第9話
「カイくんとクルミちゃんは、少し前まで付き合っていたんだよね」
「ほうでひゅ」
カイは、ずぞーっとうどんをすすった。その勢いのよさに、通りがかった店員から笑われたが、カイは気にせず食べ進める。
峯に連れて来られたのは、老若男女問わず誰でも気軽に入れるというのが売りの、和洋食何でもありの店だった。店内は広く、昼を過ぎても客はそれなりだ。
隠すことは何もないので、カイは峯の質問に素直に答えるだけだった。
「どこまでやった?」
カイはよもやうどんを喉に詰まらせそうになった。慌ててお茶を口に含む。
「な、な」
爽やかな顔で、真昼間からそんなことを訊かれるとは思ってもみなかった。耳まで赤くなっていく。カイが勘違いしているだけかもしれないと思ったが、どうやらそういう意味で合っているらしい。
「その様子だと、手すら繋いだこともないとか?」
せせら笑うような言葉に、カイはむっとする。
「駄目ですか」
「いいや、僕にとっては嬉しいことだよ。つまり、彼女のヴァージンは僕がもらえるってことだから」
あまりにもあっけらかんと言うので、大人とはそういうものなのだろうかとカイは思った。手すら繋いだことのないカイは、そんなことを考えたこともなかった。自分とはかけ離れた出来事のように思えて、想像すらつかない。
「クルミちゃんは、君のどんなところが好きだったんだろうね」
じとっと品定めするような目つきは、最初に抱いた好青年の印象とは似ても似つかない。猫を被っていたのか、ただ単にクルミの元彼という立場のカイが気に食わないのか、判断がつかない。自分だったらと考えると、確かに好きな人がかつて付き合っていたという男を、好意的には見ることはないだろう。だから、多分そういうことなのだろうと思って、カイは心を落ち着けることにした。
「ずいぶん自信があるんですね。告白して、オッケーもらえたんですか?」
「いや、まだだけど。でも、彼女はきっと僕を選んでくれると思うな。僕ならクルミちゃんを幸せにできるから、君も応援してくれると嬉しいんだけど」
貼り付けたような笑顔が、何となく気に食わない。その気持ちをぐっと堪えて、カイも微笑もうとしたが、うまく笑えていない。
「クルミちゃんが幸せになれるのなら、俺は応援しますよ」
「僕は、君より金があるし、地位もある。何より、世界で一番彼女のことを愛している」
甘ったるい台詞は、しかし真剣みを帯びていた。冗談と言って笑い飛ばせる空気ではない。もちろん、気持ち悪いと言って突っぱねることもできず、カイはずぶずぶと泥にはまっていくような気分になった。
カイが、クルミに面と向かって愛しているなどと言ったことは一度もなかった。
峯であれば、きっと今のように何度も愛を囁いて、クルミを満足させることが出来るのかもしれない。
今からカイがしようとしていることは、クルミにとって何の意味もないことかもしれない。そう思った途端、わくわくと膨らんでいた心がしぼんでいった。
「そんな風に落ち込まないで。僕は、クルミちゃんが昔好きだったっていう下川カイが、どんな人か、知りたかっただけなんだ」
「俺が?」
「知って、下川カイより劣っているところがあれば、治そうと思っていたんだ。でも、あまりその必要はないのかも」
怒りというより、情けないという感情が体全体を支配していった。全く持ってその通りだと思ってしまう自分に気付いたからだ。クルミに振られたのも、仕事が上手くいかなくなったのも、全部自分自身のせいだった。
店を出ると、雨も降っていないのになぜか大きな水溜りが出来ていて、車が通った瞬間に泥水が跳ねた。それがカイに命中し、服が泥まみれになる。
「不幸だ……」
ロケットペンダントにも泥が跳ねていたので、服で拭いて綺麗にする。
隣では、泥一つ跳ねていない峯がすっきりとした姿のまま経っていて、余計にみじめな気分になった。
「君、お金ないんでしょ? 奢るから、風呂屋に行こうか」
親切心から言ってくれていると信じたいが、今のカイには見下されているとしか思えなかった。しかし、連れられるまま風呂屋へ向かい、大人しく服を脱ぐ。服は、店の人に洗濯をしてもらえることになったので、その間風呂で体を温めることにした。峯も、ついでだからと一緒に風呂へ入った。
そして、カイはぎょっとした。
