恋しかるべき夜半の肌かな
旋風次郎
第1話 エピソード・ゼロ
不動 明(フドウ アキラ)。当年とって二十四歳年男、とはボクのこと。
通勤電車の中でパズルを解くのが趣味である。
多くの若者はスマートフォンでゲームをしたり、SNSに興じたりしているが、ボクはそんなことに興味がない。
漢字や数字のパズルを解いていくのが格段に面白いのである。
ある秋の頃、そろそろ朝晩の気温が涼しくなり始めた十月の朝、この日も電車の中で数字パズルと戯れていた。そんなとき、不意に後ろから肩を叩かれた。
「おはよう。」
高校の同級生でもあり、親友の秀一だった。
彼の名前はヒデカズと読むのだが、面倒な輩はみんなシュウイチと呼んでおり、彼も面倒臭いのか、その呼び方を受け止めていた。
ボクは古くからの付き合いなので、彼のことは本名を略して『ヒデ』と呼んでいる。
「ああ、おはよう。」
ヒデの表情はニタニタした顔で、何か含みがありそうだ。
「なあ、おまいさん最近ずっとパズルと遊んでるけど、そろそろ女のことも興味持った方がいいんじゃない?」
「大きなお世話だよ。それよりもなんかあったのかい?」
何かを自慢したげな顔をしていたので、こちらから水をかけてみた。
「おうよ。昨日、声をかけた女の子が今夜も会ってくれるっていうもんだから、おまいさんも一緒にどうかと思ってね。」
彼がボクをそういった遊興に誘うには理由がある。
ボクはこの年になるまで、あまり多くの恋愛を経験してこなかった。経験が全くないわけではないけれど、大学時代に付き合った彼女との終わり方が悲惨だったため、それ以降、ボクの恋愛遍歴は散々なものである。
恋人が欲しくないわけじゃない。欲しいに決まっているのだが、今のボクは恋愛に対して非常に消極的になっていた。なぜなら、当時の彼女から付き合い始めてたったの三ヶ月で見限られたという悲惨な過去があるからである。
「あなたは優しいけど、つまんない。」
そう言い残して、新たな彼氏の元へ去って行ったのだ。似たようなことが過去にもあった。初めて付き合った高校時代の彼女のときも同じような振られ方だった。
つまりのところボクは女の子不審になっていたのである。
そんな経緯を知っているヒデはボクのことを思って、色々と画策してくれるのだが、今のボクにとってはありがた迷惑ともいえる親切だった。
そういうヒデなんかは、あっけらかんとしたもので、女の子からの評判もよく、何度も彼女を取り替えていた。
「なあアキラ先生、世の中には女の肌ほど心地よいものはないぜ。あんなスベスベしてもっちりして、尚かついい匂いがする。いい女ほどいい匂いがするもんだ。」
などとうそぶく。
ボクだって嫌いじゃない。すでに高校生のうちに童貞を卒業していたぐらいだから、どちらかといえば好きかも。
「おまいさんももっと積極的に恋をしなきゃ。若いうちに遊んでおかなきゃ、そのうち変な女に引っ掛かって、人生をおじゃんにしてしまうぜ。」
「今は急がなくてもいい。どうせオレなんかはすぐに飽きられるんだから。」
「おまいさんの何がつまらないのか教えてやろうか。それはな、アキラがいいと思っている優しさが、実は女の子が求めてる優しさとは違うってことだよ。もっと狼になっていいのさ。もっと強引になっていいのさ。デートも食事も、いつも彼女の言いなりだろ?それがつまんないんでないかい?」
「そんなこと言われたって・・・。」
「あのさ、週末にさ、いいとこ連れて行ってやるよ。そこで勉強しな。」
「なに?」
「いいからいいから。楽しみにしておきな。ただし、多少の軍資金は必要だぜ。とりあえずは大が二枚もあればいいかな。」
「いったいどこへ連れて行こうっていうの?怪しいところなんか行かないよ。」
「怪しくなんかないさ。まあ週末楽しみにしておいで。」
そんな話をしているうちに電車のドアが開き、スッと外気が入ってくると同時に人の波がどっと湧き出だしてくる。
ボクたちもあっという間にその波に飲まれる様に一旦外へと弾き出された。
ヒデはココで降りるが、ボクの降りる駅はもう少し先にある。
「じゃあ、週末にね。連絡するから。」
そう言ってヒデは流されるようにホームに渦巻く人ごみの中へ消えて行った。
ボクは想像してみる。
今までに何度か怪しげな店に誘われたことがあった。けれども結果的についていくことはなかった。ボクは全くの草食男子となっていたのである。
