第4話 エピソードその三
その日は特に決まった用事の無い水曜日のことだった。
昼休みはいつも適当に一人で時間を過ごすのだが、ランチで食べた大盛りのナポリタンが胃袋の中でややもたれ気味だなと感じ始めていた頃、不意にケータイがブンブンと震え始めた。ヒデからの着信だった。
「おーい、今夜空いてるか?」
「空いてるけど、どうした?」
「新宿近辺で、どこか美味い日本酒を飲ませる居酒屋をしらないか?」
「そうだな、中央通の右手に『大町食堂』っていうのがあって、その角を東に入ったところにある『魚の越後屋』って言う店にウチが卸した日本酒が入ってるよ。」
「そうか、今夜そこへ行かないか?オレの奢りでいいぜ。」
「いいけど、どうした?競馬でも当たったか?」
「詳しいことはそこで話す。じゃあ、そこに七時でどうだ?」
「わかった。」
中々消化しきれそうにないナポリタンがまだ腹の中に溜まっている状態で、夕飯のことを想像するには少し辛いものもあったが、ヒデが奢るというのだから、行かぬ訳にもいくまいて。都合のいいことに今日はノー残業デーだ。時間通りに行けるだろう。
「しかし、一体どういう風の吹き回しだろう。」
そんなことを考えながら午後の仕事をこなす事になるのである。
そして午後七時。
約束どおり『魚の越後屋』に到着したボクは、店の中でヒデを待つ。
得意先の一つでもあり、店長とも顔見知りなボクは、カウンターで仕事の話を絡めながら、他愛の無い会話などで時間を潰していた。
やがて、さほど遅れることなく店の暖簾をくぐったヒデは、ボクの顔を見つけるなり「よおっ。」と声をかけた。
そしてボクの隣にむんずと座ると、
「さあ、この店のイチ推しを教えておくれ。それからいこう。」
「一体どうしたって言うんだい。」
「いいから、後でゆっくり話してやるよ。」
ボクは京都伏見の日本酒と刺身の盛り合わせやいくつかの焼き物を注文した。
すぐさま日本酒とお通しが運ばれてくると、早速、乾杯から宴会が始まる。
「ほお、これが美味いとされる日本酒なのか。オレにはあんまりよくわからんけどな。」
「で、一体どんな風の吹き回しなんだ?」
ヒデは落ち着いて一息入れると、うれしそうな顔で話を始める。
「実はな、あの店のお気に入りの女の子が今度、一緒に酒を飲みに行ってくれるって言うんだ。しかもおいしい日本酒じゃないと嫌だときたもんだから、アキラ先生に相談させていただいたという訳さ。」
「へえ、そんなことができるんだ。すごいね。」
「まあ、まだ確定したわけじゃないけど、リサーチはしておかねばな。ようは、仲良くなると、そんなデートもできるかもしれないっていうことさ。」
「それって下心丸出しじゃないの?」
「もちろんそうさ。ぐへへへ、きっといいことが起こりそうだ。そんな予感がするんだ。」
「お店の女の子って、そんなに尻軽なのかい?」
「そうかも知れない、そうじゃないかも知れない。イチイチそんなこと考えてたらデートなんて誘えないさ。」
「ケンさんも女の子とデートしてたりする訳?」
「ああ、もう何回もしたって聞いたぜ。アキラも誘ってみれば?そういえば、あれからあの店には行ってみたか?」
「いや、行ってないよ。オレには不向きだって言っただろ。」
「ホントはさ、オレなんかよりもアキラの方がデートできる可能性はあるような気がするんだ。なんたっておまいさんはオレと違ってジェントルだからな。」
「それが過ぎるっていう理由で何度も振られたことがあるぐらいね。」
「どうだ、今夜のココはオレが奢るから、終わったら一緒に行かないか、『ピンクシャドウ』に。」
「遠慮しておくよ。一人で行っておいで。」
話としてはそういう流れになるんだろうなとは予想していた。しかし、今日はミウの出勤日ではない。そんな日に行く理由が見当たらない。
