第7話 エピソードその六
ミウから出勤情報のメールをもらってからは、なんだか安心して普段の日常を過ごしていた。勘違いなのはわかっているが、彼女との距離が縮まったという想いが、ボクに安心感を与えてくれていた。
結果的にボクの表情も変わっていたらしい。
その週末、クリスマス戦線がピークに差し掛かる金曜日は、一年で最も忙しいと言っても間違いではない。
そんな日は通常の何十倍ものエネルギーと精神力が求められる。ボクの唯一の心の支えはミウとのわずかばかりのつながりだけなのだが、日曜日には彼女に会えると思うと、日ごろの仕事にも力が入る。
「不動、なんかいいことあったか?最近、いい顔してるぞ。」
なんて係長にからかわれることもある。
午後も過ぎると、ボクたちの仕事はトップギアに入る。ランチを終えた店が夕方の準備を始め、前日の在庫確認を怠った店からは緊急非常事態の注文が入ったりするのである。
しかもそれが一件や二件で済まないのが現実だ。
営業は得意先からの注文を取りまとめ、配送センターへと連絡する。在庫が不足しそうなものはメーカーへ電話する。場合によっては、営業自らが配送するケースも稀ではない。
「今日がミウの出勤日だったとしても、この調子じゃ行けなかったな。」
彼女のシフト変更はボクにとってもラッキーな想定外となっていた。
そんな稀ではないお店への配送が終わり、一息入れようとコーヒーショップに立ち寄った時、更なる想定外の出来事が起きた。
配達用の軽トラをパーキングに停めて、駆け足でショップに向かう。御茶ノ水近くの小さな道路脇の店だった。
ドアをくぐり、カウンターで冷たいコーヒーを注文して待っていると、目の前に信じられない光景が飛び込んできた。
「あっ。」
「えっ。」
唐突に訪れたその瞬間は、驚きのあまり目の前が真っ白になった世界観が映っていただろう。少なくともボクはそうだった。
そう、カウンターでコーヒーを待っていたとき、突如として目の前に現れたのは、ドアから入って来たミウだった。
一瞬止まる時間・・・そして再び動き始める。
どうやら彼女は一人だったらしく、すっとボクのほうへ近づいてきた。
「アッくん。」
「やあ。」
少し戸惑いながら尋ねてみる。
「なんて呼んだらいいのかな。」
「ミサでいいんじゃない。」
彼女ははにかみながら答えた。
「じゃあミサちゃん。学校が近くなの?」
「ちがうの。今日はね、お母さんの誕生日なの。だからプレゼントを買いに来たの。これからみんなでお祝いしに行くの。」
「それで今日はお休みになったんだね?」
「そう。ちょっと遅く帰る夜もあるから、ご機嫌取りをしておかなきゃね。」
「それって親孝行なのかな?」
「心配かけないって言う意味でね。」
「ゆっくりできるの?一緒にお茶する?」
「えーと。この後、弟と待ち合わせだから、デートは今度でいい?」
「いいの、そんなこと言って。期待しちゃうよ。」
きっと、上手く断る言葉が見つからなかったのだろう。ニッコリ微笑んで、ペロッと舌をだした。
「うふふ。」
そして、耳打ちする様にそっとささやく。
「日曜日は来てくれるの?」
「もちろん、行くに決まってるさ。また指名してもいいかな。」
「待ってるわ。」
それだけ言ってミウは自分のコーヒーを注文カウンターへチョイスに行く。
「奢ってあげるよ」っていうのに、「大丈夫」といってボクに手を振る。
ボクにも次の仕事が待っているので、あまり長くのんびりはしていられない。
「じゃあね。」
それだけ言い残して、ボクも手を振って店を出た。
ミウがボクの耳元でささやいた「来てくれるの?」に対して、「デートしてくれるならね。」と言いかけたけど止めた。そんなことを訪問することの条件にしたくなかったし、「じゃあ来なくてもいいわ。」なんて言われるかもしれないと思うと、恐くて言えなかったし。
ホントは仕事をサボってでも一緒にお茶をしたかったけど、待ち合わせがあるって言われるとね。弟クンが来たらボクのことを説明するのは難しいだろうし・・・。
