第2話 エピソードその一
一人で電車に乗って帰路についた次の日、ボクは何事もなかったように、ただ普段の日常を過ごしていた。
猫が日向ぼっこでのんびりと休日をまどろんでいるかのように。
そろそろ時計の針がこぞって真上を向こうとするとき、突然ケータイが鳴り響く。
「誰だろう?」
画面を覗くとヒデの名前が浮き上がっている。
用件は想像できた。昨日の夜のことだろう。
「はいはい、なんでしょう。」
「なんでしょうじゃないだろう。何で黙って帰ったんだ?ケンさんも心配してたぞ。アイツの好みじゃなかったかなって。」
「ああ、その通りだよ。オレの好みじゃなかったさ。」
「でも結構カワイイコもいただろ?」
「薄暗くてよくわかんなかったよ。どっちみち、あんまり顔なんか見られなかったし。」
「中学生か!今どきの高校生でももうちょっとマシな遊び方してるぜ。まあ言っても仕方ないか。それよりもまた近々『ロッキー』に来いってケンさんが言ってたぜ。いつなら都合がいい?」
「なんの用事だろう。」
「アキラに頼みたいことがあるって言ってたぜ。何のことかは知らねえけどな。」
「んー、なら早くても次の金曜日かな。」
「わかった。オレは今晩も行くから、ケンさんにそう伝えておくよ。」
あの二人の遊びにはついていけない。そう思っていたのだが、反面、昨夜の彼女たちの肌のぬくもりも忘れられなかった。ボクにとっては久しぶりの感覚だったのも事実である。
それでも、大枚はたいて出かけるほどのものでもないな。
そのときはそう思っていた。
平穏無事な時間はあっという間に過ぎて、約束の金曜日があっという間にやってくる。今宵は『ロッキー』に七時半の待ち合わせだ。とはいえ、早ければ勝手にカウンターでグラスを傾けるのがココでの待ち合わせであり、おおよその頃合で店に辿り着けばよいのである。
そしてボクが『ロッキー』に辿り着いたのが七時半を少し回った頃。ヒデはすでにカウンターでモルトのロックを二杯ほど空にしていた。
「こんばんわ。ちょっと遅れたかな。ボクにはビールを。それで、ケンさんのご依頼っていうのはなんですか。」
「まあ急ぎなさんな。オレのビールも用意して三人で乾杯しようじゃないか。」
三人の宴はピーナツとソーセージを挟んでグラスを鳴らすところから始まる。
「アキラに頼みたいのは他でもない。ちょっとしたPOPを作って欲しいんだ。オレってパソコンが苦手だろ、だからアキラに頼みたいのさ。」
「簡単なのでよければやりますよ。ボクもプロじゃないので、センスを問われると困るんですけど。」
「いいんだ、店の名前とオレの写真とが入っていれば。年明けに客寄せのイベントをしたいんだが、店の前に新しいPOPを貼りたいのさ。色合いは赤と黄色の色調をメインで。タイトルは二、三日のうちにメールするよ。写真だけテキトーに撮っといてよ。」
「そんな手作り感満載のPOPでいいんですか。客入りに影響しますよ。」
「素人作りっぽいのがいいんだ。この店のウリはアットホームだからな。ところで、こないだの店はどうだった?早く帰っちまったみたいだけど、気に入らなかったかい?」
ああ、やっぱりその話を切り出すのか。ボクの表情が一瞬怪訝な様相に変わる。
「いや、楽しい思いをさせてもらいましたよ。でも、ボクには贅沢すぎる遊びなので、早々に退散させてもらいました。」
「ふん、たまの遊びなんだ。ちょとぐらい贅沢な方が丁度いい。自分へのご褒美だと思って奮発しないと、ストレス溜まって病院行く方が高くつくぜ。」
「ケンさん、こいつはもしかしたらゲイかもしれませんよ。今度はそっちの店を紹介してやったらどうですか。」
「バカ、オレはいたって普通だよ。でもあの店ももう行かないよ。」
「ということは、別の店だったら行くかもってことかな?じゃあ決まりだ。今夜はPOPを作ってもらうギャラの代わりに、この間とは別の店に招待しよう。もちろんオレの奢りだ。」
「えっ?どうすればそんな展開になるんですか?」
「へへへ、この間はケンさんの馴染み店。今度はオイラのオキニがいる店さ。」
