第15話

 しばらく家に置きっぱなしにしていたペンダントを、久しぶりに首にかけた。十年経っても色あせない、美しい模様が入っているそれは、やはり、カイにとっては分不相応だったのだろう。何となく目を引かれて、どうしても欲しいとと頼み込んだことがきっかけになり、色々な目に合った。絵描きとして普通に暮らしていれば、きっと出会うことはなかった人と出会い、恐ろしい思いや、死ぬような思いもした。だけど、悪いことばかりでは、なかったと思う。

 クルミと一緒に買ったうさぎのぬいぐるみを手に、カイは駅へ向かった。そこにはすでに、柱にもたれたクルミがいた。

「ごめん。遅かった?」

「ううん。私が早く来すぎただけだから」

 グレーのパーカーに、フリルのスカート。ブーツを履いたクルミは、今日も三百六十度どこから見ても完璧に可愛い。小動物のような瞳は、行こう、とカイを改札の方へ誘導した。

 そのまま一緒に探偵事務所へ向かう。着いて、扉をノックすれば、スイとミヅキが出迎えた。

「や。よく来たね」

 ミヅキは、今日も黒い服をまとっていた。裾にはレースがあしらわれ、腰には茶色のベルトを巻いている。

 スイは無言で、カイが持っている袋を見ると、「これですか」と指差した。

 クルミが、「そっくりだ」といったぬいぐるみは、真っ白な毛に真ん丸な黒い瞳を持っていた。大きさは、幼い子供が抱き枕にできるくらいだ。どこにでもありそうで、これがなかなか見つからなかった。

「はい」

 カイが袋から取り出すと、さっそくモモヨから反応があったようだ。スイが、しゃがみながら見えない何かにぬいぐるみを渡すような動作をする。

「本当にこれだったっけ、と言ってます」

 目聡い。カイは苦笑いをする。

すんなり受け取ってくれますようにという二人の願いは、どうやら届かなかったらしい。女の子がどんな顔をしているのか見えないため、何と言ったものか迷った。それだけ、気に入っていたものだったのだろう。

「ごめんね。前のが、どうしても見つからなかったから、新しいの買ったんだ。やっぱり駄目、だったかな」

 目線をどこにやるべきか迷いながら、カイは言った。

「そうでもないみたいです。けっこう喜んでますよ」

 床にぬいぐるみを置いて、スイは静かに立ち上がった。うさぎは、座ったままじっと目の前の光景を眺めているようだった。

「本当ですか!」

 一時は、新しく買ったぬいぐるみで本当に良いのだろうかと悩んだものだったが、喜んでくれたなら良かった。見えないのは残念だが、カイには達成感があった。

「そうなんですか。良かった」

 クルミも、安心したように息を吐いた。

「持って行ってくれて、いいんだよ」

 スイが優しい声で言うと、ぬいぐるみはすっと宙に浮いた。目の前の光景に、二人はぎょっとした。

「う、浮いた!」

「抱き抱えただけです」

 カイの、胸よりも下の位置で、ぬいぐるみは何かに支えられているように止まった。

 不思議な光景に、ただただ感心するしかない。モモヨは、カイたちの目の前にいた。

「も、持てるんですね?」

「普通は持てません。全員がこの世のものに触れられるとしたら、僕たちは歩く度にぶつかっていないといけませんから」

「そんなに多いんですか?」

「多いか少ないかという基準がどこにあるか分からないので、ノーコメントで」

 ぬいぐるみは、すす、とスイの長い足の方へ移動した。スイは、本当に懐かれているようだ。

「じゃあ、何でモモヨちゃんは触れるんですか?」

「さっき、触れるようにしておいたので」

「スイさん、そんなこと出来るんですか!」

「そんなに驚くことですか?」

 見えるだけではなく、何やら怪しげな術まで使えるらしい。

「スイくんはね、すごいんだよ?」

 奥から、自分のことではないのに自慢げなミヅキが顔をのぞかせた。

 すると、スイは「えっと」と急に言い淀んだ。珍しい反応である。

「どうかしたんですか?」

 スイの視線を追うと、そこにはクルミがいた。さっきから黙り通しで、気付けば今にも泣きそうな顔をしている。

「……クルミは、泣いてないかと」

 ひゅ、と誰かが息を呑んだ。この場の全員の視線が、クルミに集まる。手が、微かに震えていた。

「モモヨちゃんが、言ってるんですか?」

 スイは、「そうです」と頷いた。

「クルミは、うさぎのぬいぐるみがないといつも泣いていたから、ということみたいです。今も泣いてるんじゃないかと、心配してます」

「他、は?」

 クルミが続きを迫る。

「なんでお姉さんは泣いてるのかと言ってます」

「え」

 ぽろ、とクルミの目から涙が零れた。一度零れはじめると、後から後からとどまることを知らず、溢れてきた。

「すいません」

 か細い声で言って顔を覆うが、ついには肩まで震わせる。出会ってから、付き合っている間まで一度も見たことのなかったクルミの涙は、カイの胸に刺さった。ここ最近になって初めて見たけれど、泣きじゃくる姿なんて、それまで想像すら出来なかった。

