第14話 エピソードその十三

土曜日の朝は気持ちよく目覚めた。

天気もよく、朝の日差しが心地いい。

スズメもカラスも声がよく通っている。

まずは目覚めのモーニングコールを入れてみる。

―おはよう。起きた?いい天気だよ。―

するとすぐさま返事が届く。

―おはよう。朝からちょっとドキドキしてる。―

ってね。ボクも同じだけど。

少し寒いけど窓を開けて、部屋の中の篭った空気を入れ替えた。そのあとでエアコンのスイッチを入れて再び部屋の中を暖める。

ウエルカムドリンクは紅茶でも用意しておこうかな。茶葉はダージリンでいいか。ミルクもレモンもあるし。ポットだっていつでも温められる。

まずは自分用のモーニングを仕立てよう。紅茶の予行演習もできるし。小さめのフライパンに火をつけてソーセージを転がす。次にコッペパンに切り込みを入れて、軽くトーストする。切込みの中に少量のマヨネーズとたっぷりのマスタードとケチャップを流し込めば、後はこんがりと焼きあがったソーセージを挟むだけである。これで特製ホットドッグの出来上がり。ボクはこのホットドッグが好きで、週末には多く活躍するメニューである。

指に付いたケチャップとマスタードをペロッと舐め取ると、あとはテレビを見ながらゆっくりと紅茶をすするだけ。これがボクの週末の朝のゆったりとした贅沢な過ごし方なのだ。

食べ終わると、赤と黄色に染まった皿が目障りになったので、いち早くキッチンで洗い流す。カップはもう少し紅茶を楽しむために置いておこう。


一息ついてコタツに腰をおろし、テレビをつけると朝から生々しいニュースが流れていた。

『ここ最近、若い男性の変死体が次々と発見されており、警察では連続殺人事件として捜査を行う方針です。男性の変死体が発見された場所は、新小岩井、西葛西、両国、浅草の順に発見されており、東東京付近を中心に捜査が行われるようです。』

別の番組ではこの事件とともに別の事件のことも話題に上がっていた。

『そういえば、一昨年から新宿付近で若い風俗嬢の変死体がいくつか発見されていますよね。あの事件もまだ解決されていませんし、それぞれの関連性はあるのでしょうか。』

『野犬に噛まれたような跡がある、あの事件ですよね。』

『確か静岡でも似たような事件がありましたよね。』


なんとなくテレビは見ていたが、今朝のボクにとっては、単に画面が移り変わりながら、音が流れているだけに等しかった。コメンテーターやアナウンサーが喋っている内容などは、まるで頭に入ってこなかった。しかし、何だかあの店の近くやミサの住んでいる付近で起きている事件であることは何となく気になったけど・・・。