でも奇跡的に彼女と出会えた今日の瞬間。神様がいるなら感謝したい。
少し物足りない気もしたが、贅沢を言わずに満足しておこう。
出会えたこと自体が奇跡なんだから。
それからのボクは、ますます馬力に拍車がかかり、夜遅くまで残業に勤しんだ。
いろんなことに充実感を味わいながら。
さて、次の日曜日が楽しみだ。
翌日の土曜日は完全休養日となった。
忘年会の翌日に出勤したお陰で、この日は優先的に休養日をもらえた。
昨日はテンションだけが妙に高くて、ビジネスハイみたいな状態。その疲れが翌日に重くのしかかっている。
朝は基本的に食べるタイプなのだが、今朝はいささか食欲が減退している。そんな時は軽く近所の公園を散歩に出かけたりするのだ。
もちろん冬なので襟巻きなしでは凍えてしまう。手袋だって必須アイテムだ。
気温は低いが天気はいい。木洩れ日がキラキラと眩しい小道をなるべく早足で歩く。
ときおり聞こえる小鳥の声が、少しずつ疲れを癒してくれる。
すれ違うジョガーたちは白い息を切らして走っている。ボクも運動不足にならないうちに、何か体を動かさねば、体がドンドン鈍っていくに違いない。
これでもボクは学生時代、バドミントンをやっていたおかげで、今でも体力的にはまあまあの自信を持っている。
二キロ程も歩いただろうか、体が少し温かくなってきたので、そろそろアパートに戻ろうとした時、メールの着信音が鳴った。
―アッくん、おはよー。昨日は突然のことでビックリしちゃった。デートできなくてゴメンネ。―
たったそれだけの文書だったが、初めて来た彼女発信のメール。いつもはボクのメールに返事をくれていただけなのに。そう思えばこれ以上素敵なメールはないと思った。ボクはすぐさま返信する。
―おはよう。昨日は突然だったからね。別に気にしてないよ。デートしたかったのは事実だけどね。―
そしてケータイは再び微動だにしない静かなオブジェとして鎮まっていた。
そんなにすぐには返事が戻ってこないことはわかっていた。だから、送ったことだけで満足してアパートへと戻るのである。
その頃にはボクの気分も体調も、普段の自分を取り戻していた。
結果的に、彼女からのメールがボクの日常を取り戻してくれたのかもしれない。
一日の安静日をもらったボクは、日曜日の朝にはいつも以上の快調さをもって飛び起きた。今日は思いついたかのようにジョギングをするつもりだった。昨日すれ違ったジョガーの影響もあったに違いない。アパートから二つとなりの駅まで、往復すると約五キロ。初日の距離としては十分だろう。マラソン大会に出るわけじゃなし。
ジョギングが終わると、ササッと汗を流して朝餉の支度。とはいえ、独身男のモーニングなんて質素簡単極まりない。冷凍食品のおにぎりを二つほどレンジでチンして出来上がり。あとはインスタントの味噌汁で準備完了。
次にボクはパソコンの電源を入れて、今日の情報を入手する。
いつもの通り『ピンクシャドウ』のホームページを開いて、ミウの出勤情報に変わりが無いか確認する。そして次にはブログのページに移るのである。しかし、ミウのブログは今日も更新されていなかった。筆不精なのは仕方がない。
あとは彼女へのお土産を模索していく。この時間はこれで楽しいのである。
これまでのエピソードや彼女のイメージ、そして一昨日から昨日にかけてあった出来事、そんなことを踏まえながら、プレゼントを探し出していく。もちろん、話題性を持って選ばなければならない。渡してお終いではダメなのだ。
そしてボクは思いつく。とっても素敵なプレゼントを。
「よし、午後からは買い物に行こう。そしてその足でミサに会いに行こう。」
もうこの頃には、ボクは単なるミウの客ではなく、ミサの恋人候補のつもりになっていた。チャレンジできる期間はあと二ヶ月程度。彼女を恋人にしたい、ずっと一緒にいたい。
