第87話 何が起きようと

雨が降っている。


どこの街とも知れない街の片隅にアリシヤはいた。


あの教会からさほど逃げることはできなかった。

エーヌに捕まり、あの荒野まで歩いたのだ。

緊張と不安で足が思うように動いてくれなかった。


剣も持っていない。

むやみに移動するより、朝が来るまでじっとしている方がいいだろう。


アリシヤは路地裏のゴミ捨て場でうずくまる。

フードをかぶり、目を伏せ、まるで物のように小さくなる。


自分を形作っていたものがすべて崩れ去った。

リベルタの部下であり、タリスとセレーノの家族であり、ロセの友達である。


どれも嘘だ。

皆でアリシヤを騙していたのだ。


自分はただの人形だった。

この物語を成り立たせるための。


誰も、アリシヤを必要としていなかった。

必要なのは赤い髪と赤い目、そして魔王の娘という肩書。


ふと、タリスのことが過った。


タリスは守ろうとしてくれた。アリシヤの心を。


だが、アリシヤは膝を抱えて首を横に振る。


それは甘言だ。

リベルタだって言ったのだ。仲間だから必ず守る、と。

そこに恐ろしい意味があったなんて知らなかった。

タリスだってどんな意味を込めていったのか分かったものじゃない。


誰も信用できない。

誰も信じてはいけない。

アリシヤを育ててくれたルーチェだって本当は―。


足音にアリシヤは顔を上げる。


「やっと見つけた」


聞きなれた優しいその声にアリシヤははじかれたように立ち上がる。

そして、ゴミ捨て場に捨てられていた角材を手に取り、相手に向ける。


「近寄るな…‼」


向かい合ったタリスに、アリシヤは声を荒げる。


「来るな!」

「アリシヤちゃん、落ち着いて」

「信じない…!」


アリシヤの目に涙が浮かぶ。


「もう、誰も信じない…!もうこれ以上―」

「アリシヤちゃん」


言葉を遮り、タリスは踏み込んでくる。

アリシヤは角材を振り下ろした。


だが、その手は止まった。


タリスは目をつぶってそれを受け入れようとしていたからだ。


「…やめてください」


アリシヤは涙をこぼしながら呟いた。


「もう…これ以上傷つきたくないんです」


怖かった。

タリスからも絶望を与えられるのが。


もう何も聞きたくない。

何も知りたくない。


アリシヤの角材を振り上げた手がだらりと下がる。


「来ないで…私に近寄らないで…」

「やだね」


タリスが言った。

そして大きく踏み込んでくる。

アリシヤは息を呑む。

タリスに抱きしめられた。


「言ったろ?何が起きようとこの世界に君の味方はいるんだ」


いつか聞いた言葉。

同じようにタリスはアリシヤを抱きしめて言ってくれた。


「僕が…いや、俺がいる。俺は君の味方だ」


変わらない言葉。

違うのはタリスの体温が低いこと。

どれだけ雨に濡れたのだろう。

ひどく冷たい。


探してくれたのだ。

こんな雨に打たれてまで。


「タリスさん…」

「どうした?アリシヤちゃん」

「信じて…信じていいんですよね」

「うん、信じて。俺は、アリシヤちゃんの味方だ」


力強くタリスは言った。


「う…ぅ、タリスさんっ‼」


アリシヤはタリスに力いっぱい抱き着いた。


何よりも欲しかったもの。

アリシヤをアリシヤと認めてくれる人。


いや、違う。


他の誰でもないタリスに側にいて欲しかった。


アリシヤは声を上げて泣きじゃくった。

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