュを弄る。

 『澪さん』って、二組の五十嵐澪君の事かな。実は中学一緒なんだけど…当時から彼、軽音部でギターやってたし。

 …そういえば、いつか澪君が言ってたっけ。

『報われる恋があるなら、その裏で報われなかった人も出て来る。童話『人魚姫』に代表される通り、悲恋は美しいって言われたりするけど…それって、本当に綺麗なものなのかな。…僕達人間は泡になって消えたりしない。だからこそ、自分が選ばれなかった事への劣等感と、想い人が選んだ相手へのどす黒い嫉妬が残る。…僕は醜いと思うな。無理だって知ったら自分から手を引いて、好きな人の幸せを願う方がずっと…綺麗だと思う』

『…随分、散文的だね』

『まあ、僕も一応軽音部だからね。歌詞を書くときによく考えたりするんだ』

 はにかんだような言葉の裏側が、もし…歌詞なんて関係の無い、彼自身の本心だとしたら?

 きっと澪君は、恋人のいる誰かに片想いしてて、その子の事がどうしようもなく好きで。それでも…その子の事を諦めきれない自分に嫌気がさしていて。

 …世間一般の陳腐な言葉じゃ括れないくらいに、あの時の微笑は儚くて、弱々しくて…壊れそうに脆くて。

 なら…私は?そこまで考えた時、ふと…伏せていた視界がゆっくりとぼやけ始めた。

「…あ、れ……?」

「姉さん、何で泣いて…!?」

 あたふたとし始めるべにに「大丈夫」とは言うものの…溢れ出した劣情は止まる事を知らず、遂に決壊した虚勢に思わず顔を隠す。


 …何が、したかったんだろう。何の罪も無い幼馴染に嫉妬して、中途半端に想いに蓋をして…。

 本当に、どこまでも醜いまま。

 魁斗君への想いから目を背けていたのも。

 偽善ぶって幼馴染の幸せを願っていたのも。



 全部…私の独り善がりにすぎないのに。




「ごめん…ごめんね……ッ!」




 …嗚咽と共に零れた謝罪は、一体誰に向けたものだったのか。



 背中を摩ってくれる従妹の腕の中で、どろどろに腐敗した浅ましい劣等感は、溢れ出した本心に攫われて揺蕩って…やがて、止めどない涙にゆっくりと沈んで行った。

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F-M-N 槻坂凪桜 @CalmCherry

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