やがて電車はボクの職場近くの駅に到着し、またぞろ忙しい一日が始まるのである。
そしてその週の金曜日、思い出したようにヒデからのメールが入る。
―本日約束通り決行につき、『ロッキー』にて十九時集合のこと。―
はっきり言ってボクはヒデとの約束なんか忘れていた。
週末には新しいパズル本の探索に本屋に行って、あとはカフェでのんびり過ごそうかと思っていたところである。従って、金曜日の今日は大人しくアパートへ帰るつもりだった。
しかし、友情も大切な絆の一つである。折角のお誘いを無碍にしてはならない。
―『ロッキー』だけは付き合うよ。―
そうメールを返して退社の準備を進める。
十月とはいえ、日中はまだまだ滴り落ちる汗が不快なよどみを演出しており、そろそろビールが欲しくなるタイミングでもあった。
『ロッキー』とは新宿駅西口付近に店を構える、ヒデの大学時代の先輩であるケンさんがオーナーとして仕切っているバーだ。ちなみにボクとヒデは同じ大学ではなかったが、ともに静岡から東京に出てきて今に至っている。
『ロッキー』に先に着いたのはボクだった。
「こんばんわ。ヒデはまだですか?」
「おう、アキラか。もうすぐじゃねえか。電話あったぜ、二人で来るってな。そこのカウンターで待ってな。で、何飲むんだい?」
「とりあえずはビールを。」
などと言ってる間にドアが開く。
「よっ、待たせたな。」
「いや、今来たとこだよ。」
「先輩、オレもビールを下さい。」
ヒデはササッと注文を済ませると、鞄の中から何やらプリントを取り出していた。
「見てみろよ。」
そう言って取り出したのは、ある店の割引チケットだった。どうやらボクが想像していたとおりの店だった。
「ここで軽く腹ごしらえをしたら、すぐに行くぞ。九時までにチェックインすることが割引の条件なんだ。」
「オレはこういうの行かないって言ってなかったっけ?」
「知ってるよ。だけど最近のアキラにはこういう刺激が必要なんだって。いつまで草食男子を気取ってるつもりだ?もういい加減に過去の話を忘れて、新しい道を探さなきゃ。」
「そのことと、この店に行くことと、どういう関係があるのさ。」
「もう一度、女の肌に触れたら、きっと何かが変わると思うんだ。この店の女の子はみんないい子だから、きっとおまいさんの機嫌が変わるような気がするんだ。騙されたと思ってついて来い。おまいさんも嫌いな方じゃあるまいて。」
「それはそうだけど・・・・・。」
「だから騙されたつもりで来いって言ってるんだよ。」
その話を聞いていた『ロッキー』のマスターが話しに割り込んできた。
「なんだよ、アキラはホモなのか?なんならオレの馴染みの店を紹介してやろうか。かわいいコばっかりだぜ。」
「一緒に行きませんか?まだ混雑するには時間も早いでしょ?ちょっとだけユウさんにお店を任せて・・・。」
ユウさんとは店の従業員で、名前はユウスケというらしい。スナックでいう“チーママ”的な存在である。
「そうだな。一緒に行った方が話が早そうだ。ユウスケ、一時間ほど空けるけど任せるぞ。」
「はいはい、またリボンさんのとこですか?今日は早いですね。」
どうやら本格的に常連客となっている店らしい。ユウさんもあきらめがちな返事だ。
「よし、そうと決まれば善は急げだ。」
もうボクが断れる隙間がなくなっていた。仕方なく彼らの後をついていくことになったのである。
『ロッキー』から歩くこと約五分。その店はあった。
白と黒の看板がやけに明るい店だった。
テンションが上がらぬままついて来たボクは、結局店の名前さえ確認することもなく入店することとなる。
こんな店に来るのは初めてだ。少しドキドキする。
もちろん入店時の交渉をするのはケンさんである。
「オレにはリボンちゃん。こいつらは初めてだから三回転からよろしく。」
三回転とはフリー入場と言って、女の子を指名をせずに、1セットの間に女の子が三人入れ替わりで客の相手をするシステムである。
「途中で気に入った女の子がいたら、その子を指名すればいいからね。」
とは言われてみたものの、何のことを言ってるのかわからない。
少し待合室で待たされた後に、ようやく薄暗い店内に案内された。
そこはデッキシートのような二人がけのチェアーで、目の前に小さなテーブルが用意されている。
ドリンクは注文すれば持ってきてくれるらしいが、緊張しているボクは何を注文したかもわからなかった。