「結局アキラが指名した女の子って誰だっけ?よく覚えてないんだけど。」
「知る必要ないさ。もう行かないんだから。」
結果的に最初につれて行ってもらった翌々日には再訪問しているのだが、そのことは触れずにいたい。ボクという人物像のイメージは「ああいう店は苦手」なのだから。
「ヒデは行けばいいじゃん。オレはココでゆっくりして帰るから。」
そんな話をしているうちに料理が運ばれていた。この店の刺身は漁港から直接送られてくるというマスター自慢の魚ばかりだ。ヒデは日本酒はもちろんのこと、魚も喜んでくれた。これなら女の子を連れて来ても大丈夫だと。
しかし、簡単には彼女を店から連れ出すことはできないのだろうな。なんだかそんな予感がしていた。
そしてヒデは宣言どおりに『ピンクシャドウ』へ向かう。ボクも予告どおりこの店に残る。そんなそれぞれの場面に移るころ、少し手の空いたマスターがボクのところへ寄って来た。
「さっきのはお友達ですか?」
「はいそうです。」
「たぶんキャバクラの女の子の話をしてたんですよね。」
「はいそうです。」
「たぶん、下心があったら絶対にダメだと思いますよ。」
「ボクもそう思います。」
「あの手の女の子って、意外と身持ちは堅いですからね。」
「そうなんですか。まあ、彼らには彼らの遊び方があるようです。ボクにはついていけませんけどね。」
「それよりも今日はこんな魚が入ってるんですが、焼きますか?」
マスターは冷蔵庫から立派な金目鯛を取り出した。
「切り身でいただけるなら焼いてください。」
「はいよ。」
ボクはヒデを送り出してからもう少しの時間、この店で過ごした。
ミウをこの店に連れてくることを想像しながら。
そして週末の金曜日がやってくる。
この日は店にミウが出勤する曜日でもある。
ところが、この日は暦上の三連休。ボクは親戚の祝い事があって青森まで行かねばならない。父が東北の出身で、その親戚連中が青森や岩手に何軒か残っている。今回は叔父の息子、つまりは従兄弟の結婚式なのである。仲の良い従兄弟の結婚式だから、行かない訳にはいかない。残念ながら店の訪問は、週明けの月曜日になりそうだ。
しかし、考え様によってはその方が良いかもしれない。金曜日はあちらこちらで仕事帰りのサラリーマンが宴会に花を咲かせ、その二次会もしくは三次会でそういった店に立ち寄る曜日でもある。店の方でもちゃんとわかっていて、スタンバイしている女の子の数もウイークデーより充実している。
逆に月曜日なら客数も少なく、よりまったりとした時間が楽しめるかもしれない。そんなことを考えながら北行きの新幹線に乗り込む金曜日だった。
青森では心から従兄弟の門出を祝うと同時に、従兄弟からはボクの結婚への催促を迫られた。ボクが結婚することで彼が得るメリットなど特に無いはずなのだが、自分が幸せになるだろうお裾分けの気持ちを与えたかったのかもね。ある意味大きなお世話ではあるが、ありがたく気持ちだけはもらってきた。
しかし、それよりも大事なことはミウへのお土産である。先日のフェイスパックはかなり喜んでくれたので、それと同じようなものを探してみたら、あったあった。もしかしたらどこにでもあるのかも。あまり米どころとは言えない青森ではあるが、酒を飲む量となると尋常ではない。その分酒蔵も多く存在しており、そういったところが女性向けの商品をいくつも開発しているようだった。
ボクがフェイスパックの良し悪しを見分けられるはずもなく、訳のわからないまま適当に選んでしまったことはミウには内緒にしておこう。
それともう一つ、面白そうなものがあったので、これもお土産として持って帰ろう。結局ボクは本州最北端の県まで来て、ミウへのお土産を買うついでに従兄弟の結婚式に参加したようなものだったのかもしれない。
