追憶の村 1

 どこからか、雀の鳴く声が聞こえる。全身に残る気怠さが、私の身体をベッドに縛り付けていた。

 体に掛けられたブランケットのさらっとした肌触りに、少しだけ心を委ねた後、はたと気が付き慌てて身を起こす。


 アイサ?


 部屋を見回す。アイサの匂いが残る部屋に、しかし、アイサの姿はなかった。


「アイサ……アイサ!」


 ベッドから飛び起き、キッチンへのドアを開ける。そこに、不思議な表情を浮かべながら私を見つめるアイサが、いた。


「どうしたの、ヤナ」

「あ、いや、アイサの姿が見えなかったから、つい」


 私がそう口にすると、アイサは顔を赤らめて微笑む。


「変なの。でも、ヤナ、何か、着て?」


 アイサのその言葉に、私は自分が何も身に付けていなかったことに気が付いた。


「す、すまない」


 慌てて部屋に戻る。脱ぎ捨てられた服や下着が床に散乱していたのをかき集め、ベッドへと腰を下ろした。

 部屋の中に残る匂いは、昨日のことが夢ではないことを物語っていたが、キッチンで見たアイサの微笑みは、以前の、頼りなげに微笑んでいた時のアイサのものだ。


 ふと、自分の下半身を見た。

 記憶に残る限り、排泄行動にしか使うことのなかったもの。脳裏に残る射精の快感は、果たしてリアルなものなのだろうか。


 下着と服を身に着ける。そこでアイサがキッチンから出てきた。


「はい、朝食」


 差し出されたボウルを手に取る。白い液体の中から、黄みがかったチップ状の物が小高い山となって顔を出していた。


「牛乳、ぬるいけど我慢してね」


 キッチンから自分の分を取ってきたアイサは、そのまま私の横に腰かける。


「朝はよく、コーンフレーク食べてたの」


 スプーンですくうと、そのかわいらしい口へと運び込む。まだ液体がしみていないコーンフレークの、乾いた音がした。


「食べない?」

「あ、いや、いただくよ」


 しばらく無言で、コーンフレークを食べる。するとアイサが突然、フフフという声をあげた。


「どうした?」

「昔ね、テレビでやってたの。コーンフレークは、楽してお腹を満たそうっていう煩悩の塊なんだって」

「なんだ、それは」

「可笑しいでしょ」


 そう言いながらアイサはまたコーンフレークを口に運ぶ。そんなアイサの様子からは、昨日の姿態は微塵も感じられなかった。


「あとね、作った人の顔が思い浮かばない、とかね」


 そしてまた、ふふふと笑う。しかし、その言葉に込められたさっきとは違うニュアンスに、私はスプーンを動かす手を止め、思わずアイサを見つめた。

 アイサが、スプーンですくったコーンフレークを見ながら、ぽつりとつぶやく。


「同じね。アイサも、両親の顔、知らない」

「アイサ……」


 一体、どう声を掛けたらいいのだろうか。

 そんな私の戸惑いにも、アイサはまたいつもの笑顔を私に向けた。


「でも今は、ヤナがいてくれるから」

「……ああ」

「ずっと、いっしょ?」

「もちろんだよ」


 私がすぐにそう返事をすると、アイサはうれしいと一言つぶやいて、再びコーンフレークを食べ始めた。


「じいやはアイサに、両親のこと話してくれなかった……んだっけ」


 確かアイサは、そんなことを言っていた。だから何気なく聞いたのだが、そこでアイサの表情が曇る。


「すまない、していい話じゃなかったね」

「ううん、違うの。じいや、『いない』って言ってたの」

「いない?」

「うん」


 普通に考えれば、亡くなったということだろう。しかし、アイサには何か気になることがあるようだ。


「じいやは他に、何か言ってなかったのかい?」

「ううん、何も」

「ほら、両親のことじゃなくても、何か、気になる言葉とか言ってなかったかい?」


 そう話を振ってみると、アイサはしばらく考えた後で、一つの場所を口にした。


「硫黄島」

「いおうとう?」

「うん。じいや、よく『硫黄島』に行きたいって言ってた」

「行きたい、か。なぜだったんだろう」

「んー、理由は教えてくれなかったな」

「そうか」


 ふと時計を見る。朝の8時半を回ったばかりだった。


「ヤナは……」

「ん?」

「協力するの?」

「コノエ君たちにかい?」

「うん……アイサ、あの人たち、キライ」


 無理もない、とは思うのだが、アイサが「キライ」という言葉をはっきりと口にしたことには少し驚きを覚えた。


「アイサを何かに利用させるつもりはない。彼らに協力するつもりもないよ」


 アイサに笑顔を向けてそう言うと、アイサも安堵の笑顔で返す。ふと目が合ったところで、アイサが少し顔を近づけた。それに呼応するように私も顔をアイサの方へと近づけると、二人の唇を合わせる。しばらくの間、私とアイサは舌を絡めあっていたが、唇を離すとアイサが「コーンフレーク味のキスだね」と言って少しはにかんだ。


「アイサ、ここを出ようか」

「いいよ。どこ?」


 アイサはまるで初めからわかっていたかのように、そう訊き返す。私の見つめる瞳に、不安の色はなかった。


「硫黄島、行ってみようか」

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