第9話 エピソードその八
一夜明けて日曜日。
気温は低いが天気はよく、外ではスズメが元気よくさえずっていた。
目を覚ましたボクは、リビングのコタツの上の残骸を見て、昨夜の出来事を思い出した。空になった缶、開いたままのポテチの袋、冷め切ったおでんの残り。つけっぱなしだったコタツの電気。おかげで朝一番からヌクヌクだ。
まずは顔を洗って口をゆすいで、冷め切ったおでんをレンジで温め直す。冷凍庫からお気に入りのおにぎりを取り出し、これもレンジへ投入する。気分がよければ目玉焼きぐらいは作るのだが、今朝は少々かったるい。
あらためて昨夜の悪友たちの讒言を思い出してみる。
結局のところ、彼らはミウの評判を確かめに店に行ったに等しい。
しかも、その調査の結果はすこぶる良かったらしく、彼らが受けた印象も相当なものだったに違いない。
ボクはさらに彼女のことが好きになる。ただそれだけのことだった。
朝のうちに片付けと洗濯を済ませてしまい、午後には軽くジョギングをこなす。夜のために少し昼寝をした後は、さあ、訪問の準備である。
いつものようにシャワーを浴び、髭をあたる。身だしなみは大切だ。
そして静岡から持ち帰ったお土産を大事に鞄に詰め込んで、あとは夕日に向かって外出するだけである。まだ時間は早かったのだが、以前のエピソードのこともある。足早で新宿駅を目指していた。
すると案の定、ミサからメールが届く。
―もうすぐ新宿。出勤前に会える?―
きっと恋愛の神様がボクの背中を後押ししてくれているに違いない。そう思えるほどのタイミングだった。
―あと十分で新宿。こないだのパスタの店で集合、それでいい?―
するとすぐに返事が帰って来る。
―うん。―
ってね。
駅に着くと、一目散に目的の店へと向かう。
おのずと心臓がバクバクしてくる。
店に着くと、すでにミサは中で待っていた。
「やあ。あ、あけましておめでとう。今年もよろしく。」
ありきたりの挨拶だが、今年会う初めてのとき。
少しどもり気味だったのが恥ずかしい。
「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。うふ、これでいい?」
丁寧な挨拶だった。これから社会人になろうという姿勢からか、その練習も兼ねているなら大したものだ。
「ごめん、待った?」
「ううん、今来たとこよ。」
「またこうして会えてうれしいよ。」
「私もよ。」
短い言葉で紡ぐ会話がなんとも初々しい。自分で言うのもなんだけど。
「さあ、今日は何を食べる?」
「そうねえ。」
二人で一枚のメニューを見ているとき、ときおり触れ合う指から伝わるぬくもりを感じた時に視線が合う。
「うふふ。」
その度にニッコリと笑う彼女の笑顔に癒されるボクがいる。
「今日はスープパスタにしようかな。」
ミウはトマトベースのスープパスタをチョイスした。
「ボクはいつものようにボンゴレにするよ。ワインはどうされますかお嬢さん。」
「あんまり強くないからまだオレンジジュースでいい。」
「ボクは白をもらおうかな。」
こういう会話をしているときは、時間の流れがスローに感じる。ずうっとこうしていたい気持ちになる。
オーダーを済ませて、料理が出てくるまでの間、ボクは彼女を瞳の中に焼き付ける。
会ったのは久しぶりだが、変わった様子はなかった。それでも、
「髪切った?」
半分当てずっぽうだったのだが、年末にかけて髪を切らない女の子はいないだろうと思い、聞いてみたのだが。
「すごいね。ほんのちょっと切っただけなのにわかるの?」
肩まで伸びている髪を手でスラッとなびかせて見せる。
「もちろんさ。なあんてね、実はあんまりよくわからなかったんだけど、半分は当てずっぽうさ。」
「なんだあ、やっぱりね。ちょっとドキッとした。」
「ごめんね。お詫びに、でもないけど。」
そう言ってボクは鞄から小さな包みを取り出した。
「静岡のお土産。」
「開けてもいい?」
ボクがうなずくと同時に袋を開いていく。
入っていたのは石鹸だった。