東京のアパートに帰りついたのは、日曜日のかなり遅い時間だった。荷物の整理や洗濯に掃除などの後片付けを怠ると、後で大変な目にあうので、疲れた体を無理にでも動かして必要な作業を終えてしまう。
さすがにそんな疲れた体で店に行く気力もなく、訪問は予定通り翌日とした。
ちなみにと思って近況情報を入手しようとホームページを開いてみると、彼女のブログが更新されていた。そしてそこにはなんと、ボクがプレゼントしたフェイスパックの写真が掲載されているではないか。小躍りしたくなるような気持ちを抑えつつ、青森で買ってきたお土産を大事に、小奇麗な袋に入れ直した。
そして仕事用の鞄に詰め込んで、やっと、ひと安心するのである。
三連休とはいえ、ずっと出かけていたので、ちっとも休んだ気にはなれなかったが、かといって会社が追加の休みを許してくれるわけでもなく、当たり前の月曜日を当たり前のように出勤することになる。
師走を前に詰め込み仕事が山ほど溜まっている。さすがに年末近くになると、猫の手も借りたいほどの超多忙な日々となるのだが、その前に完了させておかねばならぬ案件がいくつかあった。今週のうちに京都に行かねばならなかったし、来週には山梨への出張も待ち構えていた。
昨日までの疲れが癒えていないボクにとって、今宵のイベントは必須ならざるを得ない時間だと思っていた。今日だけはと自分に言い聞かせて、少な目の残業を終了させて会社を出る。課長が心配そうな目でボクを見送っていたが、「明日からがんばります。」と言ってなんとか事務所を後にした。
鞄の中にはミウへのお土産が入っている。それを大事そうに抱え、ニタリ顔で歩く姿は、少々気味が悪かったかもしれない。でも、この時期のこの時間、すでに日は暮れており、ボクの微妙な表情まで読み取れるほど明るい景色ではなかった。
見覚えのあるアーケードを抜けると、見覚えのある交差点に差し掛かり、見覚えのある看板を見つけることができる。
そしてボクは見覚えのある階段を昇って、見覚えのあるドアを開くのである。
さて、ここからがボクの大事なイベントの始まりだ。
「いらっしゃいませ。今日のご指名はどうされますか?」
見覚えのあるボーイが尋ねると、ボクは前回と同じ口調で、
「ミウさんをお願いします。」
とオーダーする。
彼はボクのオーダーを店内へと通す。
しばらく待った後、ボクは三度目の逢瀬となる時間へ突入することになるのである。
「こんばんわ。また来てくれたのね。」
「キミが恋しくて。ところでボクの名前を覚えてる?」
「アッくんでしょ。もちろん覚えてるわよ。」
そして彼女はすぐに唇を提供してくれる。また前回と同じように、甘いネットリとした芳香がボクを強襲する。
彼女の体を抱き寄せると、ボクはそのまま彼女の体に覆いかぶさるような体勢でイニシアチブを執ろうとする。彼女も受身の体勢で待ち構えてくれるので、必然的にボクの動きはコントロールしやすくなる。
しかし、この体勢はベッドの上でとるべきであり、狭いシートにおいては体力を損なうだけの体勢にしかならなかった。
ある程度彼女との抱擁を堪能した後は、楽しいお喋りの時間が欲しくなる。ボクはそっと彼女の体を離して一息ついた。それでも彼女の手は離さぬままにいる。手のひらが汗でじっとりしてくるのがわかる。
「ブログを更新したのを見たよ。ボクのお土産を載せてくれたんだね。とってもうれしかった。だから、今日も持ってきたよ。」
彼女は不思議そうな表情でボクの顔を覗きこむ。
ボクは鞄から袋を取り出して彼女に差し出した。
「はい。同じものじゃないけど、同じシリーズで。」
「あ、ホントだ。とってもうれしい。もらったパックは使っちゃったから、ちょっと淋しかったの。あれ、すごく良かったわよ。」