そんな気持ちが確実になった瞬間であったかもしれない。
そして午後。
ボクは新宿にいた。彼女へのプレゼントを買うために。
その店はとある百貨店の隣にあるビルの五階にあった。いわゆる専門店街なのだが、ココは一風変わった店ばかりが集まっていた。
アーミー専門店、アニメキャラ専門店、鉄道オタク専門店など、それらのマニアにとっては堪らないだろう店が並んでいる。
ボクの趣味はパズルとドライブ。小さいながらも小気味良いクルマを持っている。ときおり一人で夜な夜なドライブに出かけたりもしていた。
一人で出かけて淋しくないかって?そんなの淋しいに決まってるじゃない。
それは一先ず置いといて、ココにはクルマの専門店はないようだ。
パズルの専門店にも興味はあったが、今日の優先はパズルではない。プレゼント探しが目的なのである。
いくつか物色した後に、ボクが入った店は食品サンプルの専門店だった。
そこにはマグネットや耳かきなどの小物から本格的なサンプルまで、充実した品揃えのある店だった。これなら話題性に事欠かない。そう思ったボクは、その中からお手軽で、しかもリアルなものを二つ選んだ。
何で二つ?もちろん、お揃いで持つために決まっているじゃん。ペアルックじゃないけれど、同じ物を持ってるってことが、なんだか繋がっている感があってうれしいじゃない。
そしてその店を出たボクは次の獲物を探すように店の探索を続ける。
「そういえば、彼女の趣味ってなんだったっけ。確か海外旅行って書いてあったような気がする。」
お店のホームページの女の子紹介の中で記載されていたことを思い出した。しかしボクには海外旅行の経験はなく、共有できる話題は乏しいようだ。
しかし、そんなことで滅入ってはいけない。二人の話題はこれから作っていけばいいのだ。そして、さっき買ったアイテムが新しい話題のきっかけになればいい。
そう思った。
時計を見るとまだ三時を少し回ったあたり。
さすがに十二月だけにそろそろ太陽はビルの彼方に傾きかけているが、夜の戸張が下りるまではもう少し時間がかかりそうだ。
そのとき、メールの着信音が鳴った。ミサからだった。
―今日は来てくれるの?―
どうせなら「会いにきてくれるの?」って言って欲しかった。
そんなことを思いながら、
―もう近くまで来てるよ。―
って返事する。するとすぐさま、
―私もよ。―
と返ってきた。
もう会いたい気持ちが抑えられなくなったボクは、すかさず返信する。
―今、バスターミナルの向いのビルだけど、よかったらお茶しない?―
―いいよ。用事は終わったし。JR出たとこだから、そっちに行くね。―
―『モンテカルロ』の前で待ってる。―
『モンテカルロ』っていうのは、衣料チェーンのお店。新宿南店だったら若い子なら誰でも知っている店である。
ボクのいるところからはすぐだったので、早く着いたボクはドキドキしながら彼女を待つことになる。
一分、二分、三分・・・時が進むのがこれ程じれったく感じたことがあっただろうか。胸の高まりが最高潮に達しようかという時、通りの向こうからミサが現れる姿が見えた。
彼女もボクの姿が見えたのか、手を振って駆け足で向かってくる。同時にボクも彼女に向かって一直線に駆け出していた。
軽く息を切らしたまま向かい合うボクたち・・・。
「やあ、迷わなかった?」
「うん、私、東京育ちよ。」
「これはお見それいたしました。」
一瞬、息を呑んで彼女を見つめる。
「そんなに見られたら恥ずかしい。」
「いつもどおり可愛いからね。お茶でいい?」
「うん。」
ボクたちは近くにある喫茶店に入り、頃合の良さそうな二人がけのテーブルを見つけて座った。
「何を注文する?」
「カフェオレがいいな。」
そんなタイミングでウエイトレスの女の子が注文を聞きに来たので、彼女のカフェオレとボクのホットコーヒーをオーダーした。
ウエイトレスの女の子が立ち去ってから、周りに気を使いながらも、ちょっと緊張気味にミサに尋ねる。
