第12話
「起きたね」
低く、ぞっとするような冷たい声で目が覚めた。
冷たい、コンクリートの床。仁王立ちで、カイを見下す恐ろしい顔をした峯。物置のような小さな部屋。窓は二つあって、外はすでに真っ暗だった。時間ははっきりとは分からないが、月の位置からすると、真夜中だと思われた。外は、とても静かだ。ここはどこか訊きたかったが、峯が教えてくれるはずもない。
カイは、蓑虫のように体をぐるぐる巻きにされ、横たわっていた。口にはガムテープが貼られていて、いつもの大声で助けを呼ぶこともできない。額に、汗が伝っていった。
日々の疲れからか、薬でも盛られたのか、身体はだるくて、目はしばしばする。眠いけれど、とても眠れる気分ではない。
「大丈夫。後で、右手だけ自由にしてあげるよ。文面は考えてあるんだ」
はらりと峯が投げてよこした一枚の紙が、カイの目の前に落ちた。
仕事もなく、金もないままでは死んでしまいます。だから、新しい町でやり直そうと思います。探さないで下さい。
幼稚な文面に、カイは目を見開く。
「書いたら、それを君の家に置いておくから安心して」
峯の隣に置いてある机に、すでに真っ白な紙と鉛筆が用意されていた。
「んー!」
「大丈夫。君が不安に思うことは何もない」
せめてもの抵抗をと試みるが、体一つ動かせない。
「君が依頼してる、探偵事務所があるだろう? 色々調べてるんだけど、なんだかよく分からないところだよね。唯一の不安要素といえば、そこくらいかな。でも、きっと僕なら完璧にやり遂げてみせる」
「んーん!」
「かわいそうに」
峯は、カイに近づくと、しゃがんで頬を撫でた。冷たい指先に、背筋が凍る。
「本当は、こんなタイミングで殺したくはなかったんだ。疑われやすくなるからね。でも、失踪者は年間万単位でいるわけだし、そのままずっと見つからない人もかなりの数いるんだよ。君が失踪したら捜査は入るだろうけど、失踪する理由がないことはないからね。金に困っているんだし。見つからなければ、そのうちきっと打ち切られる。遺体が見つからなければ、行方不明者の一人として名前が連なるだけだから、大丈夫。僕には、君を殺す理由がない」
死を実感して、カイは体を震わせた。
コンクリート詰めにされるのか。それとも薬か何かで体を溶かされるのか。輪切りにされて海か山にでも捨てられるか。それとも。それとも。
考えればきりがなかった。
「君がいなくなれば、もしかしたらクルミちゃんはうんと言ってくれるかも」
峯は、カイの口元のガムテープを剥がした。
「な、なんで」
驚くカイに、峯は余裕たっぷりに答える。
「どうせ叫んだって聞こえないからね。ここ、驚くほど周りに何もないんだ。だから、静かだろう?」
峯がそう言うなら、真実なのだろう。完璧にやり遂げると言っているのだから、少しでもリスクがあるのなら、こんなことはしないはずだ。
「もう殺すけど、何か言っておきたいことはある?」
「峯さん、あなたは、十年前クルミちゃんの家族を殺しましたね」
間髪入れずに言えば、峯は言葉に詰まった。余裕たっぷりの顔は、ほんの少しだったが崩れた。
「どうして?」
「腕の痣です。あなたに殺されたクルミちゃんのお姉さんが、教えてくれました。顔は見えなかったけれど、二の腕に髑髏のような痣があったのを見たと」
峯は息を呑んだ。そして微かに失笑した。
「馬鹿なことを言うな。まさか君は幽霊と会話が出来るとでも言うのか」
「ええ」
本当は、それが出来るのはカイではないけれど、詳しく説明している余裕はない。
まさか、と峯は一蹴した。しかし、額には汗が浮かんだ。
「しかし、そんな情報警察でも――その話、探偵事務所でも?」
「しました。あなたが捕まるのも時間の問題です」
たぶん、とは付け加えない。
十年前の事件の証拠を見つけるのは至難の業だ。さすがのミヅキでも、そう簡単にはいかないことは分かっていた。
「証拠なんて、何も残ってないんじゃない?」
「あの人たちなら、絶対に見つけます」
たぶん。
「ずいぶん信頼してるんだ」
挑発的な態度を取っているつもりなのに、峯は全く焦る様子はない。あくまでもゆったりとしていて、「そうだな」と考える素振りをして見せた。