「まあ似たような感じだったけど、全体的に女の子の年齢が若かったかな。」
「えっ?ケンさんも行ったんですか?」
「ああ、次の日にな。お前さんの女嫌いを治してやろうと思ってさ。」
「ボク、別に女嫌いじゃないです。こないだも楽しかったですよ、それなりには。」
「なら、効果があったってことだろ?こないだはアキラよりも少しおねいさんが多かったから、今度は同い年か年下だ。さて、どんな効果が現れるかな。」
「うう、なんだか実験台にされてるみたいで良い気分じゃないです。」
「オレの仕事は受けてくれたんだろ?なら、まずは手付金を払わなきゃな。いくぞ。おーいユウスケ、また頼むな。」
こんなことのために、店番をさせられるユウさんの気持ちってどんなのだろう。話の中身を聞いていないユウさんは、ニッコリ微笑みながら「仕方ないか」って言う顔をしてボクたちを見送っていた。
店を出ると、そろそろ町中がお歳暮戦線の準備を始めている。それが終わると次はクリスマスに忘年会とイベントが目白押しとなる。慌ただしい空気とざわついた人波を押し分けてボクたち一行は、ヒデの馴染みという店へと向かっていた。
「オレのオキニはカレンちゃんっていって、胸はあんまりないんだけど、もうあそこが濡れ濡れで、この間なんか潮を吹かしてやったんだ。」
一瞬何の話をしているのかわからなかったが、ヒデの指の格好や動きからして想像できる事は絞られていた。
「あの店は下も触ってOKなのか。珍しいな。」
「全部の女の子に許されるわけじゃないですけど、運が良ければ・・・ですね。」
「ほほう、イイ子に当たればいいけどな。」
そんな会話を交わしながら歩く二人の後をトボトボとついて行くボク。特にウキウキする理由もないのだけど、前回の妖しげな雰囲気に興味がないわけでもなかった。
やがて繁華街のアーケードを何度か曲がると、ヒデは次の角でアーケードを横断する道路の先を指差してコッチコッチと手招きをする。
「この店だよ。」
その店はまさにありがちな四角いピンクの看板で、『ピンクシャドウ』と書かれてあった。きっとビルの名前はあるのだろう、エレベータで三階まで昇り、扉が開くと目の前に先ほど見かけたピンクの看板と同じ電飾の看板がチカチカと輝いていた。
もう、相当な馴染みなのだろう、先頭を切って入っていくヒデは、待機していた黒服のボーイに三名であること、そしてオキニの指名を告げた。ケンさんも二度目というだけあって、前回と同じ女の子を指名したようだ。
「アキラはどうする?って言っても何にもわからんよな。ボーイさん、ブロマイドある?」
そういわれてボーイが取り出したのは、この日出勤している女の子のリストになるのだろう、何枚かのブロマイドを取り出した。そのブロマイドには顔こそ映っていないが、妖しい衣装を身に纏った女の子たちの怪しいポーズの写真が重ねられていた。
ボクはどちらかというと“ちっぱい”よりもちゃんと胸がある女の子が好みだ。そのブロマイドには、裏に年齢やスリーサイズも記載されており、その中のDカップの女の子を見つけ出してチョイスした。
ボーイが「この子は下はダメですよ。」と注意を入れてくる。ボクにとっては、特にその行為が必須条件ではないので、黙ってうなずいていた。
このとき、なんだかんだ言いながらも、何かに期待している自分がいることに気付いていた。多少ワクワクしている自分が少し恥ずかしかったけど。
フロアに入ると、そこには以前の時と同様に薄暗い空間が広がっていた。やや異なっているのは光源の色がピンクともパープルともつかぬ光だったことである。
やがて出口に近い通路の中央あたりのシートに案内されると、ボーイから待っていろと指示を受けた。
そうしてしばらくすると、入り口で指名した女の子がやってくるのである。
「こんばんわ、初めましてミウです。よろしくお願いします。」
年の頃は二十歳過ぎか、確かに前回の店で会った女の子よりも若い女の子だ。というよりも、いいのか、こんなうら若きどこにでもいそうな女の子がこんな店にいて。
