第13話 エピソードその十二

ミウの卒業式が明けて翌朝、ボクはパソコンの前で『ピンクシャドウ』のホームページを見ていた。

数時間しか寝ていなかったが、割と早めに目が覚めたボクは眠気覚ましのジョギングとシャワー後のモーニングを済ませて、一息ついたところだった。

ホームページでは昨夜のうちに書いたであろう、ミウのブログが投稿されていた。

「今日で卒業です。今までありがとう。」

たった一文、それだけが書かれていた。もちろん絵文字のハートマークなんかは入っていたものの、シンプルな一言に彼女の性格が表れているようでもあった。

そして彼女はもう店にはいない。

これからはボクが個人的に応援することになるのだ。そんなことを思いながら、他の女の子のブログを流し読みしていた。

すると手元のケータイがブルブルと震えだす。ヒデからの電話だ。

「おはよー。起きてる?テルから聴いたぜ。すげえ可愛いらしいじゃんか。しかも、ちゃんとヘルプだけをこなしていたようだし。おっぱいはおろか、腰や足さえも触らせてもらえなかったって嘆いてたぜ。堅物でいい子じゃねえか。」

「ちゃんとしてる普通の女の子だって言っただろ。」

「結局昨日は行かなかったのか?最後の日なのに。結構遅くまで粘ってたんだけどな、おまいさんが来ないかと思ってさ。」

「行ったよ。終電が終わる頃に。」

「なんだって?そうかクルマか。そういう手があったな。アキラだったら飲まずに会いに行くよな。オレたちには絶対に無い選択肢だ。で?今日はこれからデートか?」

「彼女は近々試験を受けなきゃいけないんだ。邪魔しちゃダメだろ。それまではデートもお預けさ。」

「そんなのにも平気なんだよな、おまいさんは。なら、今夜は飲みにいかねえか、『ロッキー』で待ってるぜ。六時な。」

そこまで言って一方的に電話を切ってしまった。ボクが行くとも行かないとも返事をする前に。それがいつもの彼の作戦であることも承知していた。


簡単に冷凍食品のパスタでランチを済ませたボクは、お腹の膨らみとともに瞼が重くなってきた。あまり寝ていないのだから眠くなるのは当然のことである。

昼寝も軽くこなして、次に目を覚ますとすでに夕方である。サロンに行って髪を整え、もう一度ジョギングした後にシャワーで汗を流した。唯一つ、『ピンクシャドウ』に行くわけではないので、髭をあたることはしなかった。

『ロッキー』に着いたのは約束の六時を少し過ぎた辺り。積極的に行きたいわけでもないので、ボクの足取りは重かったのだ。

扉を開けて店に入ると、ヒデは右奥のテーブル席でふてくされるように待っていた。

「遅い。約束の時間に遅れるなんておまいさんらしくもない。」

「オレは約束なんてしてないよ。勝手にそっちが一方的に喋って、勝手に電話を切っただけじゃん。だから約束なんてしてないの。」

「まあいいや。どうせ、こちとらもう二時間も飲んでるわけだから、十分や二十分おまいさんが遅れたところで構いやしない。それより聞かせろよ。最後どうした。店が終わった後は行ったんだろ?」

「何を想像してるのか知らないけど、彼女の家の近くの駅まで送っただけだよ。」

「おまいさんは仙人か。そこまで行ったら普通は送り狼だろ?何でそれができない?うまく彼女にコントロールされすぎてないか?いい具合に利用されてるだけなんじゃないの?」

「試験前だから。そうじゃなかったら無事に送り狼になってるさ。オレだって聖人君子じゃない。だけど、大事な時期ってあるだろ?今の彼女がその時期なんだ。」

「おまいさんにとっての大事な時期はいつなんだ?今じゃねえのかよ。」

「ああ。今じゃない。オレにとっても大事な時期は彼女の試験が終わってからなんだ。」

「しかし、あの店も律儀だよな。オレとおまいさんの関係を女の子から聞いたらしくて、全然ミウちゃんに会わせてくれなかったもんな。」

「カレンさんには感謝してるよ。お陰で店ではキミらの目線を気にせずに過ごせたしね。」

「そんなに言うほど通ってたのかよ。」

「オレにしては通った方じゃないかな。キミらの通う頻度までは知らないけど。」

「なあ、どうやったら女の子たちとデートできるんだよ。教えてくれよ。」

「知らないよ。でもたまたま街で出会ったのがきっかけだから、やっぱり運かな。」

「くそっ、どうせオレには運が無いさ。で、いつになったらミウちゃんを紹介してくれるんだ?」

「もうミウちゃんっていう名前じゃないんだ。」

「なんていう名前だい?」

「それを聞いても内緒にできる?あの店の他のお友だちとかに言わない?掲示板とかに書いたりしない?」

「そこまでオレも破天荒じゃないぜ。個人情報だろ。」

「じゃあ教えてやるけど、彼女はミサちゃんって言うんだ。今度会うことがあったら、そう呼んであげて。」

「源氏名とあんまり変わらないな。」

「覚えやすいようにだって。店長の計らいらしいよ。」

「なるほどなるほど、そういう話をするんだな。でもどうやって彼女の本名を聞きだしたんだ?それを教えろよ。」

「彼女が自分でポロッと漏らしたのさ。それで、客に簡単に本名とか教えちゃダメだよって言ってあげたんだ。」

「なるほどなるほど、そういう返しをするんだな。オレだったら有頂天になって、どんどん他のことも聞いてしまいそうだな。で、彼女の家は?どのへん?」

「そんなこと教えられるか。頑張ってカレンさんの本名とか聞いて、下心なしにデートのお誘いでもしてみれば。」

ここまでで、おおよそヒデがボクに聞きたかった内容が網羅されていただろう。それ以上のことはボクからは言えないし、これからのことなんてわからないことだらけだし、紹介できるようになったらねということで満足してもらった。