「最終手段として、知り合いに頼んで顔を変えてもらうっていう手もあるからね。一緒に戸籍も変えることになるけど。この顔、けっこう気に入ってるんだけど、仕方がない」
「変える?」
「と言っても、これは自前だよ? やはり、もしもの時のために、そういう知り合いはなるべくたくさん作っておく方が良い。君がそこまで言うなら、犯人は峯ということにして、僕は君を殺した足で向かおうかな」
そんなの、反則技だった。顔を変えるなんて、そんなことが出来るとは一瞬たりとも考えたことがなかった。
「そんなことが出来るんですか」
「もちろん」
「戸籍を取引してるところがあるってわけですか」
「まあね。君には、縁のないことだろうけど。で、もう気は済んだ?」
「いいえ、まだです」
カイは必至で首を振った。
「うさぎのぬいぐるみは、どうしたんですか?」
「ぬいぐるみ?」
「クルミちゃんの家から、持って行ったのはあなたじゃないんですか」
「ああ、あのぬいぐるみね」
峯にはやはり、心当たりがあるようだ。たっぷりと余裕を含ませて、一言で応えた。
「食べた」
「食べた?」
心臓が冷えたような、今までに感じたことのない不思議な感覚に襲われた。理解の範疇を越えたその行動に、体の反応が追い付かなかったようだ。
ふと我に返ると、目の前の人間が、人間以外の何かに見えた。やっとそこで、吐き気がした。
「くるみちゃんが、欲しい欲しいと言ってたぬいぐるみだよね。僕が、あの姉から奪ってあげたんだよ。本当は、クルミちゃんに返してあげるつもりだったんだけど、これをクルミちゃんが欲しがってたのかと思うと、妙に興奮してね。持って帰って、つい、食べたんだ。すぐ吐いてしまったけれど。何で消化できなかったんだろ」
「そ、れは」
「君、顔色が悪いね。大丈夫?」
クルミには、決して聞かせられない話だった。胸の中が、黒い物で覆われていく。ごつんと、冷えた床に頭を当てた。
「本当は、クルミちゃんの持ち物を全て持って帰りたいくらいだった。でも、そしたら捕まる確率が格段に上がると思ったからね。少しだけ持ち帰っただけだった。ああ、あと、クルミちゃんの下着も食べたよ。とても幸せな時間だった」
「強盗目的では、なかったんですね」
「そうさ。殺すことが目的だった。クルミちゃんの家族だから、なるべく苦しむことがないように殺してあげた。本当は面倒だったけど、捜査を混乱させるために家の中を荒らしておいた。でも、クルミちゃんの部屋まで荒らすのは気が引けた。彼女が見た時、自分の部屋がぐちゃぐちゃだったら気分が悪いだろうからね。誤魔化すために、いらないものまで持って帰ったんだ。それは、足が着かないように捨てたよ」
「家にはどうやって入ったんですか?」
「事前に、クルミちゃんから奪った鍵で、合い鍵を作っておいた。入るのは造作もないことだったよ。調べて調べて、クルミちゃんに毎日焦がれて。辛かったけど多分、あの時が人生で一番幸せだったんだ」
「幸せって……」
「クルミちゃんに会って、僕は人生が一変した。平凡だった僕は、あの時何もかもが変わったんだ」
クルミのことを話す峯は、生き生きとしていた。
口の中が酸っぱい。体が痛い。聞きたくない。
体を起こそうとするが、ただむにむにと芋虫のようになるだけだった。峯は、そんなカイを見て勝ち誇ったように笑った。
「君のことは、ずっと嫌いだった。クルミちゃんが付き合い始めたって知った時は、どうしても信じられなかった。何であんなガキとって思ったら、腸が煮えくり返ったよ。何度殺してやろうと思ったか。だけど、絶対にクルミちゃんは僕の方を見てくれるようになるって信じてたら、やはり君と別れてくれた。付き合ってたのなんて、ものの半年くらいだっただろ? クルミちゃんの長い人生の中で、たった半年」
クルミとカイが出会ったのは、今から二年近く前のことだ。それから、友達として付き合っていくうちに、しだいに恋心が湧いてきた。そして、出会って一年ほど経った頃、カイから告白した。夢のような半年間を過ごして、あっけなくカイは振られた。
「そうです。たった半年でした。けど俺にとっては、長い長い半年でした」
