第5話

 外から何やら彼の怒鳴り声が聞こえる。


「だーかーらー、逆だって言ってんだろう!」


 どれだけ大きな声で怒鳴っているんだろうか、彼は。近所迷惑になるからやめてほしい……。

 そんなことを考えながら、いまだに話を続けているのでそのまま放置し、新しくお茶を淹れて飲む。

 そろそろお昼になるし、夕食はどうしようと考える。お昼は残り物かパンを食べるとして、夜はどうしよう。

 父は昨日から三日間の出張に出てしまったから、簡単なものかスーパーの出来合いでいいかと冷蔵庫を覗くと、食材は残り少なかった。


「……しまった、昨日買い物に行こうと思っていたのに、すっかり忘れてた」


 玄関の扉が開く音がしたから彼が戻って来たんだろうと内心溜息をつく。彼が帰ったら買い物に行こうと決めてリビングに戻る。


「ごめん、問題解決」

「……意味がわからないんですけど」

「実はお袋がさ……」


 微妙に疲れた顔をした彼が話してくれたのは、どうも彼の母親は私と姉の名前を逆に覚えていたようで、かなりややこしい状況になっていたそうだ。

 曰く、お見合いを申し込んだのは姉の方(実際は私)で、婚約者がいるからと断られたこと。

 曰く、子どもができたから帰って来いと言われて、あとで挨拶しにくるつもりが仕事に忙殺されてできなかったこと。これも姉のことだった。

 曰く、お金はとあることに使って増えたから、それを返すつもりでいたこと。

 曰く、時間もできたし私の様子が気になったからあのマンションに行ったら誰も住んでいなくて、私が今日話をするまで、入院していることさえ知らなかったという。

 まあ、お隣が引っ越したのは私が入院している時とはいえ、情報源だったであろう母は既に離婚して家にいなかったのだから、知りようがなかったのだろう。それに私も一人暮らしをしていて、この家に居なかったし。


「……どうして今さらそんなことを言うのか、小一時間ほど問い詰めたいです」

「ぅ……」

「まあ、お金は戻ってくることはないと思っていたのでいりません。本当に今さらな話なので。他に話がないのであれば食材の買い物に行きたいので、帰ってくれませんか?」


 本当に、どうして今さらそんな話をするのだろうと思う。今でも彼が好きなことには変わりがないけれど、だからと言って終わったことを聞かされても困る。


「……だ」

「え?」

「嫌だ」

「どうして……」

「お前が好きだからに決まってんだろっ!? 何でわかんないんだよっ!」


 珍しく顔を真っ赤にしてそんなことを叫んだ彼に固まること数秒。


「………………はぁっ!?」


 お茶を飲もうとしていた手を止めた。そんな態度など一度として見せたことはないのだから、そう叫んだ私は悪くない!

 それ以上のことが言えなくて口をパクパクとしてたら、彼が寄って来てうしろから私を抱きしめる。


「……俺だってずっと風香が好きなんだと思ってた。だけどあの時……涼香が勉強会から離れた時あまりにもショックで、風香じゃなくてお前が好きなんだって気づいた。気づいたから、喘息を持ってるお前の負担にならないよう、タバコも止めたんだ」

「……」

「司書になりたいのも知ってた。だから大学に行くと思ってたのに、お前は行かずに就職した。どうしてなのか今までずっとわかんなかったけど、さっき話を聞いてようやく納得したよ。そしておばさんに殺意が涌いた」

「誠志朗、さ」


 まさか、彼が私を好きだなんてまったく考えていなかった。そんな素振りを見せなかったから。


「だって、そんな素振り……」

「そんな素振りを見せなかったって? そんなわけないだろう? 俺は、涼香じゃないと勃たないんだよ」

「…………はい?」

「散々、お前を抱いたじゃないか。それに、お前じゃないと俺は寛げないし、あんなだらしない格好もしない」


 ホント、今さらそんなことを言われても……。


「…………今日は何でそんな格好をしてるんですか?」

「涼香に告白して、プロポーズするつもりだった。子供が生まれたって聞いたし、一緒にいたいと思ったから。だけど……あんなだらしない格好でプロポーズするわけにはいかなかったし……。まあ。勘違いだったわけだけど」


 えっと……彼が……誠志朗さんが何を言ってるのかわからない。

 プロポーズッテナンデスカ?


