催涙弾の降る街 6

「催涙弾? それは、どういう……」

「まあ、とりあえずだ、そのお嬢ちゃんを休ませてやんな」


 そう言ってマスターは、店の奥にあった階段を指す。


「ここは五年前と何も変わっちゃいねえよ」

「ありがとう、マスター」


 マスターに礼を言うと、私はアイサを連れて二階へと上がった。店の二階は居住スペースになっている。確かにマスターの言う通り、何も変わってはいなかった。リビングにあったソファにアイサを横たえると、アイサがうつろな目で私を見る。


「ヤナ……」

「ここは大丈夫だから。少し横になると良い。私は下にいるよ」


 そう言ってアイサの髪を撫でる。私の手に少しだけ甘えるようなしぐさをすると、アイサはそのまま目を閉じた。

 『次元シフト』の影響だけではないだろう。今日一日、忙しすぎたのだ。肉体的にも、そして精神的にも。

 アイサが軽い寝息を立て始めたの見届けると、私はアイサの肩についていた髪の毛を手に取り、再び一階へと戻った。


「で、本当のところ、何で戻ってきたんだ?」


  マスターは、後片付けの残りをこなしている。


「実は、思想警察に追われていて」

「はあ? お前さん、生粋の無神論者だったじゃねえか」

「いや、私じゃなくて。あの子なんだ、追われているのは」

「あのお嬢ちゃんは何なんだ」

「正直言うと、分からない」

「分からないって、どういうことだ」

「それなんだけど」


 私はアイサの髪の毛を、マスターの前に置いた。


「これを調べてほしいんだ。まだ、できる?」


 マスターは、私が出したものに目を近づけると、眉間にしわを寄せる。そしてそのまま私を上目遣いで見た。


「客も来ねえこの店が、何でやれてるか知ってんだろう?」

「ああ、もちろん」


 そう言って私は、スーツの胸ポケットから財布を取り出し、中に入っていた二枚のカードをカウンターに置く。


「五年で貯めたお金だよ。キャッシュカードとIDカード。番号も教える。だからそれで、住まいの世話もしてほしい。それくらいはあると思う」


 マスターは、年季の入った手でそれらを取ると、レジにおいてあった何かの装置に差し込もうとした。


「待って、マスター。まともに使うと、公安が飛んでくる」


 そう声を掛けると、マスターはカードを持ったまま、肩をすくめた。


「あの子は思想警察で、お前さんは公安かよ」

「マスターなら、使いようがあるだろ?」

「やれやれだ。で、何を調べるんだ」


 マスターは渡した二枚のカードをそのままレジにしまうと、またグラスを取り上げて拭き始める。


「あの子が人間かどうか」


 しかし私のその言葉に、ぎょっとして、動作を止めた。グラスを置き、奥の部屋へと入ったマスターは、すぐに戻ってきて、どこからか取り出したピンセットでアイサの髪の毛をつかむ。そして、それをシャーレに入れると、奥の部屋へとまた消えた。


「染色体レベルならすぐにも分かるが、DNAの検査となると結構かかるぞ」


 しばらくして戻ってきたマスターは、透明な液体の入ったグラスを俺の前に置きながら、そう言った。


「ああ、構わない。お願いするよ」

「あと、住まいの話だがな、モノ自体はすぐに見つかる」

「ありがとう」

「でもな」

「……さっきの話?」

「そうだ。実はな……」


 そう切り出したマスターは、少し声のトーンを下げた。


「お前さんが出てってから一年後くらいだったか、けったいな奴がこの街にやってきた」

「けったい?」

「ああ。十五くらいの少年だった」

「それのどこが『けったい』なんだ?」

「そいつがな、潰しちまったんだよ」

「何を」


 そう聞き返した私を、マスターはじっと睨みつける。そしてゆっくりと、私の疑問に答えた。


「チャイナ・マフィア……紅蜥こうせつ会を」

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