第86話 盾への思い
暗い牢の中、ルーチェは思いかえしていた。
一年前、腹を斬られた。
剣筋からそれがリベルタだと分かった。
アリシヤが攫われたのを見届けてから、リベルタはルーチェを近くの医者のもとへ預けていった。
恨まれているのなら構わないと思った。
殺されるのならそれでも。
だが、殺すつもりではなかったのだ。
分からない。
分からないことだらけだ。
ルーチェは辺りをぼんやりと見渡す。
薄暗い牢。見張りはいない。
あるのはルーチェが入れられているこの広い牢だけだ。
手には枷がかけられている。
左手に一つ、右手に一つ。
そしてそれぞれに鎖がついている。
鎖は牢の端の鉄柱に括り付けられていた。
それでも、鎖は長く、牢内の移動は困らない。
ある程度自由に動ける。
そして、この部屋にはベッドがあり、食事も与えられる。
殺すつもりはないらしい。
だったら目的はなんだ?
リベルタは時折ふらりとやってくる。
明るい声でアリシヤの様子を報告していく。
アリシヤが英雄としてどれほど活躍しているか。
確かにそれはルーチェにとって恐ろしいことだった。
アリシヤが物語に組み込まれてしまったのだ。
最も避けたかったことだ。
だが、それだけなのだ。
会えば質問攻めにされるだろうと思っていた。
質問攻めにしようとも思っていた。
だが、何も言ってこない。
ルーチェからの質問をリベルタはのらりくらりとかわす。
真意が全く分からない。
リベルタはリベルタなのだ。
かつての印象と何ら変わりない。
ただ、一つ違うのは、リベルタがルーチェを見るその目だった。
暗く、纏わりつくような目。
ルーチェはそれが気に食わなかった。
手の枷を思いっきり引っ張ってみる。
だが、びくともしない。
鍵穴があるが鍵は何処にあるのやら。
ただ、牢の鍵は正面にこれ見よがしにかけてある。
趣味の悪いことだ。
ルーチェは舌打ちをし、暗い天井を見上げた。
アリシヤはどうしているだろう。
ルーチェはそればかり考えていた。
物語に組み込まれてしまったアリシヤ。
きっと、あの子のことだ。まっすぐに突き進んでいるのだろう。
ルーチェは顔を覆った。
今まではアリシヤが物語に組み込まれないようにすることばかり考えていた。
だが、事態は変わったのだ。
だったら、次に己ができることはなんだ。
アリシヤはきっともう逃げられない。
だったら、隣にいて、真実から彼女を守るべきなのでは?
ルーチェはため息をついた。
真実。
それがいつもルーチェの心を蝕んでいた。
忘れようと思った。
だけど忘れられなかった。
恐ろしいディニタの顔が浮かぶ。
そして、リベルタの太陽のような笑顔が浮かぶ。
大丈夫だよな?
お前は大丈夫だよな?