しかし、それよりも時計の針音の方がボクの神経を鋭敏にさせていた。

そして九時半を少し回った頃、ミサから電話が入る。

「今から電車に乗るから。二十分後ぐらい?お迎えお願いね。アッくんち、タマネギってある?重いから買わなかったの。」

「うん、あるよ。玉子もニンジンもミニトマトだってあるよ。ジャガイモは無いけどね。」

「ジャガイモは無くても大丈夫よ。」


それからの二十分の長いことったらなかった。

ボクにとってはまるで三時間ぐらいに思えるほど長く感じるのだ。

―――――たったの十分なのに。

それが部屋の中で待つ時間なのだ。十分もすれば駅へ迎えに出ればよいのである。

さらには駅までたった五分の道のりを行くのに、ああでもない、こうでもないと着替えをする。お迎え時のコーディネートまでは考えていなかった。

ざっと無難な服装に着替え、いつもの上着を羽織る。ただ、上着に金色の長い髪の毛のような糸くずが付いていたのは気になったが・・・・・。

「髪の毛?まさかね。ミサに見つかる前でよかった。勘違いされても困るしな。」

埃を払うように、金色の糸くずを振り払い、それでも程よく体裁を整えると、コタツの電源だけオフにして部屋を出て行く。


先に駅に着いたのは、もちろんボクだ。

彼女が乗っているであろう電車が到着するまで、あと三分、二分、一分。

やがて電車がホームへと滑り込んできた。心臓がドキドキバクバク音を立てている。

しばらくして改札口に現れるミサ。そしてピッタリと合う目線。

「おはよう。よく来たね、待ってたよ。」

「おはよう。ちょっと緊張してるかな。」

彼女の手にはどこで買ってきたのか、買い物袋がぶら下がっている。

「その荷物、ボクが持つよ。その代わり手をつないでもいい?」

「うふふ。うん。」

少しはにかみながら、ボクが差し出した手を受け止めてくれる。その手をぎゅっと握って、彼女の体温を感じながら、スッとボクの上着のポケットに差し入れた。

「こっちの方があったかいでしょ。」

「うん。」

ミサはそのままボクの腕に寄り添うように頬をあてた。

とっても幸せな時間だと感じる。

ミウではなくミサとして彼女を迎え入れて最初に歩く道のり。この時をどれほど待っていたことか。

自分の部屋の前に着いたとき、なぜだか妙な緊張感が胸元を走る。

彼女がそっとボクの顔を見上げた。

「大丈夫。でもちょっと緊張する。」

「ボクもだよ。」

そしてドアを開け、玄関に入るやいなやミサをグッと抱きしめた。彼女もボクの背中に腕を回して応戦してくれる。

「キスしてもいい?」

「うん。」

ボクは待ちきれなかった。ミサの唇を、匂いを、やわらかな感触を。一分一秒でも早く思い出したかった。

ほんの数秒だったが、これでボクの衝動は一旦収まる。

「会いたかった。」

彼女から切り出した言葉だった。ボクが待ち望んでいた言葉だった。ボクはもう一度ミサを抱きしめてキスをした。

唇が離れると、彼女から次の言葉が放たれる。

「ずっとここで、こうしてるの?」

「確かに。あんまり綺麗じゃないかもしれないけど、中へお入り下さい。」

ミサは一旦リビングの入り口で立ち止まり、部屋の中を見渡すように凝視していた。

そしてコタツを見つけると、一目散に潜り込む。

「お茶、淹れるね。」

「アッくん気が利くぅ。」

お茶と言いながら用意していたのはダージリンである。あっという間に部屋中に広がる紅茶の匂い。

「紅茶ね。いい香り。」

温めてあったカップに注いでミサの前に置いた。

「お待ちどうさま。こちら、ダージリンでございます。」

「うふふ。喫茶店みたい。」

ボクはミサの隣に座り、まずは無事に試験が終わったことをねぎらった。

「やっと終わったね、試験。できたでしょ、ミサちゃんがんばってたから。」

「うん、きっと大丈夫。それよりも今日のランチの方が緊張するかも。今日はね、ミートグラタンを作ってあげる。」

「そんな高度なものができるんだ。楽しみだなあ。」