「その具合についてはボクはわからないけど、パックのシリーズはとりあえず今回でおしまい。次からは違うカテゴリのお土産を持ってくるから楽しみにしていてね。そんでもってまたブログに乗せてくれるとうれしいな。」
「うん、わかった。がんばってみる。でもね、私あんまりブログは得意じゃないの。他の女の子よりも更新頻度も少ないでしょ?」
「そのレアな記事にボクのお土産が載るんでしょ。うれしいじゃない。だけど、その記事を見たミウちゃんのお客さんが、これからは続々とお土産を持ってきてくれるかもよ。そしたらブログネタには困らないってことじゃない?」
「そうね、いつもブログネタって困るものね。」
「インスタとかはやってるの?」
「それもあんまり。あんまり好きじゃないのかな。向いてないのかな。」
ちょっと寂しげにポツリと呟いた。
「あんまり気にしなくていいんじゃない。ボクだってあんまり得意じゃないし。それよりもミウちゃん、日本酒って好き?」
「うーん、私まだあんまりお酒飲めないかも。果汁がいっぱい入ったのでないと。三杯も飲んだら眠っちゃうかな?」
「そうなんだ。じゃあボクの席ではノンアルコールを飲めばいいのに。」
このシートでは客は無料でドリンクを飲める。女の子も客の了解を得れば、有料ではあるがドリンクが飲めるシステムになっている。ボクはいつもレモンハイを飲み、彼女は特注のオレンジハイを飲んでいた。
「でも、アッくんが飲んでるから、それに合わそうと思って・・・。」
なんといういじらしさだろう。別段ボクも飲みたくて飲んでるわけではない。唇を合わせる前に少しでもアルコールで消毒してあげたいのと口臭が気になるので香りの強いものを飲んでいるだけなのだ。
「ラストまでいなきゃいけないのに、そんなのに付き合う必要はないよ。次からボクのシートでは、ジュースかなんかでいいからね。」
彼女の体のことも心配だが、酔った状態で言わなくてもいいことを言ってしまうことの方が心配だ。ボクにだってついつい口を滑らせているのに。ボクだからいいようなものの、他の客だとどんなことになるかわからないからね。
「ありがとう。でも大丈夫よ。そんなに飲ませるお客さんなんていないし。」
まあ、それもそうだと思う。ここはお喋りがメインでもなく、ましてや飲むことがメインではない。はっきり言えばイチャイチャすることがメインの店である。よっぽど一人の女の子に長居する客ならともかく、ミウにはまだそれ程の太客は付いていないようだし、あんまり心配する程のことでもないか。
さて、イントロダクションの部分はそこそこにして、そろそろボクもメインのイチャイチャタイムを楽しみたい。そんな欲望に駆られるのである。
「今日は変わった座り方をお願いしてもいい?」
ミウは不思議そうな顔をしてボクを見つめた。
「どうするの?」
ボクは片膝立てた上に彼女を寝そべらせるように座らせた。これで彼女の体は完全にボクに委ねられることになるのである。
「こんな座り方初めて。」
「これだとミウちゃんの体はボクに完全に預けられる格好になるし、なにより可愛いキミの笑顔が正面で見られるからね。」
ボクの思惑は思った以上だった。
確かに彼女を支えている片方の腕は自由な動きが制限されているが、その反面、もう一方の腕は完全にフリーの状態になるのである。フリーになった腕は彼女のあらゆる部分を探索することが可能になり、更にはあらゆる動きをコントロールできる様になる。しかし、だからと言って焦ってはいけない。ボクは彼女を支えている方の腕をグッと自分の体の方へ引き寄せ、彼女の唇を奪いにいく。
目を瞑り、ボクに任せるように静かに受け入れる彼女は、この瞬間だけはボクのものだった。久しぶりに会った恋人との挨拶を楽しむように時間を費やしていく。