がたん、と扉が鳴る。
リベルタがやってきたのだ。
「あーあ」
間の抜けた声を出してリベルタが入ってくる。
牢の前に置いてある小さな箱の上にリベルタは腰掛ける。
そこがリベルタの定位置だ。
リベルタは足を開けだらしなく座り俯いた。
「レジーナ姫…まだ早いって」
ルーチェに緊張が走る。
レジーナと言えばエーヌの民の長だ。
そしてアリシヤの母だ。
レジーナはアリシヤを欲していた。
「アリシヤに何かあったのか⁉」
「ああ。エーヌに攫われた」
「は⁉」
「だけど、俺が助けた」
リベルタが明るく笑う。
ルーチェはほっと息をついた。
その様子をリベルタがまじまじと見つめてくる。
「なんだ?」
「いや…お前アリシヤさんのことになるとえらく感情的だよな」
確かにそうかもしれない。
アリシヤを育て始めてから素直に感情を示してくるアリシヤにつられて、ルーチェも感情豊かになった。
だが、母が死に一度死んだ感情を取り戻してくれたのはリベルタだ。
ルーチェはリベルタを見つめ、ふっと笑う。
リベルタは首をかしげ呟く。
「本当に不思議だよ」
「何がだ?」
「お前が魔王の娘を育てたのが。いや、子育てをしたってことが」
それもそうだろう。
過去のルーチェは面倒事には極力関わらない主義だった。
いや、今でもそうだ。
だだ、理由があったのだ。その理由は誰にも話していない。
だが、もういいだろう。
アリシヤが魔王の娘だと国が知り、それを育てたのが自分だと分かられている今、何も隠すことはない。
ルーチェは口を開く。
「契約、したんだ」
「契約」
「そう。魔王と」
リベルタが目を見開いた。
ルーチェはふっと目を閉じてあの日の光景を呼び起こす。
魔王城の中でリベルタと別れた。
その直後、ルーチェは敵に囲まれ、小さな部屋に誘導された。
そこに現れたのは真っ赤な髪と目を持つ男だった。
ここが死に場所だと思った。
だが、その男、いや、魔王は赤い髪と目を持った赤子を抱いていた。
「この赤子を逃がしてくれ、そう言われた。そしてその対価は…」
「対価は?」
首をかしげるリベルタを見つめる。
「お前だ。リベルタ」
「え」
「お前の命だったんだ、リベルタ」
魔王は言った。
リベルタを生かす。
自分にはそれができる。
ルーチェは迷わず赤子を腕に抱き逃げ出した。
リベルタが顔を覆った。
「ああ…そっか。だからか、納得したよ」
リベルタが呟くように言った。
「魔王は自害した」
「…」
「俺は殺してない。自分で火を放ち、自害した」
リベルタの表情は見えない。
ルーチェはかけるべき声に迷った。
勇者として育てられたリベルタ。
魔王を倒すことが使命だった。
その魔王が自害した。
その後、自分が殺したという嘘をつき続けてきたのだ。
それが、このまっすぐな男にとってどれほど苦痛であったか。
「リベルタ」
「嬉しいよ、スクード。お前が俺のことを思ってくれていたなんて」
リベルタが顔を上げた。
ルーチェの体に緊張が走る。
あの目だ。
まとわりつくような、暗い目だ。
リベルタは続ける。
「スクード。お前はいつも俺のことを思ってくれていた」
声が妙に低くて、薄ら寒いものを覚える。
「『逃げよう』って言ってくれたよな。俺はその手を払った。何度でも夢に見るさ。あの手を取っていればって。死んでもよかった。ここまで歪むぐらいなら」
「リベルタ?」
「スクード。俺は真実を知った」
リベルタの言葉にルーチェは絶句した。
リベルタは笑う。
乾いた笑いだった。
「ある暴動を押さえた時の話だ。アウトリタが俺に剣を向けた。そして言った。殺されるか、この国の駒になるか選べ、と」
リベルタが俯き、ぼそりとつぶやいた。
「本当は死ぬはずだったらしい。だが、魔王との契約で、殺すに殺せないと言われた。ルーチェ、お前のおかげだ。魔王はアウトリタにまで手を回していたらしい」
それはルーチェも知るところではなかった。
ルーチェは驚く。
リベルタの目はどこか遠くを見ている。