「いつも早くに来るの?」
「そうね。時間があれば、この辺で軽く食事をしてから行くのよ。夜遅くなるから、お腹減るでしょ。」
「そうだね、じゃあなんか食べる?」
「あとでいい。それよりも、アッくんはどうしたの?」
「ボクはちょっとした買い物をしてたんだ。その続きでお店に行こうかと思ってたんだけど、ちょっと早かったね。」
「この間はゴメンネ。突然だったし、・・・・・やっぱりちょっと不安だったし。でも後から考えるとアッくんならお茶ぐらい全然大丈夫だったのにって、ちょっと反省してたの。」
「全然平気だよ、気になんかしてないさ。なあんて言えばウソかな。ホントは結構ガッカリしてた。折角会えたのにと思って。でも、今日はこんな形で会えたのはすごくうれしい。」
「私もよ。ちょっと期待してたかも。」
やがて温かな飲み物が運ばれてくると、彼女は言葉少なにカップに口を付ける。
「これって、デートだよね。」
ドキドキしながら尋ねているボクがいる。
彼女はニッコリ微笑んでボクの目を見つめたままだ。
ボクは答えに困っているような彼女に、さりげなく投げかける。
「大丈夫。無理に答えなくてもいいよ。」
すると一呼吸置いてから、ボクの方を振り返り答えてくれる。
「デートだよ。でもなんだか恥ずかしいかも。」
やわらかな笑みを浮かべて投げかけてくれる瞳が、キラキラと輝いて印象的だ。
「ありがとう。お茶を飲んだらパスタでも食べに行く?美味しいボンゴレ食べさせてくれる店があるんだ。」
「うふふ。アッくんお洒落なお店を知ってるんだ。いつもは誰と行くの?」
「もちろん独りでさ。ボクはボンゴレが好きなんだ。でもアラビアータやペペロンチーノも美味しいから安心して。」
「うふふ、アッくんだったら何でも安心できるわ。今日ね、アッくんが来てくれるって言うから、少しお洒落して来たの。」
そういって彼女は首元を見せた。そこには金色に光るネコの形をしたペンダントが光っていた。
「それってネコだよね。どうしてネコなの?」
「ネコが好きなの。ウチでもネコがいるし。アッくんはネコ嫌い?」
「いいや、平気だよ。そういえばミサちゃんもネコみたいだね。」
「なんだか本名で呼ばれるとドキッとする。」
「ボクも呼んでてドキドキしてるよ。」
ボクの緊張感は、さっきからずっとヒートアップしっぱなしだ。
話に夢中になっているうちに、いつの間にかボクたちの飲み物は冷たくなっている。次のステップへのタイミングのようだ。
「あの、ご、ごはん食べに行こうか。」
初めてのデート。緊張のあまり言葉がどもる。
「うん。」
それを気にすることなく答えてくれる。
喫茶店を出てパスタの店に向かう折、当然のことながら並んで歩くことになるのだが、ボクは遠慮がちにお願いしてみた。
「ねえ、手をつないでもらってもいいかな。」
すると彼女は黙ったままそっとボクの腕に捕まってきた。仲良く腕組みをしている二人はさながら恋人同士に見えたに違いない。
次の店に到着するまでおよそ五分ぐらいだったろうか。ボクたちはあまり気の利いた会話をできないまま歩いていた。
ときおり、互いを見つめあいながらであったが・・・。
パスタの店では多くの空席があった。だってまだ夕方の四時だもの。
二人で店の奥のテーブルに座ると、ようやく緊張の糸が解れる。
「お客さんと外で会うのは初めてだから緊張しちゃった。でもアッくんだから会うんだよ。お店の人には内緒にしてね。」
「わかった。でも、この後同伴出勤しなくてもいいの?」
「うん。後で色々とうるさいみたいだから。それに同伴しても私は一円ももらえないって聞いてるし、かえって叱られた女の子がいるみたいよ、あのお店。」
「へえ、そうなんだ。じゃあその分、今日は長くいてあげる。」
「いいのよ無理しないで。それよりもちょっとずつでもいいから、何回も来てくれる方がうれしい。アッくんに会えると安心するし。」
ボクは彼女の手を握り、ニッコリと微笑んだ。
