鏡の部屋のアイサ 3

 知波ちばアイサのつぶやきに、私はしばらく反応ができなかった。


「いや、そういうつもりじゃ……」


 ようやく絞り出した一言がこれなのかと自嘲する余裕さえ、ない。どうしていいかわからず、ただ彼女の言葉を待った。


「アイサが変だから、嫌?」


 しかしそんな私の反応に、彼女の声のトーンが不安と少しばかりの恐怖の色を帯びる。


「そ、そんな、全然変ではないよ。ただ、ごめん、どうしていいか分からない」


 女性の扱いに慣れた男であったなら、もっと気の利いた言葉をかけてあげることができたのだろう。しかし私は、女性どころか、人間との接触すら避けてきたのだ……


「先生に、アイサの秘密、知ってほしいの」

「秘密?」


 この状況と彼女の秘密がどうつながるのか、私には見当もつかなかった。しかし、『秘密』というのはあの『匂い』に関するものに違いなく、そのことが私の興味を一気にかき立てた。


「アイサの秘密を知っても、先生がアイサを助けてくれるのか……それが知りたいの」


 この子はずっと、自分のことを『正常ではない』と気にし続けている。それは、私が知ってしまっては彼女から離れてしまう程のことなのだろうか?


「だから、来て」


 そう言ってまた、知波アイサは口をつぐんだ。


 知りたい。


 その感情を抑えることができない。私は、抗えないほどの誘引力を知波アイサの誘いの言葉の中に感じ、ゆっくりとソファから立ち上がると、ベッドへと近づいた。

 その気配を感じ取った知波アイサが、後ろ手に手を伸ばす。


「手を」


 言われるままに、彼女が差し出した手を取った。知波アイサが私をベッドの中へと引き寄せる。その拍子に掛け布団が浮き上がり、中から強い匂いが漂い出した。


「やっぱり……におう?」


 むせるほどの甘酸っぱい熟れた果実の匂いと、体液が放つあの生々しい臭いが混ざり合い、止揚アウフヘーベンした結果、形容しがたいジンテーゼを生じさせている。


「あ、ああ。知波さんもこの匂いを感じるのかい?」

「ううん、アイサは感じない」

「えっと、じゃあ、なぜ分かるんだい?」


 しかし彼女は、その問いかけには答えず、彼女は私の手をベッドの更に奥へといざなった。


「待って、知波さん」


 思わず引こうとした手を、知波アイサはぎゅっと握って離さない。彼女の何かしらの決意を感じ、私は力を入れるのをやめた。そして、知波アイサのされるがままになる。

 バスローブのスリットから手が入り、へそに指が触れるのを感じた。そこで知波アイサが一つ息を吐く。彼女の震えが手を通して伝わってきた。

 躊躇うかのように動きを止めた彼女の様子に、私は「もういいよ」という声を掛けようとしたが、その言葉が喉から外に出てこない。


 知波アイサの秘密。


 それを知りたいと思う心の方が勝ってしまったのだ。

 無音が広がる部屋の中に、彼女の少し荒くなった吐息だけが響いている。そして、それが止まったかと思うと、彼女は再び私の手を引っ張った。

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