笑顔と乾杯と晴れゾラ(短編)
時津彼方
笑顔と乾杯と晴れゾラ
僕が笑顔を忘れたのは、いつだろう。
僕は小学六年生の頃を思い出す。
「ねえ、君っていつも笑ってるよね。怒られてることわかってる?」
担任の先生に言われた一言だった。僕はもちろん宿題を忘れて怒られていることは反省していたし、頑張ってその姿勢を先生に見せようとしていた。でも僕の顔は他人にとって常に笑っているように見えたようだ。僕は当時そんな自分の顔が嫌いだった。家に帰って洗面台の鏡で自分を見つめたところ、やはりその顔は笑っていた。僕は親の顔や通学路で合う人々の顔を観察しては鏡を見て、自分の顔が真顔になるよう祈り続けた。
そうして僕は、やっと笑わなくなってきた。
でもそんな僕が、結局笑顔を思い出したのは、多分、あの日。
***
「ねえ、君!」
「えっ、ちょっと!」
彼女は、そよ風のようにやってきた。そして、僕の手を取って颯爽と駆けていく。僕はタンポポの綿毛のようについて行くしかなかった。自分の手につながれた彼女の細い腕を見る。こんなに弱弱しく見えるのに、力強く握られているせいなのか、突然の強風に力が抜けてしまったのか固く握られている。そして、彼女の三つ編みの後頭部に問いかける。
「急に何! まず、君は誰なんだっ」
「とりあえずついてきて! お願い!」
彼女は息を切らしながら走り続ける。こちらを振り向くことはない。久しぶりに晴れた休日の午後、特にすることもなくただ歩いていたので、彼女に体を委ねてみることにした。その間彼女を観察してみる。華奢な体つきをしていて、赤いギンガムチェックの上着を羽織っていて、ふわりふわりとその裾が揺れている。背は僕と大して変わらない。
「ねえ、どこまで行くの?」
俺は五分ほど走らされている。ここまでしてこの子が連れていきたい場所はどこなのだろう。
「もうすぐそこ!」
彼女はここで初めて交差点を左に曲がって、そこにある大きな公園に入るかと思いきや、その奥にあるビルとビルの間の路地に入っていった。幅はそこそこ狭く、彼女は僕のことお構いなしで進んでいくものだから、肩の痛さに耐えながら彼女の行く先を見ていた。
「ここ……だよ」
彼女は肩で息をしている。滴る汗が地面にぽたぽたと落ちている。そこから前に視線を戻すと、小さな公園―――というよりかは空き地があった。
「ありがとう……ここまで来てくれて」
彼女は初めてこちらに顔を向けた。丸く大きい黒目がちの瞳が僕を捉え、細くなった。そして、口角を上げた。整った顔立ちをしている。
「ど、どうしたの?」
僕は口がぽかんと開きっぱなしになっていたのに気づいて、慌てて「い、いや。ちょっと疲れただけ」と平静を装ってごまかした。
「そっか。疲れたよね」
待ってて、と彼女は言い残して公園の奥にある別の路地に消えていった。
一人残された僕は辺りを見渡した。町中にある公園にしては少し小さめで、それにあったサイズのすべり台とベンチが置かれているだけで、あとは何もない。地面にはところどころに雑草が生え散らかっている。
連日の雨のためにどこにも座れそうな場所はなく、僕は歩き回ってそれらを観察していた。すべり台の塗装が剥がれていてところどころ錆びているのと、置かれたばかりのように見えるベンチの新しさが、先程の大きな公園とこの公園とのコントラストより大きく見えてしまう。
「ごめーん。待った?」
彼女はオレンジジュースのペットボトルを二本持ってやってきた。はい、と僕に向かって差し出し、かすかに笑う。
「ありがとう……なんだけど、どうしてここに僕を? ていうか、どこかで知り合ってたっけ、僕たち」
僕はペットボトルを受け取って、ずっと思っていた疑問を彼女にぶつけた。
「えーと、ほぼ初対面かなぁ」
「じゃあどうして……」
「それはこっちのセリフだよ!」と彼女は大声で返す。周りは一応住宅街なので、近所迷惑にならないか心配になって辺りを見渡す。その時ちょうどバイクが爆音が聞こえたので、僕は思わず耳を塞いで目をつむった。ここの住民はこういうのには慣れてるから、と彼女は言った。
「知らない人についていったら危ないって小さい頃言われなかった?」
「連れてきておいてなんだよその仕打ち……」
僕は渡されたペットボトルが急に怪しくなって底やキャップを注意深く見る。
「ふふっ、冗談だよ。君、素直だねぇ」
彼女はからかうように言って自分の分のペットボトルをキャップを開けてこちらに差し出す。ぼーっとそれを見ていると、彼女はもっとこちらに近づけ、すぐ引っ込めた。僕はやっとその意味が分かり、自分のキャップを外して彼女と乾杯した。