「泣かなくていいよ、私がついてるから、だそうです」

 ぬいぐるみが、遠慮がちにクルミの近くへ寄ってくる。クルミは崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。

 嗚咽のような声が漏れる。

「うん。ごめんね。ありがとう」

 事務所内の空気がしんみりとする。カイもつられて涙ぐみ、慌てて裾で拭いた。

「心配しなくていいよ。クルミちゃんには、私からぬいぐるみを渡しておくから。だから、クルミちゃんはもう泣いてないよ」

 クルミは、目からぼろぼろと水滴を落としながらも、笑った。それは、いつもみんなに元気を与える、とびきりのクルミスマイルだった。

 ぬいぐるみは、まるでクルミを案ずるようにしばらく動かなかったが、次の瞬間、手品のように消えた。一瞬のことだった。瞬きをした瞬間に、あったはずのぬいぐるみが消えた。

 誰も、何も言わなかった。鳥の鳴き声が聞こえるばかりだった。

 クルミが、足元も覚束ない様子で立ち上がる。

「お姉ちゃんが、よく言ってたんです。私が泣いてると、頭をなでながら、私がついてるから泣かないでって。私も真似して、よく言ってたなあ」

 カイは、ハンカチとティッシュを探してポケットをあさるが、見つからない。稀に持っている時はあるが、本当にそれは稀なことだった。

スイが真っ白なハンカチをクルミへ渡した。同時に、カイへはティッシュを渡す。

「二人とも、しばらくそれで落ち着いて下さい。僕は昼食の用意をしてきます」

 スイは、奥の扉の中へ消えた。

 言われた通り、ソファに座って鼻をかんだ。クルミは、ハンカチを目に当てている。

「カイくん、けっこう涙もろいもんね」

「そういうわけでも、ないけど」

 少し離れたところで、ミヅキは暇そうに地球儀を回していた。カチャカチャと遠くから、食器の音が聞こえてくる。

「お腹空いたね」

 カイの腹が、ぐるぐる鳴る。クルミは、目を赤くして笑った。

 しばらくして、食欲をそそる良い匂いがしてきた頃、全員の前に昼食が運ばれた。

 スクランブルエッグとサラダ、それにパン。その横に、バターやジャムが並べられる。飲み物は、いつものように紅茶である。

 ちゃんとした食事なんて、久しぶりだった。目を輝かせて、手を合せる。

 勢いよく食べ進めていたら、「若者は違うねえ」とミヅキはフォークでサラダを突いていた。

「スイくん、私サラダ嫌いなんだよう」

「知ってます。それが何か?」

「べっつにい。ちゃんと食べるからいいけど」

 鼻をつまみながら、ミヅキは緑の葉っぱを口に運んだ。何でもお見通しのエスパーにも、苦手なものはあるようだ。

 クルミは、紅茶を飲んで「おいしい」と呟く。

「お口にあったようで何よりです」

「スイさん! 俺もめっちゃおいしいです!」

「そうですか」

「本当においしいんですよ?」

「分かりましたから」

 焼いたパンをカイの皿に入れるので、カイはジャムをぬって口に放り込んだ。

 つつがなく食事を終えると、クルミは後片付けをさせてほしいと言って、一人扉の奥へ消えた。

「君も、あれくらいの気遣いが欲しいよね」

 酒を飲みたいと言い出してスイに止められたミヅキが、見えなくなったクルミの背中を追って言う。

「食器割りそうで怖いし。クルミちゃんは仕事で慣れてるでしょうけど」

 あからさまな言い訳だった。腹が満たされたことに満足して、全く気が回らなかった。今からでも手伝いに行こうかと考えあぐねていると、スイは立ち上がった。

「じゃあ、洗った食器を拭くくらいのことはできますよね」

 スイは、手に持った布巾をカイへ渡す。

「分かりました」

 異論はないため、大人しくクルミの元へ向かう。ちょうど、一枚皿を洗い終えたところだった。

「カイくん?」

「拭くよ。貸して」

 右手を差し出すと、クルミは「お願い」と渡してきた。

 小さな部屋に、二人きり。

 こうしていると、クルミと付き合っていた頃のことが色々と思い出されてきて、しだいに動悸が激しくなってきた。意識すると止まらない。

 無言のまま、ぎこちない手つきで皿を拭いていると、クルミが口を開いた。

「カイくん、私にもうさぎのぬいぐるみ、買ってくれない? ほら、私の誕生日もうすぐだし」

「え?」

 クルミが、明確に何かが欲しいと言ってくるのは、初めてのことだった。何事にも、気を遣い過ぎるところがあるのだ。

「さっき、クルミにもぬいぐるみあげるって言っちゃったし。もちろん、カイくんが大変なのは知ってるし、お姉ちゃんの分も買ってもらったから本当に申し訳ないと思うんだけど」

「分かった」

 言い訳のようにつらつらと重ねてくる言葉を、カイは遮った。ミヅキからもらった分の金は使い果たしてしまったけど、何とかするしかない。クルミが欲しいと言っているのに、買わないのでは男が廃る。どちらにせよ、誕生日には何かプレゼントをしようと、ずっと考えていたのである。