「ボクも何時だって会いたいと思ってる。」
そんな会話をしていた時だった。注文を待ちかねたウエイターがやってきた。ボクたちは少し照れながらメニューを覗き込んで、やや駆け足でボクのボンゴレと彼女のアラビアータを注文した。どうやら彼女は赤いトマトソースが好きらしい。
注文が終わると、またぞろしばらく沈黙の時間が過ぎる。言葉を選びながら話すのって難しいなと感じた。
ボクは先ほど買ったプレゼントをいつ渡そうか迷っていた。
クリスマスプレゼントなのだから、今日ならいつのタイミングでも良かったのだが、お店は今日からクリスマスイベントなのである。きっと何かあるに違いない。そう踏んでいたので、プレゼントのタイミングはその時だと思っていた。
すると、彼女は自分のバッグから何やら袋を取り出してボクに渡す。
「ホントはね。お店で渡そうかと思ったんだけど、やっぱり今にする。クリスマスプレゼント。アッくんのだけは他のお客さんのと違うの。だから。」
「えっ?ホントにありがとう。実はボクもあるんだプレゼント。」
ボクも鞄から小さな袋を取り出した。
「すごい。ありがとう。開けてもいい?」
「もちろん。でも高いものじゃないんだ。でも使ってくれるとうれしいな。学校のお友達に見せても大丈夫なものだから。」
ボクからのプレゼントは、食品サンプルのピルケースだった。市販されているミント系のピルケースにピッタリはまる赤飯のサンプルだ。ボクにもお揃いのピルケースを買ったが、ボクのは日の丸弁当だった。
「面白い。使うわ。これなら学校のお友達にも自慢できそう。」
「でも、誰からもらったって言うの?」
「そんなの言わないかも。」
「彼氏にもらったって言っておけば。」
自分で言ってから思ったのだが、かなり大それたことを言ったと思った。
さすがに照れてしまうので、今度は彼女からのプレゼントの袋を開けてみた。
そこには真っ赤な手袋が入っていた。
「えへ。これも高いもんじゃないの。でもね、私とお揃い。」
そう言ってバッグから同じ柄の手袋を出して見せた。
「確かに、これじゃお店では見せられないかもね。ありがとう。大事に使うよ。ボクのプレゼントもね、実は同じ柄じゃないけどお揃いなんだ。」
ボクも自分用に買ったピルケースを見せた。
「うふふ。なんだか恋人同士みたいね。」
「ダメかな。恋人同士になったら。」
その瞬間、周りの音が一瞬消えた。スッと静まり返る雰囲気の中、ボクの声だけが通ったような気がして恥ずかしかった。彼女は「うふふ」って微笑み、「冗談よね」と言って、はにかんだ笑顔を返してくれる。
「ゴメン、聞かなかったことにしてくれる?」
「ううん、聞いたわ。でも、返事はもうちょっと待っててね。」
彼女の言う意味がよくわからなかった。何か別の理由があるのかな。わからなかったけど、追求はしなかった。
「わかった。待つよ。」
そう言って自分を諌めた。
ちょっとドキドキはしたものの、面と向かって告白したわけではない。今のところはキャバ嬢と客の会話である。戯れの範囲を超えてはいないだろう。
しかし、ボクの中ではかなり本気で仕向けた言葉だったのだが、軽く濁してくれたお陰で、助かったのはボクの方だった。
その後、運ばれてきたパスタは抜群に美味しかった。テイスティングと称して一口ずつを分け合った光景もデート中の恋人同士さながらの様子だった。
「ご馳走様でした。」
二人して食事を終えた頃、そろそろミウの出勤時間が迫っていた。
「そろそろ行かなきゃ。先に行くから、後でゆっくり来てね。」
「うん。十分前には行くよ。それまでもう少しここにいるよ。」
ミサはミウになるために席を立つ。
少し微妙な気持ちで見送るボク。
本当は行かせたくない自分がいる。
今はまだ、それをお願いする権利は無いんだけど。
そして、クリスマスイベント初日の夜が始まるのである。
『ピンクシャドウ』の開店十五分前、ボクはすでに店に到達していた。パスタの店からココまでは徒歩で十分もかからない。あっという間に着いてしまった。