乾杯は何故するのか、という話を以前調べたことがある。昔はもちろんペットボトルは存在せず、例えば小さめの樽のようなコップを、昔は自分の飲み物が相手のコップに入るぐらい勢いよくぶつけ合って乾杯していたそうだが、それは相手の飲み物に毒を盛っていないという意思表示だそうだ。乾杯すると、相手の毒も飲むわけになるからだ。
それを彼女が知っているかどうかわからなかったが、少し自慢げにこちらを向いていた彼女の前で僕はオレンジジュースを一息で飲み干した。
「私たち、一応同じ高校に通ってるんだよ」
「えっ!?」
「しかも、最寄り駅一緒だよ」
「ええっ!?」
「だから、一応初対面なの。私が一方的に君を認識してただけ。君が私を知らないのも無理ないよ」
「そうなんだ……なんかごめん」
「なんで謝るのさ」
彼女が拗ねたようによそを向いて言うので、僕は思わず笑ってしまった。
「なんで笑う?」
「あっ、ごめんなさい……」
僕は笑顔を無理やり引っ込めた。
「それも冗談だよ。素敵な笑顔だね。久しぶりに見た」
えっ、と彼女の方を向くと、彼女は久しぶりに顔を出した今日の太陽のような笑顔でこちらを見ていた。
「前までは、『あっ、同じ高校の人だ』って思ってただけだった。でも、朝も帰りも君を駅の辺りで見かけるようになって、この近くに住んでるんだ、ってちょっと興味が湧いてね。時折見せる笑顔が素敵な人だなって思った」
彼女は肩にかけてきた大きめのタオルでベンチを拭きながら、紙芝居を読むように語った。
「もちろん他にも、だいたい同じ時間に電車に乗ったり駅を出たりする人もいたよ。その中でも、やっぱり親近感が湧いたんだ。君には」
彼女ははい、と拭き終わったベンチに座るよう促した。
「このベンチ、私が作ったんだ」
「えっ、そうだったんだ。だから他と比べて新しいわけだ」
「そうそう。ここは私の『庭』なんだ。まあ正確に言うと本当の庭じゃないけどね。私が勝手に言っているだけなんだけど。昔からここで遊ぶことが多くてね。ほら、ここって駅から近いでしょ?」
彼女の言葉に誘発されたかのように電車の音が響く。
「朝急いでる人とか散歩する人とか、みんなここを通っていくんだよ。小さいころからよく見かけるんだ。私も毎日ここを通るんだけど、その時にこの滑り台の下で猫が寝ていたり、このベンチで休んでいる人を見ると嬉しくなるんだ。私も、誰かの役に立てているんだって」
「全然知らなかったな。最近朝起きられなくて大回りして走って駅に行っているから疲れるんだよね。この場所があれば、少しは楽になりそう」
「よかった。私ね。笑顔が好きなんだ。誰かが笑ってくれていると、私の方にも温かさが伝わってくる感じがして。時には笑われるのが嫌な時もある。こんなことをする女子高生なんて、なかなかいないからね」と、彼女は僕との間の座面に手を置いた。
「僕は、素敵だと思う。こうやって誰かの助けになることを、悪く思う人がいるはずないよ」
だから、と彼女と向き合った。
「この場所は誇りに思うべきだ。外の世界は窮屈だけど、ここは狭くない」
まるで写真に切り取られた世界のようにここはどこか懐かしく、ぬくもりのある場所だ。
彼女は笑って、ありがとう、と言った。
「そう言ってくれると嬉しい。このベンチも報われるよ」
ベンチをさする手は、女の子らしく、細く、白かった。
***
春休みが明けてから僕は何回もそこに通った。毎朝はそこを通るだけで時間にも心にも余裕が出来たし、ベンチに座って一休みするために少し早く起きるようにまでなった。高校二年生になって、新しいクラスで彼女と一緒になった。もともと一年間で大した友達も作れなかったものだから、彼女とよく話した。朝もあの場所で待ち合わせることにしたのだが、結局そこに行きつくまでに合流してしまって、笑いあった。
「なんか子供っぽいことを、僕は求めていた気がする」
ある日、僕は唐突に最近思っていたことを口に出してみた。
「子供っぽいこと?」
「うん。大人になりたくないんだろうな」
最近僕の同級生とも将来について語ることが多々ある。家を継ぐとか、大学進学で東京へ行くとか、音楽修行で留学するという人もいる。
「君は、笑っていてほしいな」
彼女はつぶやいた。
「未来は不透明だから、今は笑ってその未来を受け入れたい。私は」
「僕も、笑っていてもいいのかな」
「もちろんだよ。君は笑っていてほしい」
大事なことだから二回言いました、と彼女は小さな声で付け足す。
「ね。君が笑うと、私も自然に笑いたくなっちゃう」
僕が笑顔を思い出したのはいつだろう。
彼女と初めて会ったあの日だ。あの晴れた空の下で、オレンジジュースを乾杯したあの日だ。間違いない。
僕は彼女の隣で、伸ばして広げた手の隙間から、笑う太陽を見た。
笑顔と乾杯と晴れゾラ(短編) 時津彼方 @g2-kurupan
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