「ちょっとだけ休憩させてね。」

そう言って両手をコタツの中に入れた。

「もっとそばに行ってもいい?」

やや遠慮がちに聞いたつもりだったが、彼女は黙ってすぐに隣のスペースを空けてくれる。

ボクはぴったりと体がくっつくほど、狭いスペースに無理やり押し入り、彼女の全てを感じ取ろうとしていた。

ちょうど真後ろにはソファーがあり、いい背もたれになっている。ボクは彼女の肩に腕を回して抱きしめる。

「ミサちゃんがボクの部屋にいるなんて、なんだか夢みたいだ。」

「夢かもよ。」

「じゃあ、覚めないで欲しいな。」

ボクは再び唇を求めた。ミサはそっと目を閉じてボクを受け入れてくれる。

唇が離れると、ボクの鼻腔は自然と彼女の首筋を探索していた。

間違いない、ミサの匂いだ。何ともいえない甘くやわらかな芳香がボクを翻弄する。

しかし、ボクはそれ以上のことをすぐには望まなかった。我が牙城とはいえ、自身が無秩序な狼になることを好まなかったからである。これはボクの性格上のことかもしれない。

一息ついたころ、ミサが動き始める。

「さあ、そろそろランチの用意をしなきゃ。今日はアッくんにランチを食べさせてあげるのが私のメインイベントなんだから。」

そう言って持ってきたバッグからエプロンを取り出すと、トレーナーの上からさらりと羽織る。エプロン姿もとっても可愛い。

「アッくんはそこで待っててね。ちょっと時間がかかるかもしれないけど。」

そしてさらに買い物袋からひき肉とマカロニと缶詰を取り出す。

「ご要望のタマネギはそこにあるでしょ。」

「うん。」

そして彼女はコトコトと音を立てながらタマネギを刻んでいく。

やがてフライパンに火が入り具材を炒めだす。徐々にいい匂いがキッチンを占領していく。

ボクがその様子を覗きに行くと、

「ダメよ途中で覗いちゃ。恥ずかしいから。」

ふと彼女の手元を見ると、デミグラスソースやトマトの缶詰のほかにいくつかの小瓶が見えた。

「これなあに?」

ボクが手にとって眺めていると、

「香辛料よ。ミサが独自でブレンドしたの。」

ふたを開けて匂いを嗅ぐとクミンのいい香りが鼻を刺激する。

「さ、向こうでお利口さんにしててね。」

彼女はボクの頭をなでなでして嗜めるように言った。

「はーい。」

ボクもそれに合わせるように返事をしてコタツへと戻る。

やがてソースとチーズの焼けるような香ばしい匂いが漂ってくると、ボクは居ても立ってもいられなくなり、犬が飼い主に駆け寄るかのようにミサの方へ駆け出した。

「いい匂いだなあ。」

「出来たよ。」

ボクはあらかじめ用意しておいたランチョンマットにフォークとワイングラスを置いた。さらには缶だけど、おしゃれなカクテルも用意してあるのだ。

「お昼から飲むの?」

「せっかくの記念だから軽くね。乾杯だけ。」

運ばれてきたミートグラタンはとても美味しそうだった。そしてグラスにカクテルを注ぎ、二人の記念日に乾杯。昼の宴が始まる。

「お店も卒業、試験も終了、あとは学校の卒業と勤務先の決定だけだね。」

「うん。でもお店のことは忘れてね。アッくんと出会う為の場所だったっていうことにしておいてね。」

「タイミングもちょうど良かったんだよ。」

「ん?」

「ボーイさんがね。最近、若いお客が減ってきたような気がするって言ってたし、ミウちゃんとしてもおじさんばっかりじゃ嫌だっただろうしね。」

「もうその名前は忘れて。そしてあのお店のことも。」

「大丈夫。もう言わないよ。それよりもコレ、とっても美味しいよ。」

「よかった。山盛り作っちゃったからドンドン食べてね。」

「残ったら明日の分にするよ。これなら一週間ぐらい食べられそうだ。」

「きっとそれは無理よ。うふふ。」

そんな会話も楽しかった。


「ごちそうさまでした。」

彼女の作ったグラタンは本当に美味しかった。不思議な香りもした。例のスペシャルな香辛料の効果だろうか。トマトベースのデミグラソースも刺激的だった。彼女は赤いソースと肉が好みなのである。