「それから、物語に抗ってみたりもしたさ。だけどな、俺が余計な動きをすればするほど死ぬ人間が増えるんだ。物語に従った方が死人は少なく、皆幸せになる。やるせないよな」
ルーチェは何も返せなかった。
「そのうち、俺はこの国のただの駒になった。でも、それはそれでよかったんだ」
リベルタの意外な言葉に、ルーチェは顔を上げる。
「俺、この国好きだし、この国の人も好きだ。守れるならそれでいい。そう思っていた。だけどな—」
リベルタがゆらりと立ち上がる。
そして一歩一歩牢の方へ近づいてくる。
鉄格子を握った。
「お前を見つけてしまったんだ」
「は?」
ルーチェは思わず一歩引いた。
鎖が音を立てる。
「幸せそうにアリシヤさんに笑いかけるお前を見た。そこで気づいてしまったんだよ。自分が自分を騙し続けていたことに」
リベルタの手に力がこもる。
「駒なんかになりたくなかった。こんな真実に気付きたくなかった。勇者になんかなりたくなかった…」
「リベルタ」
「ただただ…普通に生きたかっただけなんだ」
ルーチェは立ち上がり、鉄格子を握るリベルタの手に己の手を重ねる。
冷たい手だ。
ルーチェは小さく呟く。
「納得がいったよ」
「何が?」
「お前が私を斬ったこと。アリシヤを英雄に仕立て上げたこと」
リベルタは国の真実を知ってしまった。
そして、国の指示で動く方が犠牲は少ないと知ってしまった。
だったら、このまっすぐな男は国の指示に従うだろう。
ルーチェを斬ること。
アリシヤを英雄に仕立てること。
ルーチェは尋ねる。
「私とアリシヤを引き離すために私を斬ったな?」
「ああ。そうだ」
「だろうな。私がいればアリシヤを英雄になんかさせない。邪魔をするからな」
リベルタが己を殺さなかったのは。
ルーチェは微笑んだ。
リベルタが大切に思ってくれていたからなのだろう。
「ありがとう、リベルタ。私を殺さないでくれて」
リベルタが俯く。
そして、肩を震わせている。
泣いているのか。
そう思った。
だが、違った。笑っている。
「リベルタ」
「あはは…っ!スクード、可愛い勘違いをするもんだなぁ」
「え?」
重ねていた掌が払われ、リベルタに腕を掴まれ引き寄せられる。
リベルタが笑った。
今まで見たことのない、暗い笑みだった。
「スクード。アリシヤさんを英雄に仕立て上げようと提案したのは俺だ」
「は?」
訳が分からない。
「何故お前がそんなことをする必要がある」
「お前だよ、スクード」
リベルタの手を薙ぎ払い、ルーチェは一歩二歩と逃げるように後ろに下がる。
リベルタはケタケタと笑っている。
それが気味悪い。
「言ったろ?スクード。俺はお前を見て自分の感情に気づいてしまったんだ」
「なに言って―」
「俺はお前のことがたまらなく妬ましくて愛おしい」
その表情のから恐ろしさに、ルーチェはまた一歩下がった。
リベルタはかまわず続ける。
「お前は、過去から逃げて、スクードという役割を捨て、一人の少女に笑いかけてた。それが許せなかった」
リベルタがスクードに視線を向ける。
蒼い目が妙な光を帯びている。
「だから、もう一度、括り付けてやろうと思った」
「は?」
「過去に、この物語に、この
暗い牢の中にリベルタの声が響き、消えた。
わずかな沈黙の後、リベルタが口を開く。
「どこまで行ってもこの物語からは逃れられない。なあ、スクード。この沼のような暗闇に一緒に堕ちようぜ…?」
呟くような暗い誘い。
ルーチェは思わず身を引いた。
泣きたくなった。
やっぱりだ。
やっぱり真実を知れば皆狂ってしまうんだ。
兄であり賢者であったディニタを思い出す。
ディニタは優しい兄だった。
それを狂わせたのはこの国の真実だった。
リベルタですら狂ってしまったのだ。
ルーチェの頭に最悪の可能性が浮かんだ。
「アリシヤは…?」
「ん?」
「アリシヤは真実を知ったのか⁉」
鉄格子にしがみつき、リベルタに問いかける。
リベルタはそれをつまらなさそうな顔で見下す。
「知ったよ」
「な」
「レジーナ姫が教えたらしい。俺の描いたシナリオじゃあ、お前の前でアリシヤさんに真実を告げようと思っていたのに」
