三 鏡花

「──名前」

「む?」

「そういや知らねぇなって」

「……言われてみればそうだな」

指摘されてようやく互いの名前を知らないままこの奇妙な交友関係は思いの外長く続いていた事実を再認識する。

といってもたかが二週間程度だが。

「まぁそういうワケで教えろよ、お前の名前」

「……宵ヶ原逢莉、それが俺の名前だ」

「オウリ……あんまり男っぽくない名前だな」

「よく言われる。そういうお前の名前は?」

「ヨウ」

「…………それだけか?」

「あ?それだけって何だよ」

「……いや、他に無いなら別に良い」

少なくとも苗字と名前の区別は付いている。

でもこいつ──ヨウは苗字を名乗らなかった。

単に名乗りたくないのか、それとも名乗る苗字を持ち合わせていないのか。

どちらにせよ深く追求するのは藪蛇だろう。


「ああそうだ、そこの引き出しに良いものが入ってるんで持っていってくださいよ」

「……自分で出せば良いだろうに」

「幽霊は引き出しを開けられないんですよ、その辺に置いてある物は掴めるんですけどね」

「難儀だな」

適当に返事をしつつ引き出しを開けてみると小さく丸く、赤い房飾りの付いた鏡が入っていた。

「これは……」

「魔除けのお守り静霊鏡せいれいきょう、無いよかマシでしょ?」

「無いよりは、な」

誰の所持品かは分からないがここを探索する間だけ拝借させてもらおう。

「ところで暁郷、この資料室には植物の観察レポートしか無いのか?」

「図鑑とかもありますけど……お目当てはそれじゃあなさそうですね」

「出来れば職員名簿の類が見たい」

「名簿?お探しの知り合いはここの職員ってことですか?」

「確証は無いが可能性は高いと見ている」

「んー、せめて名前教えてくれません?それで見当つくと思うんで」

「名前……」

あいつの名前は確か──

「……ヨウ、としか名乗っていなかった」

「っ────」

「……どうした?」

「そう、ですか……センセイが、ねぇ……」

また目を見開いて固まったかと思えば神妙な顔で何か含みのあることをぶつぶつと呟きだす。

この反応を見るに暁郷がヨウについて何か知っているのは間違いなさそうだが──

「……そういやセンセイ、ここについてどれくらい知ってます?」

「植物研究所、とは外の看板に書いてあったな。あとは……鏡花の栽培をしていること、ぐらいか」

「見たんですか?」

「外の花壇に枯れた鏡花が落ちていたのをな」

「おっとこれは予想外の返答、てっきりアレを見たのかとばかり」

「アレ?」

「すぐに分かりますよ、ボチボチ通りかかるはずなんで」

「通り、かかる?」

何故花の話をしていてそんな言い回しが出てくるんだ。

花が足を生やして徘徊するワケでもあるまいに。


「ほら来た」

「────」

そいつと遭遇したのは資料室を出た直後のことだった。

服装だけ見れば暁郷と同じこの研究施設で働いていた研究員、という感想しか抱かなかっただろう。

だがそいつの左目を覆うように──いや、本来眼球があるべき所に鏡花が咲いている光景は明らかに異常で、背筋を寒くするには充分すぎるものだった。

「やあやあ見回りご苦労さん」

「ア……キサ、トカ……」

「こっちは俺が片付けておくからさ、お前は仮眠室で休んで来いよ。今なら誰もいないはずだしゆっくり眠れるんじゃないか?」

「ア、アア……ソウ、ダナ……」

促されるままそいつはふらついた足取りでその場を後にする。

「暁郷、今のは……」

「ここにいた研究員のなれの果て」

「っ──」

「まぁでもあいつはまだマシな方ですよ、片目やられただけですし」

「五体満足のお前が言うと皮肉にしか聞こえないな」

「──さぁ、それはどうですかね?」

胡散臭いことこの上ない笑みの裏に隠された感情が何だったのか、当時の俺には読み取ることが出来なかった。

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