「涼香……」

「あ……んぅ」


 固まって返事をしないでいる私に業を煮やしたのか、彼は私の顎を捉えて横を向かせるとキスをしてきた。

 久しぶりにした、彼とのキス。

 それだけで身体が熱くなってくる。そして彼の手が蠢くように、胸をまさぐる。

 散々彼に抱かれて彼との行為を覚えた私の身体が、たったそれだけのことで期待してしまう。


「……ココが硬くなったな」

「っ、買い物、行かなきゃ、」

「買い物か……。今日、親父さんは?」

「明日まで出張で、誰も……っ」


 少し悪戯されただけなのに、身体がどんどん熱くなってくる。


「久しぶりに、涼香の手料理を食べたい」

「誠志郎、さ」

「そして涼香を抱きたい」


 耳元でいいだろう? と言った彼に、私は無意識に頷いてしまった。


「ありがとう。買い物に行くんだろ? 一緒に行く」


 私の返事を切った誠志郎さんが、手を離してうしろから抱きしめてくる。


(きっとこれは夢……)


 そう思うものの、彼の温もりも、傍で聞こえる息遣いも、夢ではないことを物語っていて……。

 内心溜息をついて腕を放してもらうとお財布とスマホ、エコバッグを複数持って、歩いて十分のところにあるスーパーに出かけた。

 冷蔵庫の中身やお米の残量を思い出しつつ、誠志郎さんに何が食べたいか聞く。


「寒いから鍋がいい」

「どんな鍋ですか?」

「んー、そうだな……野菜たっぷりの鶏団子鍋」

「わかりました」


 そんな答えが返ってきたので、鍋の材料を籠に放り込んでいく。付けダレはなしで出汁に味を付けてくれと言うので買わず、鍋の材料とは別に必要な食材を買ってスーパーを出た。


「涼香、荷物は俺が持つぞ」

「ありがとうございます」


 全部持とうとしたら重たいほうのエコバッグを持ってくれた。一緒に住んでいた時は買い物すら一緒に行ったこともなかったのに、今日の彼は人が変わったように荷物を持ってくれる。


 いったい、彼に何があったというのか……。


 別人じゃないかって思うくらい、今日の彼は優しい。ううん、前から彼は優しかった。それは私にではなく風香に対してだったけれど。

 それでも一緒に住んでいる時、私が咳き込んでいたりすると背中をさすってくれたし、一緒に病院に行ってくれたこともあったことを思い出し、本質は変わっていないと思うと嬉しい反面、悲しい。

 私を好きだと言った言葉も本当なのか疑っている自分がいることは確かで、かといってここまで機嫌がいい彼を見るもの珍しく、心の中は混乱している。


 どうすればいいの? どうしたらいいの?


 ぐるぐると回りそうになる思考に頭を軽く振ると、「どうした? 大丈夫か?」と聞いてくる彼。


「大丈夫です。ただ……」

「ただ?」

「混乱しているだけ……」

「……信じられないのはしょうがないよな……俺はそういう態度を取ってきたから。だけど、涼香に対する気持ちは昔から変わってない……そこは信じてほしい」

「それは……」


 そんなの、余計に信じられない。


「信じられない? なら、今日は信じられるまで、ずっと抱くよ……」


 離さないからと言った彼に、身体が勝手に期待してゾクリと疼きが走る。どうして彼は、平気でこんなことを言えるのだろう……。

 一応「遠慮しておきます」とは言ったものの、なぜか彼は上機嫌。小さく溜息をついている間に家に着いたので、鍋に使う食材だけを出しておいて残りは冷蔵庫にしまう。

 さすがに晩ご飯を作るには早い時間だったし、お昼を食べるにしても少し遅いので、残っていた食パンをトーストして二人で食べた。

 夕方になるまで私は彼が寝るための布団を少しだけ干したあとで布団乾燥機を入れてセットしたり、洗濯物を取り込んだりしたのだけれど、そこでも彼は手伝ってくれた。そして夕食を作るのにちょうどいい時間になり、作り始める。