お腹の欲求が満たされると、普通は睡眠の欲求に駆られるものだが、今日は目の前に麗しき乙女が鎮座している。睡眠よりも本能の欲望が優先される。

ボクだって草食男子ではない。目の前にあるご馳走に手が出ないわけもない。

彼女の手を握り、肩を抱き寄せ、奪うように唇を求め、そのやわらかな感触を味わった。すでにその態勢に入っていた彼女は、虚ろな眼差しでボクを見上げ、

「今日はいいのよ。」

といってボクの首に腕を回した。

その瞬間、ボクの中のスイッチが入り、欲望のギアが一気にトップへシフトアップされる。

トレーナーを剥ぐと薄手のインナーがピッタリと体にフィットしており、見覚えのあるボディラインのシルエットが目に飛び込んでくる。

さらにそのインナーも、そしてスカートもストッキングも優しく剥いでいく。彼女も腰を浮かせながらボクの動作を促していた。

同時にボクも着衣を一枚ずつ剥ぎ取って、お互いに上下が残り一枚ずつになったとき、ボクは彼女をベッドへとエスコートしていく。

もう誰にも止められない。ボクが彼女の恋人になるための儀式。そう思っていた。

すべるような肌、やわらかな唇、うっとりする匂い。その全てがボクを翻弄する。

ボクは彼女のブラをはがして、その目線の先に美しい丘陵を発見する。

見たことのある景色ではある。しかし、明るい光源で見渡す景色は初めてだ。これはこれで大いに美しい。今までに見た光景のなかでは最も美しい。

そっと手を添えると、ピクリと反応する。

「キスしてもいい?」

いつものように尋ねると、

「うん。」

小さな声で、たった一言が返ってくる。

その返事を聞いて右の丘陵と左の丘陵の頂点にある石碑への挨拶を交互に行う。丘陵の山肌はいつにも増してしなやかだ。

ボクの手がその丘陵のしなやかさを堪能している間、彼女の手はボクの剣へと手を伸ばしてきた。今度はボクがピクリと反応する。

狼としての本能が解き放たれたのはこの瞬間だろう。ボクは猛烈に彼女の唇をもとめ、さらにその奥に鎮座する女神様へも強引な挨拶を施した。

先遣隊となったボクの右手は、彼女の最後の着衣となる小さなテントの中に滑り込んでいた。その奥には小さな繁みと渓谷があり、さらに奥に進むと洞窟を発見する。その洞窟はじっとりと濡れ、震えるように蠕動していた。

それを確認した先遣隊は、ゆっくりと洞窟の中の探索を始める。上部、下部、中部とくまなく探索を行う。先陣が矛先を変えるたびに女神様の祈る様な声が聞こえてくる。そのたびにボクの首に巻かれた腕が、その半径を縮めていった。

やがて彼女からキスを求めるようになると、ボクは思い切って最後の一枚を剥ぎ取った。すると彼女もボクの最後の一枚を剥ぎ取り、天に向かって怒りを露にしていた剣を優しくなだめるように撫でていく。そしてするするとしゃがむようにして体を縮め、猛々しく天を向く剣を彼女の女神が鎮座している祠へと導いていた。

「おお。」

なんという感触だろう。今までに味わったことのない高貴な痺れだ。ボクは彼女にその行為を続けさせたまま、洞窟探検を行うこととした。体を入れ替えるようにして、彼女の洞窟が目前に来るように移動する。目の前に広がる洞窟の入り口は、すでにじっとりと濡れ、妖しく光っていた。

ボクの鼻腔は躊躇なく洞窟への侵入を試みる。しかしその入り口は狭く、我が剣でしか謁見できないだろうと思われた。さらには、その洞窟が放つ花園のような芳香に我を失いかけるのだが、その間中、彼女の女神様による攻撃は留まることを知らず、ボクは紛れもない第一の放銃を暴発せざる得なくなる。

「ダメだ。ダメだよ。」

ボクの忠告は彼女の耳に入らない。入っていたのかもしれない。だけど彼女は攻撃の手を緩めることなく、ボクは完全に敗北宣言をするしかなかった。

「あっ。」

「うっ。」

二人の声は同時だった。


「ゴメン。」

「いいの。わかってたから。」

既にボクのほとばしりは彼女の祠の奥底へ流れ込んだ後だった。

「ちょっと苛めたくなったの。アッくんのイク時の声が可愛いから。女の子みたい。」

なんだか照れくさいような嬉しいような。それでも彼女はボクの剣にやさしく触れ、

「もうおしまい?そんなわけないよね。」

そう言って、にっこりと微笑む。

ボクもまだまだ二回戦や三回戦へのチャレンジには体力的にも自信があった。

「次は簡単に降参しないぞ。」

「うふふ。」

彼女は再びボクの剣を祠へと導く、その何ともいえぬ感触を覚えている剣は、再び躍動を取り戻すのに無駄な時間は不要だった。

今度はボクが攻める番だ。彼女のウイークポイントはある程度わかっている。店にいるとき最も逃げ腰になっていたのはウエストラインへのタッチであった。

ボクの先遣隊は丘陵への挨拶と探索をゆっくりと行い、背中のゲレンデをすべるように降りてくると、彼女のウイークポイントへと行進していく。先遣隊がウエストラインに辿り着くと同時にビクンと震える体を確認し、その反応を充分に楽しんだ後、やがて双子の山にたどり着く。そこで弾力のある渓谷へ繋がる断崖絶壁を見つけると、さらには絹のような肌触りをした林道をも発見する。時には指で、時には掌でその感触を確かめていく。