店は開店前から入ることができる。以前にも待合室で開店までの時間を過ごしたことがあった。ボクはボーイの指示で支払を済ませた後、待合室で待機することとなる。
今日は日曜日。さすがに金曜日ほど客入りがあるはずもないだろうと予測していたが、開店前にはすでに三人の客が待合室で佇んでいた。
後でわかったのだが、週末の金土日にはこの店のエースが出勤するので、常連の客がそぞろ集まるという算段なのである。
つまり、ミウを狙って開店前から座っているのはボクだけかもしれないということである。勢い、オープンニングの音楽が鳴り始めると、最初に座っていた順から店内へと案内されることになるのだが、ボクが指定されたシートは通路の一番手前のシートであった。この時点で、ミウの最初の客になることが確定される。
彼女は先ほどとは少し違った雰囲気でボクを出迎えてくれた。
「アッくん。待ってたわ。」
「ん?」
「だって、ホントに来てくれるかどうか心配だったモン。」
「どうして?来るって言ってたじゃない。」
彼女はそっとボクに唇を合わせてくる。
すると、覚えのあるやわらかな感触と芳香がボクを包み始める。
「今日のデートは、とっても楽しかった。またデートしてくれる?」
「うふふ。また連絡する。まだ卒業試験も残ってるから。だから待っててねなの。」
そうか。先の「待ってて」の意味がようやくわかった。そうなのだ。彼女はまだ大学生で、卒業間際なのだ。大事な時期である上に、最後の試験前でもある。そんなことに気付かないようでは恋人失格である。
ボクは自分のことしか考えていない自身を責めた。
「ゴメンネ。自分のことばっかり考えてた。そうだよね。まだ学生だったの忘れてたよ。」
彼女はそんなボクの失態を攻めることなく、いつものように唇をあわせに来てくれる。そして思い出すのだ。この甘美な芳香とネットリとしたぬくもりを。
今宵もボクは彼女の虜になるだけの時間を過ごすこととなる。
クリスマスイベントということで、入店客は女の子からプレゼントをもらうシステムになっているようで、一応ボクにもプレゼントのおこぼれには預った。どうやらお店が用意しているものらしく、割と貧疎な小物ばかりだった。
中には常連客用にクッキーを焼いてきた女の子や因果のある客への品物などもあったが、ボクはそれ以上のものをすでにもらっているので、店の中で手渡されるプレゼントは粗品程度で十分だった。
そんなことを知っているのは本人同士だけ。店の中とはいえ、まったりとした時間を過ごしていた。しかしながらクリスマス戦線たけなわの店としては、ボクたちだけをまったりとさせるわけにはいかない。別の指名に、そしてヘルプへと彼女はとられていく。
その間、ボクはおおよそ繰り返しロンリーになることが多く、一人で彼女の身辺を心配するのであった。
「ただいまあ。」
ボクのシートへ戻ってくるときの彼女の笑顔が、そしてボクの胸に寄り添いながら目を瞑っている清楚な顔がボクの心を落ち着かせてくれる。
ボーナスも出た後だったし、3セットまでは頑張ってみたが、それ以上は財布がSOSの警笛を鳴らしてきたので、今宵はもうお別れの時間を迎えることとなってしまった。
「また来る。そして連絡を待ってる。でも勉強も頑張ってね。」
「うん。多分、明後日にもう一度出勤して、今年はそれでお終いになると思う。卒論もずっと再提出中だし。」
「わかった。ホントは初詣とかも一緒に行きたいんだけど、ボクも実家に帰らなきゃいけないし。だから、今度会うのは年が明けてからだね。」
ボクたちは今年最後の口づけを交わして、夜が更けていくのを見送るのである。
新しい年がボクたちを応援してくれるのだろうと思い込んだまま。
そういえば今夜は月が出ていないな・・・。
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