アリシヤが真実を知った。
それは、ルーチェにとって恐ろしいことだった。
真実を知れば皆狂う。
アリシヤでさえ狂ってしまうのだろうか。
いや、させない。
どれだけ自分を犠牲にしても。
「いいだろう…」
絞り出すようにルーチェは言った。
「いいだろう!私のことは好きにしろ!その代り、アリシヤは!アリシヤだけは開放しろ!」
リベルタが目を見開く。
「そんなにアリシヤさんが大事なのか?」
「ああ、大事だ。あいつは、アリシヤは…私の最後の希望の光だ」
はじめは押し付けられた子供だった。
だが、年月を重ねるごとに大切な存在になっていった。
ルーチェがこの国の真実を知りながら狂わずにいられたのは、アリシヤのおかげだ。
いや、ずっと思い続けていたリベルタのおかげでもあった。
だが、狂ったリベルタを見た今ではアリシヤだけが希望の光だった。
「…そうか」
リベルタは呟くと、牢の鍵を手に取った。
それをくるりと右手の人差し指で回す。
そして、ルーチェの牢の鍵を開けた。
「何のつもりだ」
ルーチェの問いには答えず、リベルタはそのまま中へ入ってくる。
そして、ルーチェの脚を掬った。
「痛っ⁉」
そのまま無様に地面に転んだルーチェ。
その上に影が差す。
リベルタに抑え込まれる。
馬乗りになったリベルタを見上げる形でルーチェは問う。
「何のつもりだ」
「…アリシヤさんが助かるんなら何でもするんだろ?」
ひどく嫌な笑みだった。
リベルタの指がルーチェの顎にかかる。
「アリシヤさんの代わりの英雄でも作ろうか」
「ああ、私がなってやるよ。英雄にな」
リベルタがくすりと笑った。
そして、もう一方の手をルーチェの下腹部に置いた。
「違う。英雄になるのは俺とお前の子だ」
全身に嫌悪感が駆け巡る。
「やめろっ⁉」
抵抗を試みるがびくりとも動かない。
手はひとまとめにして頭の上で抑え込まれてしまった。
リベルタはそれを楽しそうに眺めながら呟く。
「勇者とスクードの子だ。さぞかし優秀な英雄になるだろうよ…」
リベルタのもう一方の手が、ルーチェの体を這う。
首から胸、腹の傷口を撫で足の付け根へ。
ルーチェは恐怖に顔を引きつらせる。
「触るな…っ!」
「アリシヤさんが助かるならなんだってやるっていったよなぁ」
リベルタの手がルーチェの服に潜り込む。
素肌に冷たい掌が触れる。
「いやだ…!いやだっ‼」
「ああ、そうか」
リベルタが手を止めた。
「お前が大事だったのは、アリシヤさんじゃなく、“ルーチェ”か」
「は?」
喉から漏れた声。
リベルタはにやりと笑う。
「アリシヤさんと暮らしている過去から逃れた自分。それがお前の愛していたもの。違うか?」
「違う…私はアリシヤを―」
「本当に…?」
リベルタの手がルーチェのその柔らかな胸に触れる。
ルーチェの体がびくりと跳ねる。
リベルタがルーチェの耳元で囁く。
「だったらこれも素直に受け入れられるよなぁ…?」
がちゃん、と重い扉が開く音がした。
足音にリベルタが顔を上げる。
入ってきた女は顔をしかめた。
「あまり、いい趣味とは言えませんね」
「…なんだ、カリーナか。邪魔するなよ。いいところだったのに」
「エーヌのことについて重要な報告です」
「分かったよ」
そう言ってリベルタは立ち上がる。
まだ、恐怖に身体が動かないルーチェを置き去りに、リベルタは再び牢に鍵をかけた。
「続きはまたな?スクード」
重い扉が再び閉まった。
残されたルーチェは地面に転がったまま胸を押さえる。
恐怖から心拍数が異常に上がっている。
息が浅く苦しい。
リベルタの手の感触がいまだに身体を這っている。
「う、うぁ…」
ルーチェは泣き出した。
リベルタですら狂ってしまった。
アリシヤもきっと狂わされてしまう。
そして自分はそれをどうしようもできないのだ。
絶望が押し寄せた。
ルーチェはそのまま牢の中で泣き続けた。
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