「そうか。なら、その半年間の思い出を今から死ぬまでの間、たっぷり堪能しておけばいい。それくらいなら、許してやる。僕は心が広いから」
峯はカイに近づくと、右手だけを動かせるように紐を解いた。そして、さきほど見せられた幼稚な文章を、そっくりそのまま書くよう指示される。
持たされた鉛筆で、カイは絵を描きたくなった。もし、地球があと一時間で滅亡するというなら、カイは迷うことなく絵を描き始めるだろう。思い残すことがないくらい、思い存分好きな絵を描いて、果てるのだ。そんな人生も悪くない。最後に描くなら、クルミがいい。以前は、描いても描いても飽きないというほどに、何枚もクルミを描いていたが、もうずっと描けてはいない。クルミに不幸が起きたらと思うと、考えるだけでぞっとした。
「どうした。早く書けよ」
峯は、蓑虫のようなカイを蹴飛ばした。けれど、カイは書き始めない。
痺れを切らしたのか、峯は続け様にカイを蹴飛ばす。ごろごろと回って、壁にぶち当たった。頭がごつんと鳴る。反動で口の中が切れ、鉄の味が口内に広がった。
峯は、馬乗りになってカイの顔を一発殴った。
「早く書け!」
カイは、ふ、と笑った。殴られたところがじんじんと痛むけれど、今まで十六年間生きてきて、殴り合いの喧嘩くらいしたことはあるし、血が出ているわけでもない。あと二、三発殴られたところで平気だ。
「何笑ってる!」
「いや、つい。ミヅキさんは、本当にエスパーだと思っただけです」
「ミヅキさん?」
峯は殴ろうとして振り上げた手を止めた。その瞬間、外からの清々しい空気が、部屋の中に入り込んできた。
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!」
空気を切り裂くような声が、夜の闇に響いた。
声がした方向を見れば、扉の前にその人は立っていた。
「世界一の名探偵、雨宮ミヅキを相手にしたのが悪かったわね!」
真っ黒な長いワンピースを身にまとって、ヒールのあるブーツをかつんと鳴らした。簪で長い髪をまとめ、赤い唇が魅惑的に微笑む。右手で人差し指を立てているのは、決めポーズだろうか。
「ミヅキさん」
緊張が、一気に解けた。安堵すると、ミヅキは「ちゃお」と手を振った。
「どうしてここが」
「簡単なことよ。後を付けたの。全ては、私の計画通りってことよ!」
その時、後ろから、スイとクルミがやって来る。ミヅキは「時間ぴったりね」と声をかけた。クルミ誘拐事件の時と同様に、ミヅキ以外は外かどこかで待機していたようだ。
さすがの峯も、三人を前に、すでに余裕はなかった。苛々したように爪を噛む。
「証拠がどうしても見つからなかったの。十年前のことだし。ただ、カイくんから話を聞いて、峯が犯人だと確信はした。何となく、最初からきな臭い野郎だと思ってたもんでね。人を殺した人って、特有の空気があるのよねえ」
カイは、床に横たわりながら、生き生きと話すミヅキを眺めた。もう、何もする気が起きなかった。痛いし眠いし気持ち悪い。早く家へ帰って、ベッドでぐっすりと眠りたい。
「そこで、カイくんに協力してもらった。危険な目に合うと思うって言ったんだけど、一度惚れた女のためにって。これぞ漢だね。で、証拠がこれ」
ミヅキが肩から下げている黒くて大きな機械。カチっと音を立ててボタンを押すと、さっきの峯とカイの会話が流れ始めた。
レコーダーだった。滅多に見かけないその機械に、カイは回らない頭で考える。確かそれは、カイの記憶ではけっこうな値段がするはずだ。車といいレコーダーといい、ミヅキは羽振りがいい。羨ましいことだ。
「どうして、そんなことを」
ミヅキの後ろで、悲痛な面持ちで立っていたクルミが、一歩前に出た。峯は、怯んだように後ずさる。
「もう言い逃れはできないんだから、正直に話しなさい」
どすの利いたミヅキの声は、妙に迫力があった。叫んでいるわけではないのに、夜の闇に緊張感を持って響く。
誰も何も言わない、動かない、静かな時間が流れた。
峯は、観念したように両手を挙げた。
「君のことを、心の底から愛しているんだ。これは神に誓って本当だ」
「愛してるなら、なぜ私の家族を殺したんですか」
「嬉しいよ。君が僕に興味を持ってくれるなんて」