「静岡って言えばお茶でしょ。お茶の成分が入った石鹸だよ。何に良いかはわかんないけど、なんだか良さそうだったから。お肌に良いって書いてあったし。」
「ありがとう。大切に使う。でも使うのもったいない。」
「折角買ってきたんだから使って。良かったらまた買ってくるから。」
どうやら気に入ってもらえたようだ。
やがて料理が運ばれてきて、ボクたちのテーブルを彩る。
ディナーにはまだ少し時間が早いので、店内の客もまばらだ。そんなゆったりとした空間でゆったりとした時間を過ごす。
けれどもそんな楽しい時間はあっという間に過ぎるのである。
「今日も美味しかったわ。」
「ボクはいつもどおり美味しかったよ。」
「そろそろ行かないと叱られちゃう。」
「今日も一緒に行かなくていいの?」
「ダメよ、一緒に来ちゃ。後でゆっくりとね。」
彼女はそう言って一足先に店を出た。
確かにこれでは出勤前の食事を奢らされているだけの風景に見えるかもしれない。しかし、ボクにとっては彼女との親密なプライベートの空間を演出できる大切な時間なのである。
テーブルに残されたボクは、彼女と奏でていた戯曲の余韻に浸りながら、『ピンクシャドウ』オープニングタイムまでの時間を過ごすのである。
少し酔いを醒ますためにコーヒーをオーダーし、ケータイを眺める。マナーモードにしてあったのだが、さっきからブルブルと震えているのが五月蝿かった。ほら、やっぱりヒデからのメールだった。
―今日は頑張れよ。―とか、―もう近くにいるのか。―など、都合六件もの着信が入っていた。いやはやもうウンザリだ。
三つ目のメールからは開くこともなくポッケにしまいこんだ。
やがて時計の針が十八時に近づく。そしてボクはパスタの店を出て、『ピンクシャドウ』へ向かうのである。
店の衣装に着替えただろうミウに会いに。
今日も時間前についたボクは、見覚えのあるいつもの待合室に案内される。
やはりボク以外にも何人かが同じように開店時間を待ちわびていた。
そして開店時間とともに順次フロアへと案内されるのである。
オープニングのBGMが鳴り響く中、ボクは一番手前の通路にあるシートへ案内された。これは、ボクがミウを指名する今日最初の客であることを意味する。
「うふふ。」
含むような笑みを浮かべながらミウがやってきた。
「お店の人にバレてない?」
「大丈夫よ。誰にも見つからなければ、自分から報告したりしないもん。」
「今はボクの他にお客さんいる?」
「ううん、いない。アッくんだけ。」
彼女はそっとボクに体を預けて目を瞑る。先ほどはお預けになっていた唇への挨拶を施すと、いつもの甘い吐息が聞こえてくる。
そして彼女の芳香をも満喫していくのである。
今年初めての抱擁。忘れていたぬくもりと芳香をしっかりと感じ取った。
「休みの間、ずっと卒論を書いてたの?」
「そんなにずーっとじゃない。でも私、文書を書くの苦手だから時間がかかるの。だから、あんまり遊びに行ってない。お友達と初詣に行ったぐらい。」
「ボクもそんなに作文は得意じゃないけど、手伝ってあげられたらいいのにな。」
「アッくんは、目を瞑ってもキーボード打てるんだっけ?」
「うん。訓練したからね。ブラインドタッチだけはできるよ。」
「すごいなあ。さすがに一本指じゃないけど、三本ずつぐらいかな、使ってるの。」
「かえってそっちの方が難しそうだけどね。」
ほのぼのとした会話で時間を過ごしていくのだが、話が一区切りつくごとに抱き合って、互いの体温を確かめ合う。そんなパターンの繰り返しだった。
ふと思いたったボクは、彼女にボクの膝の上に乗るように誘導した。すると目の前が素敵な光景になる。ボクの両腕はスルスルと彼女の薄い衣装の内側へ潜り込んで行き、手探りで背中のなだらかなラインの残像をなぞっている。ギュッと抱きしめると、ボクの鼻先に彼女の皮膚がピッタリと接触し香しき芳香がボクの鼻腔を包囲していく。
「ねえ、あの手袋使ってくれてる?」
「もちろん。毎日使ってるよ。今も上着のポッケに入ってるよ。」
この店では、フロアに入る前に上着はボーイさんに渡しているので、見せることはできなかったけど。