 まずはお米を洗ってスイッチを押す。一時間で炊き上がるので、その時間に合わせて鶏団子の種を作り、他の野菜を切る。

 土鍋に野菜と出汁を入れてテーブルの上にセットしてあったカセットコンロにのせると、火を点けてひと煮立ちさせてからスプーンで団子の種を丸めて土鍋に投入し、蓋をすると弱火で煮込む。


「おー、いい匂いだ」


 匂いにつられたのか、ソファーからテーブルに移動してきて土鍋をじーっと見ている。


「他に食べたいものはありますか?」

「とりあえず、鍋とご飯さえあればいいかな」

「わかりました」


 一応お刺身も買ってきたのでそれも用意し、テーブルにお鍋用の器やお箸とお刺身のお皿やお醤油、お鍋の中身をすくうおたまや菜箸をセットしておく。鍋が煮えてきたので蓋を取ると湯気とともに野菜と団子、出汁や味付けしたお醤油、野菜の匂いがあたりに広がる。


「美味そう!」


 子供のようにそわそわし始めた彼に苦笑し、野菜や鶏団子を取り分け、渡す。


「どうぞ、召し上がれ」

「おう! いただきます! はふっ、あつっ!」


 息を吹きかけ、冷ましながら食べるものの、熱いようでハフハフいいながら鍋を食べる彼。一緒に住んでいたころも、こうやって目を輝かせながら、美味しそうに食べていたっけ。

 懐かしく思うものの、これからのことを思うと食欲がなくなる。かと言って薬を飲まなければならないから、食べないわけにはいかない。

 少しずつ食べながら、彼にご飯をよそったりおかわりを渡したりしているうちに食事も終わり、お風呂をどうするか聞くと「入る」という。


「もう……寝巻きなんてあったかな……」


 彼が着るような寝巻きがあったか探すものの、当たり前だがない。引っ越してきたまま中身も見ず、押入れに入れていたダンボールに何かないかと探すと、一緒に住んでいた時に買った新品のスウェットと下着が出てきた。


「あ……」


 それは出張の帰りに買ったもので、彼が好きそうな色とデザインだし、彼が下着を買っておいてと言ったのを思い出して買って帰ったが、彼はいなかった。そしてそのまま私が入院してしまって引っ越しは姉夫婦と父がやってくれたし、私が激痩せしちゃって使えないからと、そのまましまってあったものの中に入っていたのだ。

 虫食い穴もないし、暖房があるとはいえ裸のままとかスーツのまま寝かせるわけにもいかない。


「はぁ……」


 急に来て泊まると言った彼が悪い。やっぱりさっさと帰ってもらえばよかった。

 今日はこれで我慢してもらおうと半ば八つ当たり気味に盛大に溜息をつくと、袋から出して値札などを切り、階下に行ってダイニングにいた彼に渡す。


「涼香、これ……」

「……出張から帰って来たら、誠志郎さんに渡すはずだったものです。そのまま入院してしまったんですけど、それがダンボールから出てきました」

「……」

「よかったら使ってください」

「……ああ」


 お風呂場に案内して、スイッチの場所や給湯温度を上げるスイッチなどを教え、その場を離れる。


 今さら苦しそうな顔をしたところで、過去は変えられない。


 こんなにもまだ彼が好きだと気づかされて苦しくなる。そしてさっき聞いた彼の言葉が嬉しくて、期待してしまう。


「……どうしたらいいの……?」


 本当に彼が私を好きなのか――今の私にはわからなかった。


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