そして明日からまた暫くは平凡な日々が始まるのである。



しかし、何も無い十日ばかりの月日は、今のボクにとって果てしなく長い期間である。彼女の意志を確認しているだけに、会えないのはとてつもなく淋しい。

そんなミウのラストデーから二日ほど経ったある夜。一通のメールを受け取った。

ミサからだった。

結局、彼女からのおやすみコールはこれが初めてだったが、彼女の笑顔の写真が添付されていた。

―ゴメンネ、忘れてた。おやすみコール。この写真で許して。―

これさえあればボクは大丈夫。

―写真ありがと。試験までもう少しだ。頑張れ。―

ボクは写真の彼女を瞼に焼き付けてから眠りにつく。そんな夜を過ごすのである。この日以降、おやすみコールが二日おきぐらいに入る。ボクも「がんばれ」と返事をして画面を閉じる。

『試験が終わるまでの我慢』それはボクがボク自身に言い聞かせる呪文のようなものだ。彼女がボクの部屋に来てくれる日まで、ボクはボクでがんばる。

その日がいつ来てもいいように、少しずつ部屋を片付けていく。見られてはいけないエッチな本、散らかっているキッチン、置きっぱなしの洗濯物。いつの間にか徐々に身の回りの整頓ができる様になっている。

ボクにとってもいい期間になっていたようだ。

そして片づけを終えた後、ボクはミサからもらった写真をながめ、写真に向かって「おやすみ」と言ってから消灯する毎日が続くのである。

その間、月は丸くうずくまるように雲のベッドでまどろんでいたようだ。ボクもしばらくは穏やかに朝を迎えられることだろう。



そして来る二月某日。

彼女の国家試験の日。

試験会場は公開されていないので、どこで受験しているかはわからないけど、どのみちボクには祈ることしかできない。

「そういや、どんな受験科目があるのかも聞いてなかったな。」

そんなことを思いながら、自分が受験するわけでもないのに、この日の朝からずっと緊張しっぱなしで、なんだか一日中ソワソワしていた。夕方になり、そろそろ試験も終わっているだろう四時ごろになって、ようやく何となく肩の力が抜けていた。そんな一日だった。

そしてその日の夜、ミサから電話が入る。

「ヤッホー。終わったよ。」

「どうだった?できた?」

「たぶん。アッくんが応援してくれてたから。」

「何にもしてないけど。」

「ううん。ずっと集中させてくれてた。やっぱり大人だなと思った。ありがとう。」

「お祈りだけはずっとしてたよ。」

「お礼しに行かなきゃ。もう大丈夫。今度の土曜日にアッくんちに行く。お昼ごはん作ってあげる。駅まで迎えに来てね。飯田橋でしょ。」

「うん。そこから五分ぐらいかな。」

「総武線乗る前に電話する。何が食べたい?あんまりレパートリー無いけど。」

「そうだな。グラタンっていうのはどう?」

「それだったらできるかも。ソースだけは缶詰でいい?」

「いいよ。買い置きしておこうか?」

「いいの、それまでにレシピも考えたいから。じゃあ土曜日。」

「はい。お待ちしております。」

自分自身のことではないけど、朝から緊張していた一日。

その終わりにご褒美をもらった気分だった。

彼女がボクの部屋に来る。そのことが具体的に決定した日となった。

そしてこの日から部屋の中の整理整頓は、徹底的に余念がなくなるのである。



月曜日から金曜日までの間、ボクの気持ちはずっと昂ったままだった。こんな気持ちは高校生のとき以来かもしれない。

自分自身が純粋に恋をしているのがわかる。そんな気持ちだ。

お陰で仕事のスピードも早い。叱られても顔が笑っていたらしい。多少仕事で辛いことがあっても、彼女の写真を眺めることで忘れられた。残業も苦にならなかった。

彼女の試験が終わってからというもの、おやすみコールは毎晩入ってきたし、ボクも負けじとおはようコールを毎朝送っていた。

どこにでもいる普通の出来たてカップルと同じようなやり取りだったと思う。

素直な気持ちで彼女との恋に向き合えていた。

そして迎える金曜日の夜。

月は赤々と色づいたように見えていた。昂る気持ちが自覚できていたのだろうか、舞台の本番を翌日に迎えた役者のような気持ちだったかもしれない。ボクは全ての準備を終えて、彼女からのおやすみコールを待っていた。

片付けも入浴もメールの確認もすべてが終わっている。後はベッドの中で彼女からのメールを待つだけだった。

最悪の事態も想像していた。

―明日、急にいけなくなった。ゴメンネ。―

そんなメールが入る事だってありうると覚悟していた。

しかしこの夜、彼女から来たメールは明日の確認事項のメールだった。

―アッくん、明日は十時ごろに家を出る予定です。また電話します。おやすみ。―

ボクはこのメールをもらって、安心して夢の彼方へ陥ることができるのだ。頃合よく、西新宿の定食屋で飲んだ晩酌のビールが効果を現し始めた。

そしてボクは眠くなっていく。この日の達成感とともに。



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