「ミウちゃんも使ってる?」
「うん。アッくんとお揃いだから。」
「あの手袋をしてると、ミウちゃんと手をつないでいる感じになれるんだ。」
「私も。」
「あのさ、次の出勤の時も一緒にご飯食べてくれるかな。」
「ん?いいけど、どうしたの?」
「うん。ちょっとね。ちゃんと告白したいんだ。でもそれはお店の中で言うべきじゃないから。だから。」
「でもそれって、もう告白してるようなものじゃない。」
「だけど、ちゃんとしたいんだ。だから。」
「うん。今度は次の金曜日。だけどね、卒論のこともあるから、実はもうお店には今月で辞めるって言ってあるの。あと三回の出勤でお終いなの。今日はその事もアッくんに言わなきゃって思ってたし。」
「まずはコッチの卒業が先なんだね。」
「うん。それに今日はダメって言われたんだけど、あとの三回はヘルプ専門でいいって。社長からOKもらった。」
「じゃあ、ボクはどうすればいいの?」
「アッくんだけはOKって言っておく。」
「そんなんで大丈夫?」
「うん。でも私の最後の日だけよ。だから、金曜日はご飯だけで、お店には来なくていいよ。他のお客さんの手前もあるし。」
「じゃあ最後の日もラストタイムに来るようにしなきゃね。」
「うふふ。」
彼女はボクの首に腕を回し、渾身の口づけを与えてくれた。それは今までにない本当に情熱のこもったキスだった。
ボクも負けずに彼女をがっちりと抱きしめた。
この日は三連休の中日だけあって、普段の日曜日よりも多くの客が入っているように思えた。従って、互いの愛のさえずりを楽しむまもなく、場内コールがかかる。
=ミウさん八番テーブルへごあいさつ=
「大丈夫。フリーのお客さんだから、キスなんかしないよ。それに、去年から私のお客さんには辞める話はしたし、もうさよならって言ったお客さんもいるよ。」
なんと用意周到なんだ。ボクは昨年のうちにそんな話は聞いていなかった。そう言えば今日だって、こんなに客がいるのに彼女を指名しているのはボクだけのようだ。
しばらくするとヘルプとしてミカさんがやってきた。
「こんばんわ。今日はそこそこ賑やかですね。」
「そうね。それより彼女、今月で辞めるのよ、聞いた?」
「はい、さっき聞きました。」
「あれ?何で彼女が辞めるのって聞かないのね。この話を振って、なぜって聞かなかったのあなただけよ。もしかして、もしかした?」
「何がですか?聞いたら教えてくれるんですか?」
「ブログ見てないの?書いてあるわよ。」
えっ?そんなブログあったの?少なくともボクがアパートを出るまではなかったはずだ。ちゃんとチェックしてから出て来てるから。
きっとそれよりも後に書いたのだろう。
「何て書いてあるんですか?」
「えーと、卒論が忙しくなるからっていうのと、残りはヘルプ周りに専念するって書いてあったかな。そうそう、もうキスもできませんって書いてあったわよ。もしかしてあなたはキスしてもらった?」
ボクは返事に困ってしまった。イエスと言えば、ボクは渦中の人となってしまうし、ノーと言えばウソになる。それにさっきまで熱い抱擁を交わしていたことをボーイさんたちが見ているはずだ。
「あのう。キスはしてもらいました。でもそれってボクだけですかねえ。」
「今は指名してるのあなただけだからねえ。やっぱりなんかあったでしょ。」
さあここで進退窮まってしまうのである。ボクは答えようがない。
「ああ、やっぱりあなたね。最近ミウちゃん綺麗になったもの。原因があなただったとは。でも想定内だわ。確かにミウちゃんもこういうお店にいないタイプの女の子だけど、あなたもこういうお店にはいないタイプの客だわ。だから、お似合いなのよきっと。大丈夫。お店には内緒にしておいてあげる。でも良かったわねえ。だから言ったでしょ、もっと自信を持って諦めちゃダメだって。」
確かにそう言われた記憶があった。ミカさんに言われて自分自身を奮起したことも間違いではなかろう。結果的にそうなったのだから、結局のところキューピッドはミカさんだったのかもしれない。
