神々のいない世界で 4

 鼓膜を震わしたのは、耳にかかった知波ちばアイサの吐息なのか、それとも、その言葉の内容なのか。

 ゆっくりと、彼女の方へと顔を向ける。鼻と鼻が付きそうな距離で見る彼女の瞳は、どこかしら赤みがかって見えた。


 なぜこの子は、『カミアン』という言葉を知っているのだろう。誰から聞いたのか。

 この子は……何者だ?


「カミアンというのは」


 お互いの息がかかるほどの距離でも、彼女は顔を引こうとはしない。


「何、かな?」


 そんな彼女に、私はそう返した。


「うそ……」


 その言葉を聞いた知波アイサは、細く長い眉をわずかにひそめる。


「アイサの」


 どことなく、私を責めるような視線。


「においに……」


 におい?


 彼女の言葉と、あの『禁句』とのつながりが分からない。記憶を探ろうとした私の思考を、しかし、突然のノック音が妨げた。

 私よりも先に、知波アイサが驚いた様子でドアの方を振り返る。そして、まるでドアの向こうにいる者の正体を透視しようかという風に、息を飲んでドアを見つめた。

 彼女との間の張り詰めたような空気が切られて、少しほっとした一方で、あまりにも過剰と言える知波アイサの反応に、更なる疑念が生まれる。


「はい、どなたですか?」


 そんな知波アイサを横目で見ながら、私はノックに応答した。


「西紀先生、伊郷いごうです」


 返ってきたのは、あの教頭、伊郷レセルの声だ。

 教頭がこの部屋に来るのは、私がこの学校に来てから初めてのことだが……一体何の用だろう。


「ちょっとお待ちください」


 立ち上がったところで、知波アイサが私の腕をつかみ、縋るような視線で私を見つめてきた。驚いて一瞬動きを止めた私に向かって、その如何にも儚げな色白の顔を小さく左右に振る。そして小さく、つぶやいた。


「助けて……」


 本当にそう言ったのか確かめたくなるほどの小さな声。聞き返そうとする私に向けてもう一度顔を左右に振ると、知波アイサはロッカー横のスペーズ、ドアのところからは死角になる場所へと、音を立てないように身を隠してしまった。


 どういうことだ?


 何がどうなっているのか整理できない状態のまま、ドアのところへ行きノブをひねる。そこで、知波アイサがドアのロックをかけていたことを思い出した。

 ロックを解除し、ゆっくりとドアを開ける。鋭い目をした伊郷が立っていた。


「どうかしましたか?」

「ここに三年生の知波アイサはいますか?」


 挨拶も前振りも無く、ましてや何の説明もなく、いきなりの質問だった。


「知波、ですか?」


 念のため即答はせず、そう聞き返す。そこで、伊郷の後ろに控える、二人の男に気が付いた。

 スーツ姿の二人の男。二人とも温和な表情を見せている。一見どこかの役人かはたまた銀行員のように見えるが、一瞬見せた彼らの仕草から、そんな人種では出せないような雰囲気を感じ取った。


 これは……


「さっき質問に来ましたが、もう帰りましたよ」


 咄嗟にそう口にする。しかし、言ってから、私は「しまった」と心の中でつぶやいた。

 開いたドアから、あの知波アイサの身体から放たれた独特な匂いが、廊下へと漂い出すのを感じる。明らかに私のにおいではない。これほどまでに強いと、誰でも気が付くというもの……

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