第1話

「ごめーん結、遅くなった」

「おー、ちょっと、待って」

 また放課後に、という約束通り、音楽室に現れた京の言葉に返事をしながら見ていた動画を切って、スマートフォンの電源を落とす。

「何見てたの?」

「第53回ピアノコンクール、エリアファイナルダイジェスト」

 検索をかける時に打った文をそのまま読み上げた。これでなんの動画が一番上にヒットするか、俺も、そして京も、分かってる。

「あー、またあれ?あんなの見ても結の得にはならないし、手本にもなれない。音だってすごく間違ってる。やめた方が……」

「やめねー。俺は、京の音が好きだ。真似するつもりは、無い。真似しようとすると失敗する、分かってる。けど、好きだから…。あと、あれは怜の演奏も聴ける」

 見ていたのは、二年前の有名なコンクールの予選の動画だった。麻倉怜、俺の事を異様にライバル視してくる、著名な音楽一家の長男と、今、俺の隣で少し困ったように笑っているこいつ、猫宮京が出場したものだ。そして、二年に一度開催されるこのコンクールには、俺と、それから怜も出ると聞いている。

「敵情視察、って訳か。……結は感情の揺れが激しいから、あんまり周りを気にしすぎないようにね」

 京がほんの少し、寂しげに笑う。それは、それまでのコンクールでバンバン良い賞を取りまくっていた京の、最後のコンクールだった。逸材だなんだと謳われていた京が、事故に遭って後遺症の残る左腕で奏でる、少しだけたどたどしいけれど、とても優しい音。それが、好きだった。

 真似するつもりは無い、なんて言っておきながら、頭の中では京のピアノの音をイメージしながら鍵盤に指を乗せる。それから心を穏やかにして、ゆっくり一音目を鳴らす。流れるような音楽が作る風に身を任せて、気持ちいいと思う音を、いちばん曲に合うと思う音を出すことだけに意識を集中する。

 普段、こういう綺麗な曲はあまり弾かない。もっと激しくて、思いっきり音を出せる曲の方が好きだ。性格上そういう曲の方が自分がどういう音を出したいのかよく分かるし、考える暇がないくらい音が詰まっている方が楽だった。ゆったりとしたリズムで柔らかな音が流れる分、音を鳴らす度に緊張する。

 最後の和音を奏でる鍵盤を、慎重に、丁寧に、優しく押して、京のいる方を振り返る。目を閉じて聴いていた京がゆっくり目を開けて、満足そうに笑う。

「うん、良いね。すごく、綺麗だった」

「……京も、ピアノ触ってけば……?ちょっとくらい腕が動かしづらくたって……」

「僕は弾かないよ」

 あんまり嬉しそうな顔をする京を見て思わず口から漏れた言葉が、京に遮られる。さっきまであんなに楽しそうに笑っていたのに、またいつもの薄っぺらい笑顔に戻っているのを確認して肩を落とす。さっきみたいに、もっと普通に笑っていて欲しかっただけなのに。京がピアノを好きなのは、幼馴染で、京がピアノを弾いていた頃の京を知っているから分かる。だから本当は、京もピアノを弾きたいのではないかと思ったのだが。

 何も返せないままでいたせいで出来た沈黙を断ち切るように、口を開いた京が幾つかアドバイスをくれて、それを参考にした上で弾き直して、また京が感想をくれる。京はどんな風に弾けばいいか、というより、どんな風に弾きたいか、考え直した方がいいところを指摘してくれることが多い。例えば、ここはこういう風に、ここはあぁいう風に、と、そういったアドバイスばかりだとその演奏は俺ではなく京のものになってしまから。同世代の中では抜きん出た才能を持っていた京が実質引退した頃から、京が居座っていた位置には怜、それから俺が競い合って座るようになったが、ここまで来れるのも京のアドバイスあってこそだと、俺は思っている。

 何度かそのルーティンを繰り返した後、二人で帰りの電車に乗り込んで、乗り換えのために駅に降りたところで、自分たちとは違う、私立高校の制服を着た、知った顔を見つけた。

「げ」

「あ、麻倉くん……?」

 驚いてつい立ち止まってしまい、人の波に逆らうことになってしまったせいで周りの人が自分達を避けて歩くのが目立ったのだろうか。声が聞こえた訳ではないだろうが、少し遠いところで柱にもたれて立っていた相手も気付いたようで、こちらに向かって歩いてくる。

「うげ、なんかこっち来てんだけど」

「うげ、とか言わないの。何か僕達に用事があるんじゃない?」

 京はそう言ったけれど、こちらを見る怜の目は、とても『用事』を伝えに来る奴の目には見えなかった。まるで、喧嘩をしに来たような、強くて、挑発的な視線。京とはまた違う方向に整った、はっきりとした顔立ちだから余計にそう見えるのかもしれない。

「久しぶりだな、猫宮」

「え?あぁ、久しぶりだね……?」

 京が戸惑っているのが分かる。多分、二人は改まって話をしたことなんて今までないのに、挨拶をしただけ、という訳ではなく、何かこのあとも話をする雰囲気が流れているからだ。

「このあと、時間があるなら少し付き合え」

「ある、けど……、結は…」

「あぁ、野々村、お前は帰っていい。またな。……じゃあ行こうか、猫宮」

「えっ、あ、うん……」

 こちらに向かって話しかけていた時は怖い顔をしていたくせに、京に向けた顔は微笑んでいて、それに気付いた京の戸惑いが大きくなるのが見てとれた。不安そうな顔をした京が、チラチラとこちらを振り返りながら怜の後をついて行く。行っていいの?大丈夫?と訊ねるように。一方で怜から盛大なシカトを喰らった上に、今まで横を歩いていたはずの友人を風のように拉致された俺はといえば、思考が追い付かず、何も言えないまま、怒ることも、京に返事をしてやることも出来ないまま呆然と駅のホームのど真ん中に突っ立っていた。

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