「でもねえ。大丈夫かしらあの子。」
「何がですか?」
「大学生でしょ。就職はどこになるのかしらねえ。」
結構お店の女の子同士の中で情報交換が進んでるんだと思った。そんなことまで知っているとは思わなかった。
「遠距離恋愛でも大丈夫ですよ、ボクは。」
「まあ結果的に振られたら、また来なさい。慰めてあげるから。」
丁度そのときがヘルプ終了のタイミングだった。
ミカさんが去り、ミウが戻ってくる。
「ただいまあ。」
何事もなかったかのように戻ってくるのだが、上目遣いで見つめていると、
「どうしたの?ミカさんがなんか言ってた?」
「なんでボクだけミウちゃんにキスしてもらえるんだって。でも内緒にしてあげるって。」
「うふふ。もうキスしたなんて言ったらダメよ。あとで内緒にしてねってミカさんにもお願いしておくから。」
「うん、わかった。キミがずっとここにいてくれれば、ボクも他の女の子と話をせずに済むんだけどな。」
「もう無いと思う。さっきのお客さんにも冷たくあしらったから、たぶん指名されないと思うし。」
そんな会話をしているうちに、八番テーブルのお客さんには、別の女の子が指名されたというアナウンスが流れていた。
お陰でボクは安心して彼女とまったりとした時間を過ごせるという訳だ。
「でもねアッくん。あんまり長くいちゃダメよ。怪しまれるし、お金もったいないでしょ。無理しちゃダメよ。」
しかしボクには心配事があった。
彼女がなぜアルバイト先にこの仕事を選んだかを聞いていない。
ある女の子は趣味を充実させるため。別の女の子は奨学金を返すため。またある女の子は、昼の会社じゃ給料安いから。などなど。彼女たちがこの店で働く理由はお金にまつわることが多いらしい。
ではミウはどうだろう。
お金の理由がなければ、コンビニやファミレスでも良かったはずだ。もし辞めたら、金銭的な理由で困ることがあるのではないだろうか。ボクはそんな心配をしていたのである。
しかし、いざとなったら聞けなくなるものである。特に親密な関係になってからは。
「今日は3セット分ぐらいはいるつもりで来てるから大丈夫。あともう少し一緒にいさせて。久しぶりに会えたんだから。」
そしてミウを膝の上に乗せて彼女の匂いと肌の感覚を堪能する。
ボクも決して草食男子ではない自覚がある。彼女の体をこの手に抱いて彼女を欲しいと思わないはずもない。ボクの分身もウズウズしだしている。
「今度の金曜日はお肉を食べに連れてって。」
「それで、そのあとボクがお店に送り出すの?それはなんか気持ち的に嫌かも。」
「大丈夫よ。もうアッくん以外にはヘルプ専門なんだから。喫茶店のウエイトレスと同じよ。ちょっと触られるかもだけど。」
「うーん、微妙だなあ。でもあと三回、割り切って送り出すよ。」
「うん。」
そしてボクたちはまたぞろまどろみの中で時間を過ごす。もう何も焦ることも急ぐこともなくなったボクは、ときおり彼女のやわらかな丘陵へタッチすることは忘れなかったが、後の時間はずっと唇を合わせたまま抱き合っていた。
そんな夜もやがては終わりを告げる。
「さあ、もう帰る時間が来ちゃった。」
「気をつけてね。また会おうね。」
そして別れのキスのあと、ボクと彼女の体が離れる。
いつものようにドアまで見送ってくれる彼女を残し、ボクは店を出た。
その時、いつものボーイがボクを呼び止めた。
「聞きましたか?彼女もとうとう辞めることになりました。まあ、彼女は元々短期間なのは決まってましたけどね。また別の女の子もよろしくお願いします。」
ボクはそのボーイさんには特に何も返事をせず、ただニッコリと微笑んで丁寧にお辞儀をして、その場を立ち去った。
彼はそんなボクを不思議そうな顔をして見送っていたが、「ありがとうございました」と言って機嫌よく見送ってくれた。
さて、ボクは次の金曜日に向けての計画を練らなければならない。
「ちゃんとする」と自分で言ったのだから、色んなことにちゃんとしなければいけない。
また、「肉を食べたい」という彼女の願望も叶えてあげなければいけない。
