第3話
「最っっっ悪」
休みの日は極力家から出たくない。ピアノを練習する時間を確保する為、というのも少しはあるが、ほとんど家に籠る為だけに補習に引っかからないようにしていたのに、学校に忘れ物をして結局家を出るハメになった。
自業自得、というやつだ。腹を立てても仕方ないのは十分分かっていたが、最近京が絡んでこないことで溜まりつつあったフラストレーションも相まってどうしてもイライラする。荒れた気持ちで帰りの電車に乗り込んで、駅のホームに降り立ったところで見慣れた友人と、最近見た顔が並んで歩いているのが遠目に見えた。
どうしてこうもアイツは敏いのか、こちらに気付いたのは気づかれたくない方の人間で。パチッと目が合って、怜がニヤッと笑う。隣を歩いていた京に何か告げて、ゆっくり近付いてきた。京はこちらに気付いてはいないようで、怜とは逆の方向へどんどん歩いていく。
近寄ってくる怜から逃げるように踵を返して早足で歩けば、怜も歩く速度を早めて追いかけてくる。人の波に飲まれて上手く前に進めないでいる俺の肩を、それ以上歩みを前へは進ませまいと怜が掴む。
「待てよ、野々村」
「……んだよ、この間はガン無視しやがったくせに。俺はお前に話なんかねぇ、お前もそうだろ?」
「まぁ聞けって。お前、猫宮に避けられて気が立っているんだろう?どうして避けられているか、教えてやる」
どうして避けられているか、なんて。お前が京に何か言ったんだろう、という言葉は飲み込んで、ゆっくり頷いた。また怜がニヤッと笑う。またそうやって人を見下す。こういう所が本当にムカつく。
「お前、猫宮に売られたんだぞ。知らなかっただろ?」
「……は?」
そんなわけない。そんなわけないとは、思う。そう思った自分を信じ切れたなら、こんないけ好かない奴の言う事なんて聞かずにさっさと立ち去れば良かった。それをしなかったのは、もしかしたらそうかもしれない、と思ってしまったから。もしそうだとしたら、辻褄が合うんじゃないかと感じてしまったから。
「この間駅で会った日からだろ、猫宮がよそよそしくなったのは。……お前、出るんだろ、例のコンクール。でもな、あれには僕も出るんだ」
知ってる。怜はそういう一家なのもあって界隈では有名人だ。コンクールが被っただとか、そういう情報は集めようと思わなくても自ずと耳に入る。
「僕は猫宮に言った。野々村に助言するのをやめて、僕のところに来い。もし僕が全国決勝で優勝したら、レッスン代が猫宮の左腕を治せる金額になるまでうちで雇ってやる、とな」
「左、腕……」
京の左腕。事故の後遺症で動かしづらくなった左手を、京は鍵盤の上に乗せるのを辞めた。多分、あの時から、あの予選落ちした二年前のコンクールから、他人の演奏を聴いただけであんな顔をする程ピアノが好きなはずなのに、京は一度もピアノに触れていない。好きなのに、左腕が思うように動かないせいで。それが、また自由に腕が動くようになれば京にとってどんなにいい事か、京がどれ程喜ぶか、想像に容易かった。けど、それでも──。
「お前、国立の音大に入りたいんだろ。あのコンクールで上位入賞すればかなり大きなキャリアになるから、進学に関しても勝率がかなり上がる。それが優勝なら尚更だ。しかも、あのコンクールの開催中は二年に一回だから、高校在学中に出場できるのは次が最初で最後。だが生憎な、僕も同じ道を目指してる。だから猫宮と優勝は貰っていく、が。恨むなら猫宮と猫宮に捨てられた自分を恨めよ、僕はちゃんと同意を取ったからな」
じゃあな、僕からの話は終わりだ。と、ひらひら手を振って去っていく怜を、何も言わずに睨みつけて見送った。
自由に腕が動くようになれば京にとってどんなにいい事か、京がどれ程喜ぶか、想像に容易かった。けど、それでも──。それでも、希望する進学先の、夢の事までちゃんと知っているはずの京が、俺との友情を切ってまで俺のそれを潰しにきたと思うと、どうしても許せなかった。
「マジ……、か」
怜が立ち去った今、口から漏れたそれを聞いている人は誰もいない。信じられない、京がそんなことをするなんて。でも、そうだとしたら最近の京の行動も納得が行く。京が眺めていた楽譜は、怜の楽譜だとしたら。そうだとすると辻褄が合う。『水の戯れ』、確かに怜が選びそうな曲だった。放課後に予定が合わないのは、怜の家に行っていたから。昼間のウザ絡みが消えたのは、後ろめたい気持ちがあるから。そう考えれば、全部納得出来る。そうだとしたら。怜の言葉をそのまま使うなら、京が俺を売ったのだとしたら。俺は京を許せない。
俺は、俺は──京の為にピアノを弾いていたのに──。
「くそっ……、なんだよっ……!」
むしゃくしゃして、真っ直ぐ家に帰ってもまた荒れるだけだと感じ、本当は電車を乗り換えるために降りただけの駅の改札を抜けた。気持ちが落ち着くまで、適当に時間を潰そうと思って、駅の構外へ出る。
別に、車道の真ん中に立っていたわけでもない。普通に道の端に寄って、この辺りには何があったかな、と、携帯端末で調べ物をしていただけだった、が。
次に顔を上げた瞬間目に飛び込んできたのは、もう逃げられない程近くに迫ったトラック。頭の中は妙に冷静だった。あぁ、死ぬのか、と。近頃は本当につまらないことばかりだった。今日だってよくない話を聞いた。ここで死ねるなら、それはそれでラッキーじゃね?なんて思いながら体躯が車体にぶち当たるのを感じたのと、意識が飛ぶのはほとんど同時だった。
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