ボクの受けたファーストインプレッションはまさにそんな感じだった。彼女は髪も染めておらず、透き通るような色白の肌で化粧も薄くナチュラルだ。隣に住んでいる同級生の妹。そんなイメージがピッタリの彼女だった。
「こんばんわ、初めまして。」
ボクも同じような挨拶を返す。
すると彼女は、いきなりボクに抱きついて唇を合わせにきた。ボクもそれに応えるように彼女を抱きしめた。
しばらくの時間、ボクの息と彼女の息が挨拶を交換する時間が流れていた。その間、ボクの耳には彼女の吐息と心音しか聞こえていなかった。
何分経っていただろう、ようやくお互いの吐息と匂いを確認できた頃、彼女の体がスッとはなれた。
「今日は指名してくれてありがとう。」
ニッコリ微笑んだ笑顔がとってもかわいい女の子だった。
「よかった、可愛い子で。ちょっとドキドキしてたんです。」
「で?どうでした?気に入っていただけましたか?」
「はい。普通の女の子っぽい雰囲気なので安心しました。ボク、化粧の濃い女の人がダメなんです。匂いもきついし。」
「私ね、まだ学生なんです。就職活動もしなきゃいけないし。」
「ということは今年二十二歳ですか?」
「はい。」
「じゃあボクと二つ違いですね。」
「うふふ。」
そういうとまたぞろ彼女はボクの唇へ吐息を投げかけてくる。それを躊躇なく受け止めると、ボクは彼女の唇と吐息を思う存分味わった。まるでその匂いに翻弄されるかのように。
彼女の背中に回っているボクの腕は、彼女の体を離さぬようにがっしりと抱きしめている。
よく見ると彼女の衣装は柄のビキニに透き通るような薄手の白いブラウスをまとっているだけだった。
ボクは彼女の吐息を堪能した後、少し体を離して目線を胸元に移す。さほど大きくはないが、美しい曲線の一部がビキニの間から垣間見られる。
「あのう、ビキニの中を見せてもらってもいいですか。」
「はい、いいですよ。」
ボクはビキニの紐を少し持ち上げて、カップの部分をずらしてみた。するとそこには、想像していた以上に美しい曲線で描かれている丘陵があった。
「なんて綺麗な。」
ボクは思わず言葉を口に出していた。
「そんな風に言われると恥ずかしいです。」
まさにその辺の女の子が見せる恥じらいの装い。初体験だった頃の雰囲気を思い出すほどに彼女は清楚だった。
ボクは彼女の美しい丘陵にそっと手を添える。こんな風に積極的に自分からお店の女の子に触れにいったのは初めてのことである。
彼女のやわらかな丘陵は、ボクの手のひらにすっぽりと納まるくらいの大きさで、程よく弾力のある皮膚が、ボクの指先を踊らせてくれる。
ボクはその手の位置を維持したまま、もう一度彼女を引き寄せて唇を求めた。いや、無意識のうちに彼女の唇を求めていたのである。
やがてボクは徐に彼女の体を離し、彼女の目を見つめていた。
すると彼女は「うふふ」といって伏せるようにしてボクの胸に顔を埋める。
「あんまりじっと見られると恥ずかしいです。」
「あんまり可愛いので、見とれてしまいました。ところで、ミウさんはこの店に入ってどれぐらい経つんですか?」
「えーっと、二ヶ月半ぐらいです。」
「もう慣れましたか?」
「いいえ、まだまだです。」
「どれぐらい贔屓のお客さんがいるんですか?」
「まだ全然です。月に一度か二度来てくれる人が一人二人いるだけです。」
「そうなんですか。こんなに可愛いのに。こんなこと言うとウソだと思われるかもしれませんが、なんだかドキドキしています。また今度来たときも指名していいですか。」
「うれしいです。そんなこと言ってくれたのお兄さんが初めてです。」
この時のボクの感情は決してウソではなかった。見た目にも、ごく普通の女の子に見える彼女のことを至極気にいってしまった。その証拠にボクは1セット目が終わるまでずっと彼女の唇を求めていたし、彼女の体を離さなかった。吐息や首筋から放たれている何ともいえぬやさしい匂いがボクを魅了させずにはいられなかったのである。