この日の夜からボクは次の金曜日に向けての事のみを考える時間が増えるのである。
ちなみに彼女のブログは、あの日、店が開店する少し前の時間に更新されていたようだ。店を辞める話もそれまでに決着が付いたのだろう。元々短期間の約束だったことはボーイでも周知の事実だったようだし。
ブログの内容はこんな感じだった。
ミウです。
もうお話した方もおられますが、今月一杯でお店を卒業することになりました。
上手く卒論が書けなくて、本業の卒業が危なくなってきたので、お店の方は早めに卒業します。
今までありがとうございました。
ヘルプだけですが、あと三回だけ出勤します。
今度の金曜日と日曜日、それからその次の土曜日でラストです。
確かにミカさんから聞いていた内容だった。でも、こんな内容で納得する客がいるのだろうか。元々多くの固定客を抱えていないような雰囲気ではあったが、ボクなんかだと「さよなら」って言われてもまた行きそうだけどなあ。
女々しいのかな、ボクって。
その日の夜、日付変更線が通過する頃、ヒデから電話がかかってきた。
「おい、どうだった。」
「行ったよ。楽しい会話ができたよ。それでいいんだろ。」
「うーん。まあいいか。で、次はいつデートするんだい?」
「それを聞いてどうするのさ。まさか一緒に行くなんて言うんじゃないだろな。」
「もちろん行きたいに決まってるじゃん。」
「嫌だ。絶対に教えない。」
「ははーん。教えないってことは、デートの約束ができたってことだな。それを聞いて安心したよ。その結果と誘い出し方だけ教えてもらえればいいさ。頑張れよ。また今度『ロッキー』でゆっくり聞くから、じゃあな。」
なんだかんだで結構いいヤツだ。こういうヤツだからこそ今まで付き合っていられたということでもある。
ヒデのいうようなデートに誘えるためのノウハウなんてボクには無いし、聞かれてもわからない。彼の目的とボクの目的も恐らくは違うのだろう。
それでも諦めないヒデは、さらにその翌日も電話してきた。
「今日か明日、『ロッキー』に来られるか。ちょっとゆっくりサシで話をしよう。おまいさんがどうやって女の子を落としていくのか、きっちり聞かせてもらうぜ。」
「まだ新年会シーズンが終わらない限り、早くは行けないよ。せいぜい八時かな。」
「それでいいよ。『ロッキー』で待ってるから。必ず来いよ。明日な。」
ほぼ一方的に約束させられた感じだが、行くしかあるまい。どうせ、行くって言うまで電話がかかってくるんだろうからね。
ヒデとの約束の日、その日はポタポタと冬の雨が滴り落ちていた。
週の始めでもあり三連休も終わったので、新年会もやや下火になりつつあるのか、さらには平日でもあるので、残務整理も多くはない。翌日の発注分だけ確認すれば会社を出られるという算段である。それでも時計を見るとすでに八時は回っていた。
雨のせいか、さほど冷え込まない夜の雨道を傘を差しながら、やや急ぎ足で『ロッキー』へと向かう。
店ではヒデがカウンターで今か今かと扉の外を伺いながら待っていた。
ボクが店の扉を開けると大声でボクを呼びながら手招きをしている。
「やっと来たか。待ちくたびれたぞ。もうハイボールを何杯空にしたと思ってるんだ。」
「すまんな。だけどウチの業界だと年末年始は忙しくなかったら給料出なくなるよ。ほら、ここだってそこそこいっぱいだろ。ユウさん、ボクはビールで。」
カウンター越しにいるユウさんにオーダーしてからヒデと対峙する。
「まあいいや。それより次のデートはいつなんだよ。」
「だから、それは教えないって言っただろ。」
ヒデはむんずと腕を組んで、
「まあそれもいいや。だけど、どうやって連れ出すのか、そいつは教えてくれよ。アキラなんかよりもオレの方がキャリアは格段に上なのに、なんでど素人のおまいさんがいとも簡単に連れ出せるんだ。運がいいのも聞いたけど、なんかあるんだろ?」
「何もないよ。でもさ、本気で恋をしろって言ったのはヒデだよ。その通り、通ってみれば彼女はキミたちが聞いてきたとおり、いやそれ以上にいい子だった。そして、たまたま街中でバッタリと出会った。それだけだよ。何にも参考になることなんかないのさ。」
