第57話 セレーノの婚約者

それからは、いつもの図書室で報告書をひたすらに書いていた。

チッタの街で起こったことを事細かに記す。

リベルタ、ロセ、それからタリスと事務的な言葉を交わしながら書類を完成させていく。

昼食も軽く済ませ、書類が完成したころには終業の時間を過ぎていた。


「ご苦労だった」


アウトリタに書類の確認を行い、城を後にする。

リベルタの計らいにより、アリシヤ、タリスは数日間の休日をもらった。

デイリア討伐の報奨金も出るらしい。


帰り道、無言のタリスの隣を歩きながら、アリシヤの目は下を向いていた。


ラーゴの言った通り、城では誰もがアリシヤのデイリア討伐を褒めたたえた。

普段アリシヤに嫌悪の目を向けてくるものでさえ話しかけてきた。


それが恐ろしかった。

自分の名が独り歩きしているような気がしたからだ。


アリシヤは無意識のうちにため息をついた。

それに気づいたのはタリスの目線がこちらに向いてからだった。


はっと口を押えた。

タリスが、困ったように笑った。


「ごめんね」


タリスが言った。

何に謝られたのか分からなかった。


理由を問う前に、タリスは足を速め前を歩いていく。

アリシヤは置いていかれないように後に続いた。


酒場“オルキデア”のドアを開く。

チリンと小気味よいベルが鳴る。


「ただいま」


タリスがそう声をかけて入ろうとし、足を止める。

アリシヤはその背にぶつかり、ふぎゃと小さく悲鳴を上げた。


「…タリスさん?」


固まったタリスの背から中を覗く。

すると一人の男がセレーノの肩を抱いている。

確かセレーノに特に親しい間柄の男性はいなかったはずだ。

と言うことは客の誰かが、セレーノによくない絡み方をしているのだろうか。


不味い。

そう思ったときには遅かった。


「お前、姉さんに何してんだ…!」


タリスが、勢い込んで男の方まで掴みかかりに行く。

男はそれをタリスの手を軽くいなすと、言った。


「はじめまして、未来の義弟さん」

「は?」

「私の名前はカルパ・ジオーヴェ。セレーノさんの夫となるものだ」


***


緊急事態である。


ギャラリーと化していた他の客に帰ってもらい、セレーノ、タリス、アリシヤ、そしてカルパだけが店内に残る。

一つのテーブルを囲み、四人で座る。


張り詰めた空気にアリシヤは膝に置いた手を強く握る。


カルパの方を見る。

金の髪に猫のような青い目。

やはり妹と同じく美形だ。


そう、彼はジオーヴェ家の長男。

つまり、現当主のヴィータの息子であり次期当主。

それでいてロセの兄である。


「それで?」


嫌悪感をあらわにタリスが切り出す。


「あなたのような貴人様がなぜこんな下町の酒場に?」

「タリス君、そんなに威嚇しないでくれないか。僕は敵ではない」


物腰柔らかな態度はロセと大きく違う。

一方タリスは完全に喧嘩腰である。


「突然あら合われて急に結婚をにおわせる男なんてろくなものじゃないと思いますがね」

「急に現れてというわけではないさ。私はここの常連客だ。そうだよね、セレーノさん」


俯いていたセレーノが顔を上げる。


「ええ、そう。カルパさんはよくこのお店に来てくれる」


セレーノの言葉にタリスは眉間にしわを寄せる。


「単刀直入に聞きます。何が狙いですか?」

「落ち着いてくれ、タリス君。狙いも何も、僕はセレーノさんに心を奪われたんだ」

「は?」


タリスの声のトーンがいつもより低い。

はらはらと成り行きを見守るアリシヤ。

カルパが続ける。


「一目見た時から美しい女性だと思った。それでいて何度もこのオルキデアに通ううちにその心配りにも感動したんだ。彼女は美しい、そして優しい。妻に迎えたいと思うのは当然だろう?」


それはそうだろう。アリシヤもそう思う。

この店の常連客の八割以上は確実に同意するであろう。

だが、皆セレーノに好意を伝えることを避ける。

なぜなら―


アリシヤは隣に座ったタリスを横目で見る。


「へえ?それでいてさっきの強引なアプローチを?とんだ勘違い野郎ですね?」


その甘いマスクに似合わないドスの利いた声。


これは怖い。


そう、常連客は誰しもタリスを恐れてセレーノに手出しをすることはできなかった。

タリスは女の子が好きである。

だが、それ以上に姉が好きである。シスコンである。


そんなタリスにカルパは眉を八の字に曲げる。


「困ったな。勘違いかどうかはセレーノさんに聞いてみてくれないか?」


タリスの鋭い視線がセレーノに向く。

セレーノが答える。


「勘違い、ではないわ」

「え」


アリシヤも声を上げた。

セレーノが俯いていた顔を上げてはっきりと言い放つ。


「私はカルパさんとお付き合いをしてるの。そして婚約した。タリス、アリシヤちゃん。黙っててごめんね」


青天の霹靂である。

思わずタリスの方を見た。

タリスは絶望に似た表情を浮かべていた。

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