唇への挨拶も忘れない。そして何度目かの丘陵の頂点への挨拶を終えたとき、彼女のお許しのお言葉が下賜された。

「きて。」

たった二文字の、そして重要な言葉がボクに決心を促した。

ボクは言葉なく、自身の剣を洞窟へ挿し入れる。同時に祠から呻くように聞こえるこだまのような精霊の声。

ゆっくりと、時には激しく、彼女の全てを感じられるように時間を使った。後部からの探索も行った。彼女を上にしての探索も行った。その全てが素晴らしかった。

ボクはある衝動に駆られて、

「ちょっと歯を当ててもいい?」と言うと、

「うん。」と返ってくる。

丘陵の頂点にある石碑を軽く噛んでみると、

「あん。」

コリッという感触と共に聞こえてくる女神の嗚咽が聞こえる。

何度か体が入れ替わり、彼女が上にいたとき、ボクの耳元でそっとささやいた。

「私も歯を当ててもいい?」

不思議に思ったが、「うん。」と答えると、彼女はボクの首筋に唇を這わせ、耳元とうなじ辺りでスッと歯を当てた。

女性に歯を当てられるのは初めてのことだったが、なんだか少し気持ちよかった。体が痺れるような感覚だった。

ボクたちは何度も体を入れ替えては、その都度の感触を確かめていた。ボクも二回戦であるがゆえに、意図せず暴発するようなこともないだろう。

それでもタンゴもワルツもバラードも踊りつくし、やや朦朧とした意識の中、そろそろ大団円に導こうとする頃、彼女の耳元で囁いてみた。

「これからずっと一緒に居られるといいね。」

すると彼女は思いもよらぬ返事を投げかけた。

「ミサの赴任、遠いところになりそう。」

「もうわかってるの?」

「なんとなく。」

「それでも出来るだけ会いに行くから。」

「うん、来て。」

そう言って彼女はボクの腰をギュッと抱き寄せた。ボクはラストスパートのつもりで激しいジルバを踊る。もう限界だ。それがわかったのか、

「いいのよ。そのままで。」

ボクのリミッターはとっくに外れていたため、何も抗うことなく、快感を伴う銃撃は彼女の中に放たれていた。今までにない最高の刺激だった。

「ありがとう。愛してる。キミを想う気持ちがさらに強くなった。」

「うん私も。もうアッくんを離さない。アッくんだけだもん、ホントに偶然に出会えたのは。」

「でも遠くってどこ?」

「うん。ロンドンかな?パリかな?もしかしたらにルーマニアに戻るかも。」

なんだか急にとてつもなく遠すぎる話になる。札幌や福岡でも遠い話なのに、全てがヨーロッパに集中している。

「うふふ、アッくんも一緒に行くのよ、私と。」

「えっ?そんなに遠くには行けないよ。」

「大丈夫。私が連れて行くから。」

なんだか急におかしな展開の話になっている。しかし、それにしてもこの体の脱力感は何だ。普通に交渉が終わった後の脱力感とは明らかに違う。

霞みそうな目をこすってミサをよく見ると、彼女の上下の犬歯が異様に長いのに気付く。しかもその先端が少し赤い。

「どうしたのその歯?それって血?」

「気のせいよ。それよりも、もっと抱いて。」

彼女の体からは明らかに血の臭いがしている。ハッとして首筋に手を当てると、手のひらにニチャッとした感触が伝わってきた。その手を恐る恐る目前にかざすと、真っ赤な血がこびりついていた。

「なんだこれは。」

と叫ぶ間もなく、ミサはボクの首筋に再び歯を当てている。けれども痛みは無い。神経が麻痺しているようだ。

そのとき、ミサの料理していた様子を思い出した。

「あっ、あの香辛料。」

あれは神経を麻痺させるものだったのかも。それに若い客が減っていたというボーイの話。それもこういうことか。ミサの毒牙にかかった若い客が次々と犠牲になっているということだ。ボクもその一人となってしまうのか。

「アッくん。愛してる。だからアッくんも、もっとミサを愛して・・・。」

彼女は動けなくなったボクの体に覆いかぶさり、舌なめずりをしながら弄んでいる。

ボクの意識はドンドン朦朧とし始め、やがて目の前が真っ暗になっていく・・・・・・。



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