愛すべき理由 3
よほど疲れていたのか、日が高く昇ってもアイサは起きなかった。アイサを置いて一人で何か買いに行くことも考えたのだが、目を覚まして私がいないとアイサは不安に思うに違いなく、眠り姫の目覚めを待った結果、私たちが部屋の外に出たのは昼過ぎになってからだった。
「さすがに、お腹減ったね」
照れながらアイサがそうつぶやく。
「マスターに何か食べさせてもらおうか」
考えてみたら、昨日の昼以降何も食べていない。今後の生活の為にマスターに手配してもらうこともいくつかあり、食事がてら私たちはもう一度バーへと向かった。
夜とはうって変わって、人通りが多くなっている。ここは本来『夜のエリア』なのだが、それでも若者やカップル、時には子供連れの夫婦まで往来していた。それは、私がかつてここで見ていた光景に他ならず、昨日の夜の異様さ、つまり人気のなさは何だったのかと、首をひねってしまった。
昼間、バー『パレンケ』は軽食喫茶として店を開けている。カランと鳴るドアを開けると、誰もいない店内で、マスターだけが何やら調理をしていた。
「おう、来たか」
「相変わらず客がいない店だね」
「ここは『隠れ家』だからな」
カウンターにアイサと共に座ると、待っていたかのようにマスターが私たちの前にパスタを置いた。
「食ってねえんだろ」
「ははは。マスターにはかなわないな。遠慮なくいただくよ」
私が遠慮せず食べるよう促すと、アイサが恐る恐るパスタを食べ始める。
「あ、美味しい」
「そうだろう、お嬢ちゃん。俺のお手製カルボナーラだ」
「このマスター、顔に似合わず料理が上手いんだよ」
「一言多いんだよ、お前さんは」
そんな有りがちな会話の後、マスターが私の前に小ぶりのショルダーバッグを置いた。
「当面の生活費と必要そうな小物、あとはカードだ」
「カード? 足が付くんじゃないのか?」
そう訊いた私に、マスターはにんまりとした表情を返した。
「偽造だからバレねえように使え。名前が違ってる。ロクアイなら現金でも行けるが、外に出るなら必要だろ」
「お金は?」
「『洗浄』しといてやったよ。その費用と住居代はちゃんと貰ってあるから、遠慮すんな。お前の金だ」
「ずっと思ってたんだけど、どうやってやってる?」
「企業秘密、と言いたいところだが、何のことはない。見逃してもらってただけだ」
「見逃し?」
「紅蜥会と繋がってたんでな」
マスターの口調には、どこか自嘲ともとれるニュアンスが含まれている。
「初耳だよ、マスター」
「そりゃそうだ。誰にも言ってねえからな。情報源をばらすなんざ、情報屋のすることじゃねえ」
そう言うと、マスターは自分の分のパスタをフォークでつつき始めた。
「でも、もう紅蜥会は」
「ああ、無くなっちまった」
「それじゃあ」
「もうとっくの昔に、俺は公安にマークされてるってことだ。今は、あの少年がいるから、ここに公安は来ねえけどな」
マスターはパスタをつつくのをやめ、険しい表情をした。
「あの少年がなぜ俺のところに来なかったのかは分からねえ。まあ、俺は紅蜥会に入っていたわけじゃねえから、それが原因かもしれん」
「『末端』まで排除しようっていうんじゃないようだね」
「そうだな。今の俺は、見知らぬ奴が作り出した『聖域』に隠れ住んでる、ただの『じじい』でしかねえ。だが、俺はまだこの世から退場したくはねえんでな」
こんなにも饒舌なマスターを見たのは初めてだった。久しぶりに会った私に、ここまで踏み込んだ話をする……それは、マスターの今の立場がいかに切羽詰まったものであるかの裏返しなのだろう。
「だから、お前さんに頼みがある。あの少年のことを調べてほしい」
「情報は買ってくれるのかい?」
「もちろんだ」
どのみち、その少年には会うつもりでいる。それに、ここでの生活をマスターへの情報提供でやっていくことも。
「いいよ。元々そのつもりだったし」
「そうか。じゃあ話はついたな」
そう言うと、マスターはパスタを食べ始める。そういう素振りは見せないが、私が戻ってきたことをマスターが実は喜んでいることにようやく気が付いた。
私もつられてパスタを食べ始める。興味を持った顔で私たちの話を聞いていたアイサも、止めていたフォークを動かし始めた。
「で、その少年の名前は?」
パスタを一口食べてから、マスターにそう尋ねる。マスターが食べる手を止め、俺をにらむように見つめながら答えた。
「コノエ、だそうだ」
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