第2話
あの日、京が怜に拉致されて行った日から、明らかに京が変だった。
「はよ」
「あ、結……。おはよう」
まず、覇気が無い。今までならおはよう、と言った後には嘘くさい笑顔で軽口を叩いてくるくせに、近頃の京からはお得意の笑顔も剥がれ、口数もかなり減った。それに加えて、何かを考えるような、もしくは思い詰めたような顔を見ることが多くなったし、机上の楽譜を眺めている事が多くなった。ピアノを弾かないのかと訊いた時、あんなにきっぱり断られたのにも関わらず、だ。
不可解なことはまだある。京が眺めている楽譜の選曲だ。綺麗な曲、優しい曲、切ない曲を好む京だが、ここのところ眺めていた楽譜に表示されているタイトルは『水の戯れ』。煌びやかで、どことなく不思議な雰囲気を持った曲だ。京が好きなタイプの綺麗さとは若干ズレている気がするし、自分の好むタイプとはもっと違う。
他にもいつくか腑に落ちないところはあったが、極めつけは京の放課後の過ごし方だった。
「京、今日は……」
「あ……、いや、ごめん、今日も帰る。結も、途中まで一緒に帰る……?」
今日も。今日も京は俺のピアノを聴いてはくれない。以前は聴きに来いなんて言わなくても、京の方から聴きたいと言って勝手に寄って来ていたのに。ピアノを聴いている時の京があんまりいい顔をしていたから、何故だか最近絡んでこなくなった幼馴染もきっとこの話になら乗ってくるだろうと思って、聴きに来ないか、なんて珍しく誘ってやったのに。こうして放課後の誘いを断られ続けて五連敗中。こうもフラれっぱなしだと、朝から憂鬱だった。
「……いや、俺はいい。音楽室、寄ってく」
「そっ……か、うん、分かった。本当にごめんね……?」
申し訳なさそうに京が眉を下げて謝るのを、何も答えずに見ていた。別に、怒っている訳では無い。けれど、京が急に絡んで来なくなって寂しく思っているのも、どこか煮え切らない態度を取る京に若干イライラしているのも事実だった。
どう考えても、絶対、あの日、怜が京に何か言ったに違いない。元々怜に対して、あまりいい印象はない。音楽家の家の子供で、いつも他人を少し下に見てくる。この間駅で出会した時だって、俺の方を見る時だけずっと見下して鼻で笑って、京の事は対等に扱う。怜もピアノを弾いていた頃の京を知っている人間の一人だ。かつての京のピアノの腕を認めている、ということなのだとは思うが、それでもあからさまに扱いに差を付けられると多少イラッとするし、怜のそういう所が好きではなかった。
「あー!!!」
最近の京の態度、怜の事。色々思い出しているとだんだん腹が立ってきて、帰ってきてすぐ、リビングののソファにもたれかかって、首だけを起こして思いっきり叫んだ。
「ちょっと、ビックリするじゃない。何?いきなり大きな声出して」
キッチンから母親の怪訝そうな声が飛んできたが謝る事もせず、だらーっとソファに体重を預けてため息を吐く。いつもの口癖が、つい口をついて出る。
「はぁ……、死にてぇ……」
「え、何?なんか言った?」
「何でもねーよ」
京と話すことが少なくなってから、毎日が格段につまらなくなった。京の事をウザがりつつも、本当は京との会話を楽しんでいたことに今更気付く。それなのに、どうやっても京は元気が無いままウザ絡みも復活しないし、京が好きなはずのピアノですら、俺たちの仲を繋ぎ直してはくれない。どうすればいいのか全く分からず、またため息を一つ吐いて目を閉じた。
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