愛すべき理由 1
リビングに入ると、暗がりの中、アイサはまだソファに横たわっていた。近寄って、淡い色の髪を撫でる。そこでアイサが、その儚げな目を開けた。
「ごめん、起こしてしまったね」
窓から差し込む街灯の光に、アイサの瞳が赤く煌めいている。
「ううん」
「気分はどう?」
私がそう訊くと、アイサはぼんやりとした表情をやめ、少し考える素振りを見せた後、もう悪くない、とつぶやいた。
もうしばらく休んだ方がいいかと思ったが、アイサは繰り返し大丈夫と答える。それで私は、バー『パレンケ』からアパートに移ることにした。
「お嬢ちゃん、もう大丈夫なのか」
下に降りると、マスターが残っていた後片付けを終わらせたところだった。
「また明日来るよ。といっても、もう今日か。マスター、ありがとう」
そう声を掛けると、マスターが手を振りながらぶっきらぼうに答える。
「明日は、『橋』には近づかないほうがいいぞ」
橋というのは、ロクアイから対岸の町、神戸に渡る三つの橋のことだ。ウエスト、イースト、そしてセンターブリッジ。
「三つとも?」
「ああ、そうとも。まだその辺には行ってねえのか」
「……明日、デモがあるのか?」
「うむ、橋周辺は『戦場』になるぜ」
マスターによると、週末デモでは機動隊とデモ隊が激しく衝突するそうだ。そういえばもう今日は土曜日だった。
「誰かリーダーがいるのか?」
「リーダーはいないが、ロクアイの人間にデモに参加するよう呼び掛けてるやつがいる」
「へえ……もしかして?」
「ああ、あの『少年』だ」
紅蜥会を潰してしまったという少年。会ってみたいという気持ちはあるが……
私はどうするかの答えをいったん保留し、マスターに礼を言うと、バーを後にした。
※ ※
もう深夜の四時ごろだろうか。東の空が仄かに明るくなっていた。人通りのない道を、アイサを連れてアパートへと向かう。アパートはバーから歩いて五分ほどのところにあるのだが、この辺りは五年前とさほど変わっていないようだった。
「ヤナが前に住んでた家?」
「ああ、そうだよ。嫌かな?」
「ううん、ちょっと、楽しみ」
「今は何もないはずだけどね」
これから向かうアパートの話を、手をつなぎながら何気なくかわす。アイサは随分と気分がよくなったようだ。アイサから恐る恐る手をつないできたのだが、私がしっかりと握り返すと、何やら嬉しそうに微笑んでいた。
繁華街の裏通りとでもいうような雑多な、しかし人通りのない道を歩いていく。もうそろそろアパートに着く頃かというところで、初めて道を歩く人間を見かけた。さすがにこんな時間にと、思わず目線が行ってしまう。
カップルのようだ。仄かな朝の光が逆光になっていて見えにくいが、細身で少し小柄な男性に、彼よりちょっと背の高い女性が寄りかかって腕を組み、並んで歩いている。その少年の手にある杖のようなものに、少し違和感を感じた。
傘だ……もう梅雨も明けようかというこの時期、昨日も今も雨は降っていないのに、なぜ彼は傘を持っているのだろう。
と、腕に小さくて少し硬い膨らみが押し付けられた。横を見ると、アイサがあのカップルと同じように私の腕に自分の腕を回している。
「アイサたちも、恋人に見える?」
真剣にそう問いかけるアイサの表情を見て、私は思わず微笑んだ。
「まあ、親子には見えないと思うけど」
「んー、そうかな。ふふふ」
そう言ってアイサも微笑む。とそこで、アイサが「あっ」という声を漏らした。そして、あの秘密の匂いが漂ってくる。
恥ずかしさを隠すように、アイサは上目遣いで私の様子をうかがった。そのまま、組んでいた腕を解こうとしたのを見て、私はアイサの腕を脇に抱え込む。
「アイサの匂い、私は好きだよ。だから気にしなくていい」
私がそう言うと、アイサは「恥ずかしいよ……」とつぶやきながら、仄かな明かりの中でもそうと分かるくらいに、顔を赤らめた。
視線を前へ戻すと、いつの間にかあのカップルは私たちの横を通り過ぎていた。何気なく後ろを振り返ってみる。
男の肩越しに、女がこちらを見ていた。
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