「で?どこまでやったんだ。」
「一緒にご飯食べただけだよ。まだ告白だってできてない。お店の女の子と客が一緒に食事をしたっていうところから何も進んでないさ。」
「で?どうしたいんだ。」
「彼女はとてもいい子。今はまだ付き合えないけど、いつかちゃんと告白して、ちゃんと付き合いたい。」
「何で今はダメなんだ?」
「まだ大学生なのさ、彼女。この春に卒業を控えているから、卒論と試験に追われてる。彼氏どころの話じゃないだろう。だから今はまだダメなんだ。」
「優しいねえおまいさんは。結局のところ、ノウハウは人柄って事か?オレじゃ何年かかってもダメってことか。」
すると、後ろから不意をついてケンさんが口を出してきた。
「そういうことだよ。」
ケンさんはヒデの隣の椅子に座って話し始める。
「ああ見えて、キャバの女の子たちって案外堅いんだ。その辺のOLの方がよっぽど緩いかもよ。考えても見ろ、毎日男を相手に仕事してるんだ。本心はウンザリなんだよ男なんか。だから彼女たちを食事に誘うことすら高いハードルになるのさ。」
「でもさ、彼女たちとエッチしたって話、良く聞きますよ。」
「それって、誰から聞いた?女の子から聞いたか?そんなのは殆んどがウソだよ。男なんてみんな見栄っ張りなのさ。オレだって食事に誘えたのはまだ二、三人だ。それもスケベなことを想定してちゃいけねえ。酔った勢いもでもダメだ。そういう意味ではヒデが女の子とエッチ出来る可能性は限りなくゼロに近いな。」
そこまで言うとケンさんはボクの方を見て、
「アキラが誘えた女の子はどんな子だ?」
「大学生です。もう今月で店は辞めるんです。卒業ですから。」
「いつから入った子なんだ?」
「まだ半年も経ってないと思います。」
「なんだ、ズブの素人じゃねえか。そりゃ単に普通の女子大生を店の中でナンパしたに等しいな。ヒデ、お前も女子大生をターゲットに恋人募集中ってことで、本気で恋をしに行ったらどうだ?」
「うーん。そんなことがホントにできるならね。きっとアキラのことですから、いいようにあしらわれてるだけですよ。そのうちに泣きが入るに決まってるさ。」
「そうかな。ヒデはアキラのことが羨ましいだけだろ。キャバ嬢だって店を出れば普通の女の子さ。面と向かってちゃんと対処できれば臆することはないんだ。オレなんかは年代が違うと話が合わなかったりするけど、お前たちならまだ大丈夫だ。」
ヒデはしばらく考え込んでいたようだったが、思い立ったが吉日と言ったところが彼の良いところでもある。
「じゃ、早速今夜にでも行きますか。」
「どこへ?」
「そんな女子大生がいそうな店に。」
ケンさんは呆れたような顔をしてヒデの肩を叩く。
「行くならお前さん一人で行って来い。アキラはもうちょっとその店に通わないとダメだろうし、オレはお前とは目的が違う。」
そして今度はボクの方へ視線を移し、
「焦るなよ。だけど押すところは押さないとダメだぜ。お前さんは優しすぎる。時にはそれが諸刃の剣になるってことを考えておけよ。」
「はい。」
返事はしてみたものの、具体的にどうすればいいかなんてわかりゃしない。今更自分の性格や行動を直せるわけもない。
ケンさんに一括されて、苦虫を噛み潰したような顔をしていたヒデも、思い出したようにボクへ矛先を向ける。
「とりあえずプライベートの写真を撮って来いよ。ちゃんとデートした証拠にさ。」
「何でそんなことをお前に証明しなきゃいけないんだ?」
「単にオレが見たいだけだよ。そして羨ましがりたいだけさ。」
「じゃあ、ご丁重にお断りしておくよ。さあそろそろお開きの時間かな。ヒデはどこへでも行っといで。オレは帰るから。」
ボクが席を立とうとすると、ヒデも同様に席を立った。
「今日はいないんだろ、ミウちゃん。だったらこのまま帰るつもりだろ?なら、ちょっと付き合え。オレが奢ってやるから。」
「どこへ行くつもりだ?明日も仕事だぞ。」
