愛すべき理由 2
アパートの部屋は1DKの小さなものだった。入ってすぐにブレーカーを上げる。スイッチを押すと部屋の電気が点いた。
内装のやり直しはしなかったのだろう。ベッドとエアコン以外何もないことを含めて、私がこの部屋を出た時のままになっている。少し青味がかった壁紙にはいくつかの懐かしい傷跡が見て取れた。
洗面所に行き、水道の蛇口を上げてみたが水は出ない。
「水とガスの栓を開けてもらわないといけないね」
そう言いながら部屋に戻ってみると、アイサはシーツを抱えたままベッドに横になり、もうすでに寝息を立てていた。
掛け布団はないが、初夏の空気の中では暑いくらいだ。窓を開けると、潮の匂いのする風が部屋の中に入ってきた。
ここに来るときに会ったあのカップルのことを思い起こしてみる。時間、場所、装い、その全てに疑問符が付くのだが……
私達を見ていたあの女。場違いな黒いドレスを着ていた。髪の毛は真っ白でストレートのボブヘア。いや、髪だけではない。肌も真っ白だった。
日本人ではないのか?
この第三管区には日本人以外も少なからず住んでいる。だから、それ自体に不思議はないのだが、私たちに向けていたあの紅い瞳……どこかアイサを連想させた。違うのはその色合いと、そして、その視線が明らかに敵意を含んでいたこと。
それが私に向けられたものだったのか、それともアイサに向けられたものだったのか、分からない。公安や思想警察ではないだろうが……今のロクアイはもう私が知っていたころとは違っているらしいだけに、何か得体の知れなさを感じる。
私にはアイサを守る『力』があるはずだ。しかし、圧倒的に情報が足りていなかった。
やはり、マスターが言っていた『少年』に会ってみたいと思う。思想警察や、公安特務課、C担の連中を追い出してくれるのならありがたい存在なのだが……公的権力を排除し、デモを扇動する? 本当にそんなことを、その少年がしているのだろうか。カミアンの力を借りて? 一体何が目的なのだろう。私が知っているカミアンも、彼に協力しているのだろうか。
いや、待てよ。もしかして、あの女性は……
「ヤナ」
声を掛けられ、その方向を見る。目を覚ましたのだろうか、アイサが私を見つめていた。
「ごめん、起こしたかな」
「ううん、起きたの」
ベッドに横たわるアイサを改めて見る。長い髪は淡い灰色、どちらかというと銀色に近いだろうか。アイサも随分と色白だ。
ロクアイをこの子の安住の地にするには、解決しなければならない問題が意外に多くありそうだった。
窓を閉め、エアコンをつける。灯りを消してベッドに腰掛けると、アイサの髪をなでながら声を掛けた。
「とりあえず今はゆっくりおやすみ」
「ねえ、ヤナ」
「何?」
「一緒に、寝よ」
「今日はシャワーを浴びてないから、少し汗臭い。私は床で寝るよ」
「ううん、平気よ」
そう言いながら、アイサが私の手を引っ張る。おのずとアイサの横に寝そべる形になったのだが、アイサはそんな私の胸に顔をうずめると、深く息を吸い込んだ。
「アイサも……ヤナの匂いが、好きなの」
消え入りそうな声でそうつぶやくと、恥ずかしげな仕草をした後、更に強く私の胸に顔を押し付ける。胸に、少し熱の帯びた溜め息がかかるのを感じた。
部屋の中を、甘酸っぱくも生々しい匂いが満たしていく。その中で、私とアイサは寄り添うように眠りについた。
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