峯の二の腕に、髑髏のように見える痣があったからだ。
「ああ、これ? いつも驚かれるんだ。不気味でしょ?」
何も知らない様子の峯は、そう言って笑う。カイはそれどころではなかった。
髑髏のような痣。それは、クルミの姉が、殺される時に見たものだった。
のぼせてもいないのに眩暈がした。動悸が激しくなる。
まさか、いや、そんな。
二の腕に痣がある人なんてたくさんいるだろうし、それが髑髏のように見える人だって、世の中にいったい何人――そこまで考えて、風呂に入っているにも関わらず、背中が震えた。
その後の峯との会話を、カイはほとんど覚えていなかった。とにかく平静を装おうと、笑顔を保っていた気もする。
「どうかした?」
「い、いえ。そろそろ服乾いたかなーと思いまして」
「そうだね。じゃあ、そろそろ上がろうか」
服を受け取って、カイは急いで着た。峯が、人間の皮を被った悪魔のように見える。頭を振って、必死に違うことを考えた。
和やかに別れた後、カイは事務所まで全速力で走った。ペンダントを握りしめる。
十年前なら、峯は十四、五歳だ。そんな年齢の少年が、五人も人を殺せるだろうか。その後、何食わぬ顔で人生を全うできるだろうか。自分が殺した人間の家族を、愛して幸せにできると自信を持って言えるだろうか。
背筋がぞっとした。間違いであれと思った。
とにかく、スイに確認しなければ。
着いた時には、せっかく風呂に入ってさっぱりした体が、すっかり汗でびっしょりになっていた。
無言で扉を開けると、ちょうど二人とも揃っていた。いつだって軽口を叩きそうなミヅキは、カイのただならぬ剣幕を見て何かを察したのか、無表情で口を閉じた。
「スイさん!」
ハムたちを肩に乗せていたスイは、カイを振り返った。
「さっき、峯さんの二の腕に、髑髏みたいな痣を見たか、訊いてもらえませんか」
「峯さんって、昨日の人ですか?」
「そうです!」
何度も頷くと、スイはモモヨと会話をするように、小さな声で何か言っていた。その間、カイは息を整える。
「見ていないそうです。さっき、風呂屋に行ってたんですよね? 男湯の出入り口のあたりでぶらぶらしていたみたいですよ。十歳なんて、それなりの年頃ですしね」
「そう、ですか」
カイは落胆した。つまり、峯は犯人かもしれないし、犯人ではないかもしれないのだ。はっきりと決着がつけられない結果に、唇を噛みしめる。
もう一度、風呂に誘って見てもらうか? いや、それも不自然だろうか。
考えあぐねていると、横から声がかかった。
「困っているなら、依頼してみる?」
「え?」
「もうすでに、知らない仲でもないんだし、話だけなら無料で聞くけど? というか、今のやり取りで分かっちゃったよ」
ミヅキは地球儀をぐるぐると回していた。
「峯さんが、クルミちゃんの家族を殺したかもしれないってことだね」
言葉にすると、重みを乗せてカイの耳へ届いた。
「それは大変だ。クルミちゃんは、もしかしたらそんな男と付き合って、挙句の果てには結婚しちゃうかもしれないってことだね。何も知らないのは、なんて幸せなことなんだろう。ね、カイくん?」
挑発するような言い方に、カイは拳を握りしめた。
幸せなんて、そんなはずがない。それは、きっとクルミにとって不幸せなことだ。屈辱的なことだ。
カイは、クルミが幸せになってほしいと思っているだけだった。
「クルミちゃんの家族を殺した犯人、捜してください。金はこれで足りますか」
ミヅキからもらった封筒を渡す。ミヅキは中身を確認すると、一枚だけ札を取り出してカイへ返した。
「分かりました。ではその依頼、承ります」
カイは、返された札をポケットに突っ込んだ。
「もしクルミちゃんから連絡があったら、俺が勝手に依頼したと言っておいて下さい」
「分かった。じゃあ今日のところは帰りなさい。少なくとも、クルミちゃんに危害が及ぶようなことはないだろうから安心して。とはいえ、用心するに越したことはないからね」
「はい」
カイは、大人しく探偵事務所を出た。見上げると、窓際に並んでいる籠が見えた。安心して、というミヅキの声が反復されて、カイは落ち着きを取り戻した。
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