やがて一人の女の子が現れる。
「こんばんわ、ヨウコです。」
そう言いながらスッとボクの隣に座る。
薄暗い照明ながらも、彼女が美人だということが一目でわかる。
少しドキドキした鼓動を感じながら、どうしていいかわからぬボクが黙ったまま座っていると彼女は、
「どうしたの?」と聞いてくる。
「どうしていいかわからないんですが。」と答えると、
「うふふ。こういうお店初めてなの?」と聞いてくる。
「そうです。ここは何のお店ですか?」と尋ねると、
「そんなことも知らずに来たの?」って驚いている。
そうなのだ、何も聞かされずに店に来たボクは、ただただ呆然と座っているしかなかったのである。
「面白いわね。うふふ。」
彼女はそう言ってはみたものの、それ以上は何も言ってくれなかった。訳もわからずじっと座っていると、彼女はボクの手を取り、彼女の衣装の中へと導き始める。
そこには下着を装着していない素肌があった。おのずとボクの手のひらは彼女の温かい丘陵へとたどり着く。
「あの・・・。」
ボクがおどおどした顔で彼女の顔を見つめていると、
「いいのよ。可愛いわね。」
と言って、なんともいえない芳香を放ちながら、そのやわらかな唇を重ねてきた。
ネットリとした吐息がボクの鼻腔から脳天へ突き抜ける。なんだかとても久しぶりな感覚だった。
その時のボクの手はというと、彼女の丘陵の上で固まっていた。スベスベとした肌触りが心地よかったのだが、なんだかいけないことをしているみたいな感覚もあり、なかなか大胆な行動を取れないままでいた。
彼女はそんなボクに次のステップへ進む機会を与えてくれる。
一旦ボクの体を引き離した彼女は、おもむろにボクの膝の上に乗ってくる。そしてボクの顔を抱え込んで、彼女の胸の中へと誘うのだ。
そこにはまるで花園のような楽園があった。いつの間にかボクの腕は彼女の背中に回っており、同時に彼女の腕はボクの頭を抱きしめるような体勢になっていた。
「おとなしいのね。」
「あの、どうしていいかわからないので。」
「いいわ、じっとしてなさい。」
ややおねいさん口調でイニシアチブをとった彼女の言いなりになるしかない。
彼女はときおり口づけを施しながら、やわらかな肌とその芳香をあてがってくれる。
そんな心地よい時間が何分あっただろう。場内のアナウンスが何かを喋っていた。
「またあとでね。」
そういい残してボクのそばを離れる彼女。
何のことかわからないボクは、薄暗闇の中でただ呆然としていた。
そして溜息を一息ついた瞬間に、またぞろ次の女の子がやってくる。
「ヒトミでーす。」
そして、また先ほどの顛末が再び繰り返されるのである。
さらには、まどろみが定着するころに、またぞろ女の子が入れ替わり、三たび顛末が繰り返される。そんな時間だった。
彼女たちが隣に座っている時間は十分に満たないぐらいか。ある程度の饗宴が一通り施されると、次の女の子に変わっていく。そして三人目の女の子が席を立ち去った後、黒服のお兄さんが現れて、次の頃合いを伺ってくる。
「お客様、そろそろお時間になりましたが、延長はどうされますか。」
なんとも慌ただしいシステムである。ボクはやるせない思いだけが残ったまま、このシステムを継続する気にはなれなかった。
おねいさんたちとの触れ合いは楽しい。そしていい気持ちにもなる。
しかし、それ以上に罪悪感と悶々とした感情は払拭できなかったのである。
「いいえ、これで帰ります。すみません。」
ヒデは別の席で指名の女の子とイチャイチャの真っ最中なのだろう。立ち上がる気配すら感じさせない。
ボクはケンさんやヒデには黙ったまま、コッソリと店を出た。
外に出て夜の空を見上げると、丸い月が出ていた。あたかも頬を染めたようなやけに赤い月だった。
その周りでニッコリと微笑んでいるかのような星たちがチカチカと輝きながらボクを見下ろしていた。まるで不甲斐ない今宵の出来事を嘲笑っているかのように。
しかし、ボクは彼らに笑みを返す事もなく、疼く気持ちを密かに抑えながら駅へと向かうのである。
独り、多くの虚しさを覚えてはいたけれど・・・。
この夜の出来事が、ボクに何らかのエピソードをもたらすことはなかったのだが、これから始まる物語のプロローグとしては十分すぎるほどの発端になったのである。
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