ミヅキは、クルミを後ろに隠すように移動した。スイは、苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら二人の後ろで口を覆っていた。
「僕が、十二の時だ。母が、殺された」
ショッキングな出だしから始まったが、カイはすでに半分目を閉じかけている。反吐が出そうな子守唄を聞いている気分だった。
「犯人はすぐに捕まった。空き巣だったんだ。家に忍び込んだ時、僕の母が偶然帰ってきてしまって、慌てて近くにあった包丁で刺したらしい。殺すつもりはなかったと言っていたよ。でもそんなの、殺した後に言ったところで無意味だ。とにかく、母は死んだ。一人ぼっちになって、胸が苦しくて死にそうだった。もともと、僕は母と二人暮らしだったんだ。親子二人、慎ましく暮していただけなのに、神様はなんて不公平なんだと思ったよ。隣を見れば、両親に囲まれて幸せそうに笑っている奴がいるんだから。唯一の家族だった母がいなくなって、どうしたらいいか分からなくなったよ。一人でずっと泣いていた。君に会ったのは、そんな時だった」
クルミには、覚えがないようだった。ミヅキの服の裾を掴みながら、警戒して問いかける。
「そんな昔に、私と会ったことがあるんですか?」
「そうだよ。まだ君は幼かったけれど、泣いていた僕を励ましてくれた。泣かなくていいって。私がついてるって。喪失感だけあった僕の、ぽっかり空いた穴を埋めてくれたのが、クルミちゃんだったんだ。その言葉が、どれだけ僕を救ってくれたか。だから、僕も同じように、家族がいなくなっても僕がついていると知らせたかった」
かたかたと、クルミの足は震えていた。ファイティングポーズは取っているが、その手は震えている。
「入念に下調べをして、実行に移した。五人を殺した八月十三日は、僕とクルミちゃんが出会った日だったんだ。ちょうど、二年前にね」
その後の峯の動きは素早かった。近くに転がっていたカイの元へ即座に駆け寄ると、仕込んでいたナイフを首に当てる。
「来ないでくれ!」
峯の叫び声で、やっとカイは自分の状況に気付いた。つまり、人質にされているというわけだ。
荒い息が、首にかかる。
「こいつを殺して、このまま僕は逃げる。そしてまたきっと違う形で、君の前に現れる。君を愛しているから」
カイの首に当てたナイフに、ぐっと力を込める。ちくりと痛みを感じると、首筋をつうっと血が流れていった。
抵抗する気力はない。そもそもこんな状態で、抵抗など出来ない。
あ、死んだ。カイがそう思った時、走馬灯が見えた。
若い頃の母。仲の良かった友人。誕生日会の思い出。絵をプレゼントした時の、母の笑顔。店を始めた時の緊張感。クルミと初めて会った時。クルミの絵を、描いた時。
短い人生だった。もっと、やりたいことはあったのに。
静かに目を閉じた。
その時だった。
大きな音が聞こえて、ナイフと峯が後ろに吹っ飛んだ。聞いたことのない音に、カイは慌てて目を開ける。
ミヅキは、銃を握っていた。さっきの音は、銃声だったのだ。ミヅキは、峯の手を躊躇なく撃っていた。
「ぐっ……!」
峯の右手から、血が流れた。もし数センチ外れていたら、確実にカイは死んでいただろう。
へなへなと、体の力が抜けた。床に頭がごつんと当たる。ナイフが飛んだ反動で今度は頬が切れてしまったらしく、血がどくどくと出て、カイの服を濡らしていった。
銃の所持なんて禁止されているはずでは、と冷静に考える頭と、血が出てるよ死ぬよこれやばいよ、なんて慌てる頭に分かれ、統率が取れない。
カイくん、と叫んだクルミは、さきほどの震えはどこへやら、目にも止まらぬスピードで峯へ突進していくと、股間を蹴りあげながら言った。
「気持ちわりーんだよっ!!!」
やっぱり、クルミは最高だった。強くて優しくて可愛い。三拍子揃っている。
ガリガリでチビの絵描きの少年は、ヒーローになれるわけがなかったのだ。ヒロインがいいところだった。ヒーローには、クルミのような人間がよく似合う。
生暖かい血を感じながら、カイは目を閉じた。
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