「普通のキャバクラさ。オレのオキニがいるんだ、そこにも。それでさ、おまいさんさんの会話を学ぼうと思ってな。セクキャバにいくと、どうしても違うところに集中しがちだろ、だからおまいさんの純粋な会話を学ぶためには普通のキャバクラがいいと思ってな。」
するとケンさんがその話を遮った。
「ヒデ、お前は何もわかってないな。たぶん、アキラがする会話はおねーちゃんたちを楽しませる会話じゃねえと思うぜ。何を盗もうと思ってるのか知らねえが、お前の前じゃ、喋らんだろうよ何も。」
「それでもいい。オレとどう違うのかが知りたいだけ。とにかく行こうぜ。なっ、一時間だけ。頼むよ。」
ボクが渋い顔をしていると、ケンさんはボクの背中を押した。
「ムダだろうが付き合ってやれ。親友だろ。」
「オレなんかよりもケンさんの会話を真似した方がいいんじゃないですか。」
「オレと一緒に行ったって今とあんまり変わんないさ。だからお前を連れて行こうっていう訳だろ。一回行けば、お前と一緒に行ってもムダだってわかるさ。」
ボクは渋々承諾するしかなかった。
仕方なしにボクとヒデは『ロッキー』を出て、ヒデの馴染みのキャバクラへ行くのである。
何かを予感させるかのように、いつのまにかすっきりと雨の上がった道を進み、『アイリス』という名前の店に入る。ヒデの主導で女の子の指名と飲み物のオーダーを済ませると、ほどなく無難なボックス席へ案内された。
指名の女の子はユミコと名乗り、彼女はヒデとボクの間に座った。更にその両端に別の女の子たちが座って準備が完了となる。
ヒデの隣に座った女の子の名前までは聞き取れなかったが、ボクの隣に座った女の子はリサと名乗った。ミウの本名と似たような名前だったのに少し驚いたが、表情に表れることはなかったようだ。
「まずは乾杯。そしてリサちゃん、こいつは坊ちゃんだからいいように落としてみてくれない?上手くいけばねんごろな常連客になるかもよ。」
「ええ、そうなの?」
そう返事を返すと、すぐさまボクの腕に絡みついてきた。
「いや、ボクはそんなことないです。」
「お兄さん、どんな仕事してるの?」
「普通のサラリーマンです。」
「女の子嫌い?」
「そんなことないですが、おねいさん近すぎます。」
彼女は会話を一つ挟む度に、体をボクに押し付けるようにくっつけて来る。
「だってお兄さん、ハンサムだもん。」
「リサさんも素敵ですよ。」
「まあ、なんて上手いんでしょ。そうやって女の子を落とすの?」
「そんなつもりないです。あんまり近づくとエッチなことしますよ。」
「ええ?そんなこと言うんだ。でもお触りはダメよ。」
「それなら、大人しくしていてください。」
「お兄さんは大人しいのね。」
「向こうにボクのことを監視している輩がいますからね。」
「そんなの気にしないで楽しみましょうよ。さあ、飲んで。」
「あんまり飲むと、本当に狼男になっちゃいますよ。」
「見たいねえ、おまいさんが狼男になるところを。」
向こうからヒデが会話に参加し始める。
「まだ参加しないの。そっちで楽しんでなさいよ。」
リサは会話の途中で入ってきたヒデに注意を促す。
ヒデも負けじと応戦する。
「ねえ、そんな会話で楽しいの?」
「まだとっかかりじゃないの。こういう男性は意外と難しいのよ。」
「オイラの方が楽しいだろ?」
「あなたはスケベなだけじゃない。コッチのお兄さんの方が安心できるわ。」
「なるほど、そういうことか。オレも少しは改心しようかな。」
「ふん、できないくせに。」
「それもそうだ。あははは。」
しかし結局のところ、ボクは大した会話をすることもなく時間を過ごした。
こんなので何かの収穫になったのだろうか。大いに疑問である。
こんなイカレタ夜ほど、ボクは帰り道に白くて明るい月が恋しくなるのであるが、残念なことに今宵は大きな赤い月が、まるで嘲笑っているかのようにボクを見下していた。ボクは拳を握り締めながら、その月を睨み返すことしかできなかった。
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