追憶の村 5

 抜けるような青空とどこまでも続く海……それは、こういうものを言うのだろうか。まさに、私の目の前には、空と海だけが広がっていた。


「ヤナ、血が……血が出ているよ……」


 少し震える声で、アイサがそうつぶやく。腕全体に走る痛みは軽いものではなかったが、それ以上に、腕の中のアイサの温もりが私を安心させた。

 空中で後ろからアイサを抱えた状況では、手を離すことはできない。腕からあふれていく血が、せっかく買ったばかりのアイサの白いブラウスの胸辺りを、赤黒く染めていた。


「すまない、汚れてしまったね」

「ううん、そんなことより、ヤナ、痛そう……」


 どうしていいか分からない様子で、アイサの声が少し涙交じりになっている。私はアイサを安心させるため、右腕でアイサを抱え上げ、抱き合うような態勢に入れ替えた。アイサが私の首に手をまわし、しがみついてくる。アイサの小さくて少し硬い胸が、私の身体に押し付けられた。


「私は大丈夫だ。それより、アイサこそ大丈夫なのか?」


 緊急だったとはいえ、アイサを抱えてそのまま『次元シフト』で跳んでしまった。コノエ青年が言ったように、『生身の』人間では次元シフトに耐えられないのだ。アイサをつれての次元シフトはこれで二度目だが、二回とも無事に飛べるかどうかは賭けだった。

 私はどれほどアイサを危険な目にさらせば気が済むのだろうか。強烈な自己嫌悪感が私に襲いかかった。


「うん、大丈夫よ」


 アイサはそんな私に笑顔を見せると、そのまま私に唇を寄せてくる。まるで私の感情を分かっているようだった。

 アイサの舌が私の口腔へと入り込み、私の舌と絡み合う。少しきつい風が吹く中、私たちはしばらくの間、口づけを交わしていた。


「気分が悪いとか、吐き気がするとか、ないか?」


 アイサの唇が離れるとすぐに、アイサの様子を確認する。一度目の時はかなり身体にダメージがあったのだ。


「平気だってば。だって昨日、」


 そこで言葉を止めると、アイサは顔を真っ赤にして少しうつむいた。


「ヤナのを、ほら、いっぱい『飲んだ』から」


 その言葉が、昨日の晩のアイサの『姿態』を、私の脳裏に蘇らせる。あれは、夢でも幻でもなくリアルなことだった……そのことを、アイサは恥ずかしそうに口にした。


『飲む』という表現は少し違うような……カミアンの体液を摂取するというのは、経口でなくてもいいのだろうか。いや、そもそも、『体液』というのも、血液である必要はないのか……


 アイサの言葉にふと、そんなことを考えた。正直なところ、次元シフトについては、他のカミアンから伝え聞いたことでしかない知識だった。自分がそうであるはずのカミアンについて、あまり詳しく理解していないことに、失笑を禁じ得ない。


 彼は……コノエ青年は、私よりもカミアンについてよく知っているのだろう。まるで自分の身体で様々なことを経験してきたかのようだった。いや、実際そうなのだろう。爆風の中、ニアが展開するME変換フィールドに守られながらも、彼は怯むことも驚くこともせずに、私が『跳ぶ』まで、私を見つめ続けていた。

 その瞳には、恨みも憎しみも感じられなかった。ただ、そうする必要があるから。彼の目は、そんな目だった。


 彼の行動も、もちろんニアの行動も、多分、カミアンのためのものなのだろう。彼らにとってみれば、私こそ、カミアンに敵対する者なのだ。

 私も、彼らを恨んだり憎んだりする気にはならないが、彼らの言うとおりにするつもりもない。

 私はもう一度、アイサを強く抱きしめた。


「良かった」


 ロクアイからここまで、一体何キロメートルを跳んだのだろう。咄嗟に思い付いた行き先が硫黄島だったのだが、眼下にはそれらしき島はなかった。


「でも、ヤナ、ここはどこ?」


 アイサが不思議そうに聞きながら、周囲を見渡す。


「硫黄島に跳んだはずなんだけど、どうも位置がずれたみたいだね」


 一体そこへ行ってどうするつもりなのか。正直自分でもよく分からない。そこに何かがあるのか、それとも何もないのか。それすらも分からない状況だ。

 私も周囲を見ようと目を遠くへ向けた時、アイサが声を上げた。


「ねえ、ヤナ。島がある」


 アイサが指し示す方へ視線を移すと、水平線近くに、海から上に突き出した島が見えた。島全体が緑色に覆われている。


「ほんとうだ」

「あれが硫黄島?」

「いや……私が知っている硫黄島の形とは違うようだね」

「どこ……かな」

「分からない。とりあえず、行ってみようか」


 そう提案する私に、アイサも軽くうなずいた。

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