神々のいない世界で 3

「はい、なんでしょう」


 すぐに返した私の返事に、彼女はまた黙ってしまう。彼女の言葉は、私の言葉を遮るためだけに発せられたかのようだった。

 立ったままその場でうつむいている知波アイサに、私はできるだけ優しく声をかける。


「とりあえず、座ったらどうかな」


 彼女は私の言葉に素直に従い、ゆっくりとした動作で椅子に座った。うつむいたまま、布製のカバンを大事そうに抱えている。

 私も、講師用の椅子に腰かけた。


「質問でしょう? 遠慮せずに言って良いですよ」

「あの……」


 そこでまた言葉を止める。知波アイサが話をし出すまで私は待つことにしたのだが、思ったほどの忍耐力は必要としなかった。


「……フーコー」

「フーコー?」


 ようやく開いた口から出たのは、今日の授業で扱った哲学者の一人の名前だった。

 知波アイサが、無言でこくりとうなづく。


「フーコーの何が分からないのかな?」

「『正常化=規範化』というのが……」

「ああ、なるほど。えっと、ちょっと待って下さいね」


 後で渡せるようにと、私は説明を書くためのペンと紙を取り出した。


「フーコーは、『正常でないもの=逸脱者』に対する考え方が、『隔離する』というものから『組み込んで監視する』というものに変化していった、と論じています。そこでは、『新たな規範が生まれる』という『規範化』が起こるわけで、それが『正常でないもの』を『正常化』することになります。ただ、その新たな規範からも『逸脱』する存在がいるわけで、それがまた『正常でないもの』とされ……」


 部屋の中は、私と知波アイサの二人きりだ。

 やはりドアを開けておくべきだったかと後悔し始めた時、ふと私の鼻腔をくすぐる、嗅いだことのない独特な匂いに気が付いた。


 これは……なんだろう。香水?


 いや、そうじゃない……植物園の温室に漂うような、むせるほどの甘酸っぱい熟れた果実の匂いに、体液が放つあの生々しいがそれでいて嗅いでみたくなるような臭いが混ざった、そんなにおいだった。

 思わず、説明している手を止める。知波アイサに視線をやると、彼女は私をじっと見つめていた。

 その間にも、その独特な匂いが部屋の中をどんどんと満たしていく。


「あの……」


 説明を止めた私を見て、知波アイサが声をかけた。


「ご、ごめん。少しぼうっとしてしまったね。えっと、」

「先生」

「な、何かな?」


 心の中を見透かされたような気がして、私は知波アイサから視線を外す。


「アイサは……においますか?」


 しかしその言葉に、私は彼女を見返さずにはいられなかった。


 何を突然。


 そう言いかけた言葉が喉の奥で止まる。

 部屋を満たす匂いの元は知波アイサに他ならず、そのことを彼女も分かっているのだ。


「あ、いや」

「アイサ……においます、よね?」


 恥ずかしい。そんな様子で聞いてきたのなら、年頃の女の子だ、単に自分の体臭を気にしているのだと思っただろう。しかし、何かが違う。

 彼女の眼は、私の心の奥底を覗き込むかのように、じっと私の眼に向けられていた。


「えっと、確かにあなたの匂いはするけれど、嫌な臭いではないですよ。人はそれぞれ、何らかの匂いがするものですし、体臭というものは……」


 冷静さを失っている、と言えばそれまでかもしれない。聞かれてもいないことを口走るのは、動揺している証だと言えるのだが……私はそこまで言ってから、あることに気が付いた。


 これは……彼女が持つ『体臭』ではない。そうであるなら、入ってきたときから匂いはしたはずだ。しかし、匂いがし始めたのはもっと後だ……。


 彼女から得体のしれない何かを感じたが、視線を外すこともその場を立つこともできないでいる。私を捉えて離さないのは、知波アイサが放つ、まさにこの匂いだった。


「先生」


 知波アイサが、私に体を寄せてくる。まるで金縛りにあったかのように、いや、実際金縛りにあっているとしか思えないほど、体が動かない。

 彼女の顔が私の顔に近づき、そして耳元へと移動する。微かな吐息と共に、知波アイサは私にこうささやいた。


「先生は……カミアン、ですよね?」

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