鏡の部屋のアイサ 1

「現金で支払えるような場所がこういうところしか思いつかなくて……ごめん」


 部屋に入るなり、私は知波アイサにそう謝った。

 もうずいぶんと昔から、支払いはキャッシュレスが通常だ。ただキャッシュレスでは簡単に足がついてしまう。しかしこのような場所は現金支払いが好まれるようで、いまだに現金払いのところが多かった。


「これ……なぜ鏡なの?」


 彼女は気にした様子もなく、初めて入るであろう場所を興味津々に見まわした後、天井を見上げて不思議そうにそう声を上げた。鏡張りの天井には、大きなベッドと付け足しのようなソファ、そして二人の姿が映っている。


「えっと……なぜだろうね」

「先生は、こういうとこ、来たことあるの?」

「あるにはあるよ」


 そう答えると、知波アイサはなぜか眉をひそめ、険のある目で私をにらんだ。


「女の人と、ですか?」

「え? あ、ああ、そうじゃない。昔住んでいた街では、公安と……まあ、いろいろとね。そんな時には、こういう所によく逃げ込んだね」


 慌てて否定する私を、知波アイサが今度は不思議そうな目で見つめる。公安から逃げてホテルに泊まる人間……『危険人物』以外の何者でもないな。


「それは、カミアンだから?」

「そう、だね」

「『カミアン』って……どういう人なの?」

「どう、と言われると……」


 何をどう説明するべきか。


「超能力者?」


 なるほど、高校生の感覚ならば、その方が分かりやすいかもしれない。


「そうだね。人間とは違う能力を持ってる、かな」

「それは異常……ってこと?」


 私は思わず笑ってしまった。


「その通りかも。社会からはまだ『正常化』されてないね」

「そっか……」


 そうつぶやいて、知波アイサは少し考える素振りを見せた。じいやのことでも思い出しているのだろうか。

 真面目に何かを考えている風の彼女を見て、ほほえましく思う反面、一体どうすれば「彼女を助ける」ことになるのか、答えが見つからない状況に焦りを覚える。


「これからしばらくゆっくりできないかもしれないから、夜まで少し寝ると良い。夜にはここを出るよ」

「どこに行くの?」


 そう訊かれて、言葉に詰まる。


「まだ考えがまとまってないんだ。少し考えてみる」


 行く当ての候補が無くはなかったが、本当にそこでいいのか決断が付かなかった。私はとりあえず、ソファに腰かける。そして天井を見上げた。

 と、そこでまた、あの独特な匂いが部屋の中に漂い始める。そういえば、ここに来るまでは感じなかったが……

 思わず彼女を見た私の視線に気づいたのか、知波アイサが少し顔を赤らめてうつむいた。


「せん、せい……」


 そのままつぶやくように言葉を発する。


「何、かな?」

「あの……シャワー……浴びたいの」

「あ、ああ、どうぞ、浴びてくるといいよ」


 知波アイサはこくんとうなずくと、そそくさと浴室へ消えていった。それを見届けた後、再び天井を見上げる。


 なぜ彼女がそういう体質なのか、全く見当がつかない。彼女自身に匂いが分かるのなら彼女も『カミアン』であるはずだが、どうもそうではなさそうだ。そもそもそのようなカミアンを、私は聞いたことがなかった。まあ、もう二十人といないはずのカミアンの中にも、会ったことの無い者が何人かいるにはいるのだが。

 どのみち、彼女に『安住の地』を見つけてあげなければならない。思想警察やC担の心配をせずにいられる場所となると……


 やはりあそこに戻るしかないか。


 一度は捨てた街、『ロクアイ』のことを思い浮かべた。あそこは今、どうなっているのだろう。

 情報化が進んだ現代においても、『ロクアイ』に関するニュースや噂は聞こえてこなかった。あそこはまさに『抹殺された街』だ。情報管理の徹底さに、暗澹たる思いがした。

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