やがて1セット目が終わるタイミングが来た時、それがこういったお店のシステムなのだろう、場内アナウンスが何かを喋っていた。
「お兄さん、もう時間が来たって言ってます。」
「もう少し居たいんですが、延長ってできるんですか?」
「もちろんです。延長してくれるんですか。うれしいです。」
ボクはまだこういう店のシステムを詳しく理解していない。しかし今は、システムがとか料金がとか言うよりも、彼女と一緒に過ごせる時間を楽しみたい。ただそれだけしかなかった。ボクは財布を取り出して延長を申し出た。
「ありがとう。」
そう言って彼女は一旦奥へと引き下がる。何か期待をしていたのだろうか、ボクはそれなりの準備はしていた。やがて彼女はおしぼりを持ってボクの席に戻ってきた。そして再びニッコリと可愛い笑みを与えてくれるのである。
「ミウさんは毎日お店にいるんですか?」
「いいえ、今は日曜日と月曜日と金曜日です。まだ学生ですから。」
「そうですよね。少しホッとしました。」
「お兄さん、さっきからずっと私の胸に手を当ててるだけですよね。」
「いや、少しだけ動かしてますよ。ダメでしたか。」
「いいえ、そんなソフトなタッチの人って他にいないので。みんな結構乱暴ですよ。」
「ボクはこれでいいです。なんだかもったいなくて。」
「うふふ。優しいんですね。私はその方がうれしいです。」
ボクは初対面の彼女にいきなり乱暴な振る舞いができるほどタフではなかった。元々優しすぎると揶揄される男である。ボクとしてはごく普通の振る舞いのつもりだった。しかし、彼女の吐息とスベスベとした肌触りに尋常でいられるはずもなく、ボクは彼女に懇願してみる勇気を振り絞る。
「ミウさん、ココにキスしてもいいですか?」
ボクはやや照れながらも、彼女の丘陵の頂点に目線を指しながら甘えてみた。
「うふ、いいですよ。」
すると彼女は自らボクに体を預けてくれる。
丘陵の頂点では、薄肌色の小さな石碑が少し緊張した面持ちでボクの唇を待ち構えている。ボクは彼女の背中を抱き寄せるようにして、唇と舌先で出迎える。
そこには吐息とはまた違った彼女の芳香が待ち受けていた。ボクが彼女の虜になるには、それだけで十分だった。
ボクは再び甘えるような目線を彼女に送り、もう片方の丘陵へも挨拶に伺う。彼女はボクの頭を抱えるようにして、ボクにぬくもりを提供してくれる。
その時間はボクにとって至福の時間となっていた。久しぶりに感じた許しあえる抱擁と互いへの気遣い。先日体験した店の女の子とのやり取りとは全く違った感覚に溺れている。そんな感じだった。
それからの時間、ボクは静かに彼女の甘い吐息と肌のぬくもりを楽しんでいた。
こうした楽しい時間というのは感覚的に早く過ぎるものである。あっという間に延長した時間が過ぎて行く。
すると、またぞろ場内アナウンスが延長を催促していたようだ。
「お兄さん、またそろそろ時間だって言ってます。どうされますか?」
「今日はありがとう。今夜はこれで帰ります。でも、また会いに来てもいいですか?」
「うれしいです。お待ちしてます。」
なんだか久しぶりの恋人に会えた気分だった。しかし、それは大いなる勘違いなのである。彼女にとって、それは仕事なのだから。恐らくはアルバイトなのだろう、けれどもれっきとした仕事である。本当にボクの恋人になることはないのだ。
それでもいい。また彼女に会いに来よう。ただ単純にそう思っていた。
いずれボクの胸の中に激しい嵐が吹き荒れることになるとも知らずに。
まだヒデもケンさんもお楽しみの時間を延長し続けていたようだが、彼らを残したまま、一足早く店を出ることにした。
大いに彼女のことが気に入ったことを隠したかったからである。なぜそう思ったのかはわからなかったが、このことは彼らには伏せておくべきことと思ったのである。
今宵の月は上弦。白く穏やかな光だった。
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