永遠に時間があるなら、ボクはこの時間をもっと続けていたかった。それほどまでにボクは彼女の甘い唇と爽やかな芳香に陶酔していた。しかし、ボクに与えられた時間は限られている。しかも、いつ何時他の客の指名が入るかわからない。
ボクは彼女の体を起こして、
「次は膝の上に乗ってもらってもいい。」
そう嘆願した。
彼女は「うふ。」と声を漏らしてボクの膝の上へと移動する。すると彼女の形のよい丘陵が目の前に現れ、ボクの狼の部分を呼び起こすのだ。
「今日も綺麗なおっぱい見せてもらってもいい?」
またぞろ嘆願するような目でお願いする。
「いいよ。」
と答えが返って来る以前に、ボクは彼女のビキニの紐を肩からずらしていた。その姿がとても妖艶に見える。
「おっぱいにキスしてもいい?」
すかさずボクは次のお願いに移る。
「いいよ。」
彼女から返って来る答えは決まっている。
ボクは遠慮がちに右の丘陵の頂点にある石碑に唇をあてた。その瞬間、彼女の口から小さく漏れる声が聞こえた。ボクは彼女の気持ちに応えるように、できるだけジェントルに石碑を弄んだ。転がしたり、歯をあてたりして。そして長くは続けない。反対側の丘陵へも、同じような挨拶をしておきたいからである。
彼女のバストは豊満ではないかもしれないが、形やバランスはとても美しい。見とれるほどに。その美しい女神の象徴が、我が物になる時間を楽しみたいのである。
同時にボクは彼女の唇をも求める。ネットリとしたぬくもりも味わいたいからである。この瞬間ボクは夢の中の世界へ陥ってしまう。現実の世界にある、嫌なこともすっかり忘れられるほどに。
すると、ボクたちの時間を切り裂くようなアナウンスが聞こえてきた。
=ミウさん、八番テーブルへリクエスト=
心配していたことが起こった。彼女を指名した客が来た合図である。
そもそも、今日は金曜日。いくら早い時間帯とはいえ、彼女をずっと独占できるはずもない。そんなことはわかっていた。
「ゴメンネ、呼ばれちゃった。すぐ戻ってくるから。」
彼女はそういい残してボクの席を立っていく。
同時にヘルプの女の子がやってきた。女の子と言うよりは、ややボクよりはおねいさんっぽい人であった。
「こんばんわ、ミカです。おや?なんだかぼおっとしてますね。これは相当彼女にはまってるようですね。」
「ごめんなさい。ぼおっとしてて。でも彼女に惚れちゃったのは事実かもしれません。ボクのタイプなんですよ。」
「うふふ。そうみたいね。あなたの顔にそう書いてあるわ。あの子はとってもイイ子よ。優しくしてあげてね。」
「はい。しばらくは通うことになると思っています。色々と彼女のことよろしくお願いします。」
「それってあなたが言うセリフ?」
「そうですね。ボクはただの客ですからね。」
「いつか良い関係になれたらいいわね。」
「そんなことにはなりませんよ。ボクはただのお客さんです。ボクが彼女と良い関係になんかなりませんよ。」
「そんなことわからないじゃない?」
「ボクが彼女の良い人になっても、きっと彼女は幸せになれないような気がします。みんなから頼りないって言われてますから。彼女が好きなことはホントです。でも、彼女がボクのことを好きになることなんて、きっと無いですよ。」
「何をバカなこと言ってんのよ。もっと自信を持ちなさい。どこでどうなるかわからないんだから。」
「・・・・・そうですね。」
ミカさんは自信なさげなボクを応援してくれる言葉を投げかけるものの、決してその言葉は本意ではない。お店の女の子が、客と女の子との橋渡しをするはずもないのだから。
ただボクは、そんな風になればいいなと思いながら薄暗い天井を見つめていた。
「そんなに好きなら、ずっと居てあげればいいのに。」
「でもね。ボクの資金にも限界があります。」