 ぱあと、クルミの顔が明るくなった。

「じゃあ、本腰入れて仕事探さないと」

 ここ最近、何かと忙しくて仕事探しが出来ていなかった。どちらにせよ、先立つものは金である。

「え? カイくんはここで働くんでしょ? クルミちゃんも、用心棒として働いて欲しいくらいだよ」

「「え?」」

 二人の声が揃った。

 二人だけだと思っていた空間に、ミヅキがひょっこり顔を出している。

「カイくんには絵しかないでしょ。でも、悪い評判が広がった今、絵描きとしてこの町で大成はできない。違う町で一からっていうのもありっちゃありだけど、それはできないはずだよね。大変だし、カイくんにも色々事情があるからね。それで、一番良いのは、ここで働くことってわけになる」

 カイは飛び跳ねる勢いでミヅキに迫った。

「い、いいんですかっ!」

「もちのろん。でも、それなりの働きをしてもらえないとクビにするけど」

「働きます! 一生懸命働きます!」

 ぶんぶんと頭を振ると、犬のように髪をわしゃわしゃと撫でられた。

 仕事が見つかった。嬉しさで、天にも昇る勢いだった。はしゃいだせいで、足をぶつけてスイに失笑される。

「クルミちゃんは?」

「私は、仕事があるので……でも、たまに遊びに来ていいですか?」

「そう言うと思った。いいよ、いつでもおいで。こっちとしても願ったり叶ったりよ」

 そして、カイは書面を交わして、正式にここで働くことになった。

 採用と書かれた紙を見て、カイはぱあと表情を明るくする。

「じゃ、明日からよろしく。スイくんと協力して仲良くやってね。あと判子持って来て」

「はい! よろしくお願いします!」

 床に頭をぶつける勢いで腰を曲げると、大袈裟だなあと笑われた。

「スイさんも、よろしくお願いします!」

「こちらこそ」

 淡々とした言い方で、相変わらずの無表情だったが、それがとてつもなく安心した。

「明日からよろしくお願いします!」

「はーい。じゃあねー」

 ひらひらと手を振るミヅキに一礼し、二人は帰ることになった。






「よかったね、雇ってもらえることになって」

 クルミは心から喜んでくれているようだった。カイははにかむ。

「きっと、カイくんが頑張ったからだね」

「そうかな」

 二人きりの帰り道、隣で歩くのは照れ臭いが嬉しかった。通り過ぎる男性が、ちらちらとクルミを振り返るのは見て見ぬふりをする。

 カイは、ロケットペンダントを首から外した。すでに、両親の写真は取り外してあった。クルミの首にかけると、カイよりよほど似合っている。

「やっぱり、クルミちゃんによく似合う」

「え?」

 クルミは、大事そうにペンダントの模様に触れると、「でもこれ、カイくんの」と言って首から外そうとする。カイは、手でそれを制した。

「もともと、俺みたいなのが持ってていいものじゃなかったんだよ」

 ね、と言えば、クルミは大人しくペンダントを握りしめた。

 一度は手放したペンダントが、巡り巡ってクルミの元へ戻って来たのだ。ペンダントが、クルミの元に帰りたがっていたように。

「ありがとう」

 その笑顔に、胸がきゅんと高鳴った。至近距離のクルミスマイルは、破壊力抜群だ。

「い、いや、むしろごめんね?」

「謝らないでよ。私、カイくんには本当に感謝してるの」

 思い出を懐かしむように、ペンダントに触れる。

カイよりよほど辛い人生を送ってきた彼女は、それでも笑って、カイの隣を歩いていた。

「前、のことなんだけど。ひどいことして、ごめんね」

「前?」

「その、私がカイくんを、振った時」

「あ、ああ、あれ」

 カイにとっては海の底にずっと沈めておきたい記憶だった。蒸し返されて、視線が定まらずきょろきょろと動いた。

「あれは、俺が変なこと言ったからだし」

「うん、そうなんだけど、どうしても謝りたくて。机壊してごめんね」

「いやそれは全く問題ないっていうか、新しいの買ってもらったのは俺の方!」

 切符を買っていると、ちょうど電車が行ってしまった。急いでいるわけではないので、二人並んで次の電車を待つ。

「怒らせるようなこと言って、ごめん。俺、馬鹿だからさ」

「本当にそうだよ」

「ですよね……」

 がっくりと肩を落とす。

 すると、クルミはこほんと一つ咳をした。

「でも、あんまり何でもスマートに出来る人って、可愛げがないと思うの。面白くないしつまらない」

 子供のように、足をぶらぶらさせる。

 そういうものなのか、とカイは初めて思った。何でもそつなくこなせる男の方が、頼りがいがあって良いのだとばかり思っていた。初めて聞いたクルミの心に、意外さを感じる。

 クルミは、一度開いた口を閉じた。逡巡するように視線をさまよわせ、深呼吸をする。

「もしよかったらなんだけど」

「なに?」

 二人の間を風が抜けていく。

「もう一度、私と付き合ってもらえませんか」

 恥じらうように染まった赤い頬は、風によってカイにも伝染したようだった。

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