「じゃあね、長く居なくてもいいから、回数を通ってあげてね。」
「えっ、どうしてですか?」
「そういうポイントがあるのよ。お店のシステムで。その方が彼女のためよ。」
「そうなんですか。いいことを教えてもらいました。ありがとうございます。」
ボクは素直にミカさんにお礼を述べた。
そのタイミングで場内コールがかかった。ミカさんがボクのシートを離れ、ミウが戻ってくる。そんなアナウンスだった。
ボクもその頃はアナウンスの声もよく耳に入る様になっており、どんなワードがどんな合図かも理解できる様になっていた。
「ただいまあ。ゴメンネ遅くなっちゃって。」
「指名のお客さんが来たの?」
「ウン。でも私はアッくんの方が好き。」
このセリフをそのまま信用してはいけない。この「好き」はもちろん営業用である。彼女が個人的にボクを好きになる筈もない。そう言い聞かせて言葉を飲み込む。
「ありがとう。でもこれでボクの時間は半分になるわけだね。」
そう言うと彼女は何も言わず、ボクに唇を合わせてきた。
ボクは彼女の体を抱きしめる。そして微妙な感情に胸が痛むのである。
―――本当は誰の手にも触れさせたくない。―――
だけど、今の自分にはそんなことを言える権利は無い。ただ、今の時間だけを自分の時間として納得するしかないのだ。
ボクたちはあまり多くの言葉もなく、弾むような会話も少なく、ただ唇を合わせただけの時間を過ごす。
そして数分ごとにもう一人の指名客とボクのシートとの間を往来するのである。
この日は一度だけ延長したものの、この時間の間に彼女の指名客はボクともう一人以外に増えることはなかった。
そして彼女がボクのシートに戻ってくるたびに、
「アッチのお客さんに酷いことされてない?嫌なことは嫌って言わないとダメだよ。」
などと彼女の心配をしている。彼女がボクの席を離れる度にドキドキしてしまうのだから仕方がない。
でも、戻ってくる度に、「大丈夫だよ。」って答えてくれるので、やっと安心するという筋書きである。おおよそこれ以外のト書きとなることは今のところなさそうだが、心配であることは間違いない。
「アッくんに言っておかなきゃいけない事があるの。」
急に神妙な顔をするから何事かと思って、彼女が話し始めるのを待っていると。
「そろそろ卒業論文をまとめなきゃいけないの。だから月曜日の出勤はしばらく止めて、金曜日と日曜日だけになるから。」
「なんだそんなことか。そりゃ、アルバイトよりも卒論の方が大事だから、そっちを優先させなきゃね。ボクは金曜日でも日曜日でもキミに会いに来るさ。」
「うふふ。ありがとう。待ってるわね。」
そう言ってニッコリと微笑んでくれる。
やがてボクのセットが終了する時間がやってくる。ボクの方が入店する時間が早かったので、終了時間のコールがかかるのもボクの方が早い。
「アッくん、もう時間ですって言ってるけどどうする?」
「今日は帰るよ。また来るから。」
そういい終わると同時にキスをしてくれる。
そして、「また来てね。待ってるわ。」の言葉でボクの至極の時間が終了するのである。ドアまで見送りに来てくれる彼女はニッコリと微笑みながらボクに手を振ってくれる。その笑顔がたまらなく可愛いと思った。
寒空に浮かぶ月は少し膨らみかけているように見えた。その様子はなんだかボクを応援してくれるかのようだった。その周りで瞬いている星たちは、どんなふうにボクを見ていたのだろう。
ボクの気持ちはドンドンおかしくなっていった。
出会ったときよりも、確実に恋に落ちている。そんな感じだった。
彼女のことを想うと胸が苦しくなる。こんな感情は久しぶりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます