第7話
「確かに、僕も理由は聞きたいですよ」
階段を降りると、スイは言った。
「あの人の何となくには、必ずきちんとした理由があるんです。でも説明が面倒だから、何となく、なんて適当な言葉で誤魔化すんです。あの人、生来の嘘吐きですから」
「そうなんですか」
何人もの人を追い越し、早足で歩く。
「そういえば、スイさんはいつからあそこで働いてるんですか?」
「十五の時なので、五年前ですね」
「え! スイさん、今二十歳?」
「そうですが、何か悪いことでも?」
「いえ。そっか、俺の四つ上なんですね……」
この冷静さは、四年経ったところでカイには手に入れられないだろう。年齢不詳に見られたスイの年齢を知ったことで、現実が突きつけられた気がした。
そしてまたもや、カイは自分の家まで戻って来た。無駄に距離だけ移動した気がして、疲れる。
「あの、こっちの方って」
スイが歩く方向にとても見覚えがあったので、問う。
「君が振られた彼女の店です。この辺りで一番繁盛していますから、入ってくる情報も多いでしょう」
「ええ」
顔を歪めると、スイはカイを観察するように眺めた。
「そういえば、女心が分からないって言ってましたね。何かあったんですか」
「何かというほどのことではないですけど」
「では特に問題はありませんね。あったところで行くことには変わりありませんし。どうしても嫌なら、来なくてもいいですよ」
「い、行きますよ!」
迷いなく店へ入るスイの後に続く。いつものように、「いらっしゃいませー」という天使のような可愛い声に出迎えられたが、二人を見ると顔が少し強張った。いつもの笑顔が引き攣っている。
昼過ぎ。人はまばらではあったが、そこそこ席が埋まっており、賑やかな話し声も聞こえる。
クルミはちょうど会計中で、取り繕ったように笑うと客へおつりを渡していた。
「じゃあ、今夜」
「あ、うん」
クルミにそう言って軽く手を振った青年――背が高く、すらっとしたグレーのスーツの男は、カイたちを一瞥すると店を出て行った。カイの中で、顔面ランキングでかなり上位にいるスイと比べても、見劣りしないほどの男前である。一般のサラリーマン風でありながら、スーツを着こなす様はどこか上品で、革靴はきっちりと磨かれている。クルミと並ぶとお似合いだろうと考えてしまって、カイは首を振って想像を消した。
クルミが誘われたと言っていたのは、きっと彼のことだ。今夜、というのは、食事の約束のことだろう。確かに、あれほどの男であれば、水面下で行われているクルミ争奪戦にも勝てるはずだ。そんじょそこらの、薄汚い金のない絵描きの少年とはわけが違った。戦う前から負けている気分だ。
クルミがそれでいいなら、とは言ったし、本当にそう思っているけれど、目の当たりにしてしまうとどうしても胸がもやもやした。
スイはそんな悩める少年などお構いなく、会計を終えたクルミに一直線し、忙しいかどうかなんて全く気にする様子も見せず、ずいとカイが描いた絵を見せた。
「この男に見覚えは?」
クルミは目を瞬かせて、困ったようにカイの方を見たが、カイが力強く頷いてみせると口を開いた。
「この店に、一度来られた方だと思います」
ビンゴ。スイはしめたと言わんばかりにクルミを質問攻めにする。クルミは、丁寧にそれに答えていった。
「ひどく几帳面な方でした。自分の箸があるから、箸はいらないと言われたり、帰る時もアルコールで机をきっちり拭いてらっしゃいました。お会計の時も、新品みたいなきれいなお札で支払われて。でも最後は、ありがとうと笑顔で帰られました。少し変わったお客さんだったので、覚えてます」
「いつ頃のことですか?」
「二、三日前です」
「ついこの前じゃないですか!」
カイは驚く。人殺しをして間もないのに、何食わぬ顔で店に来て食事をしていたというのだ。もちろん生きていく上では食べなければならないが、それが何となくカイには気に食わなく思えた。
客の視線を感じ、口を手で押さえる。ついでに眉間の皺もほぐす。
「なるほど」
やっと怒涛のような質問攻めは治まり、スイは宙を見上げて考えるようにした。クルミは面接でもしているかのような面持ちで待っていたが、「分かりました」というスイの言葉に肩をびくりと震わせた。
「ご協力、感謝します。では」
一礼し、店を出て行こうとする。カイは慌てた。
「あ、あの、こんな時に言うのも変かもしれないけど、この前考えるって言ってたのはどうなった? あ、いや、ちょうどスイさんがいるしって思っただけなんだけど!」
言い訳のように最後付け加えると、クルミはふっと肩の荷が下りたように笑った。
「もうちょっとだけ考えさせて。またね」
ひらひらと手を振るその姿に、うっかり見惚れた。スイに服を引っ張られるまで、時が止まったような気がした。
「やっぱり、可愛いなあ」
やはり、どう考えたって元彼女とは思えない。あんな可愛い子が、昔のことだとしても一度はカイのことが好きだと言ってくれたのだ。夢でも見ていたのかもしれない。
ぽてぽてと道を歩いていると、横にいるスイは何やら訝しげだ。
「あの娘、家族を殺した犯人を見つけたくないとでも言うんでしょうか」
クルミが依頼するかを迷っていることに対し、スイは否定的だった。
「ミヅキさんから聞いてるんですっけ?」
「ええ、まあ。色々と。でも僕は、彼女の気持ちが分かりません。なぜ悩む必要があるのか」
自問自答するように、長い足で地面を踏みしめる。歩くスピードが速いので、カイはけっこう必死だったりする。スイは、カイよりリーチが長いのだから、カイはその分回転を速くするしかない。ちなみに、カイの足が短いわけではない。そもそもの身長が違うだけだ。
「怖いんですよ」
カイが言うと、スイはふと足を止めた。
「怖い?」
「俺には、ちょっとその気持ち分かるようになった気がします。もし自分の家族が殺されてたらって考えてみたら、犯人に会うの、ちょっと怖くないですか?」
スイは考えている様子だった。しかし、どうにも納得がいかないようで首を捻った。
「とにかく、複雑なんですよ。俺たちには、きっと到底分かんないことだと思います」
その後、探偵事務所までの道すがら、いくつもの店を回ってみたが、有力な情報は得られず、結局クルミの証言だけを持ち帰ることになった。
「……ついて来るんですか?」
「ええっ! ついて行っちゃ駄目ですか」
歩き廻っているうちに、気付けば探偵事務所の近くまで来ていた。事務所へ向かおうとするスイの後を追うと、冷徹にもそんな言葉をかけられる。
「あとは、ミヅキさんに報告するだけですよ」
誰もいない事務所に足を踏み入れると、亀や蛙たちが出迎えてくれた。見慣れると、蜘蛛や蛇にも愛着が湧いてくるから不思議だ。見た途端、ほっとする。
「ちょっとだけ休憩させて下さいよ。休んだら歩いて帰りますから」
「好きにして下さい」
スイは、紅茶を一人分用意すると、いつもの定位置に座って本を開いた。何やら難しそうなタイトルの本だ。
静かな時間が流れる。外は、すでに暗くなり始めていた。
「一人でここにいたら、ちょっと怖くないですか?」
「あいにく、一人じゃないもので」
スイは優雅にカップを持つ。
「え。今幽霊いるんですか」
「まあ、いますよ。それに亀やハムスターなんかもいる」
カイはぐるりと部屋を一周する。やはりというか、何の霊の気配も感じられなかった。
「あなたは、仕事探しはどうなったんですか」
「続けてますよ。今日はたまたま暇でしたけど」
たまたま、を強調する。ソファに座って、真正面からスイを眺める。ページをめくる所作、カップを傾ける姿、どれを取ってもカイには勝てる気がしない。
「スイさんはいいですよね、格好良くて。俺もそんな風に生まれてたら、もっと、クルミちゃんと」
「もし、なんて仮想の世界は、考えても無駄だと思いませんか?」
スイは本から視線を上げない。カイはぐっと言葉に詰まって、「そうかもしれません」と小さく言った。
「でも考えちゃうんです。もし自分が、背が高い男前だったら、もっと自信が持てるのにって。俺、馬鹿なんで」
スイは何も言わなかった。テーブルに置いた懐中時計が動くのを、カイは黙って見つめていた。しばらくそうしていると、外が騒がしくなってきた。
ガツンと、事務所の扉に何かが当たる音がして、カイは驚いて出入り口へ向かった。そこにいたのは赤い顔をしたミヅキだ。手には酒瓶を持っている。酒臭い。
「おっつー」
カイは酒のにおいを手で払うと、ミヅキを迎え入れた。でろでろに酔った様子で、足取りも覚束ないまま机に突っ伏す。
「どうしたんですか、それ」
慣れているのか、もともとの性格なのか、おそらくどちらもであろうが、スイは落ち着いて本を閉じる。
「事件解決したら、もらっちゃってえ。たいそう喜んでくれてねえ。これめっちゃ美味しーのよ。お高い酒よ」
恍惚とした表情で酒瓶にすり、と頬を寄せる。
「二人も飲むー?」
「僕は、酒は嗜みませんので」
「俺も飲めません」
「なんでえ。もったいない。じゃあ私が飲んじゃおー」
瓶を傾けようとして、ふいに真顔になった。
「そうだそうだ。で、どーだった?」
机に瓶をこと、と置くと、顔は赤いまま二人に問いかけた。
スイが事細かく今日の成果について説明すると、途中までふんふんと頷いていたミヅキが、急に顔色を変えた。
「クルミちゃんって、今日いつまで仕事?」
「え? えっと、夜からは予定があるそうでしたし、七時か八時くらいまでじゃないかと」
それがどうかしたのだろうか。ミヅキは急に動きが俊敏になると、二人を事務所から追い出して、自分も出て戸締りをした。
スイの懐中時計で確認すると、今は七時二十分を過ぎたところだ。
階段を降りて、裏のガレージに回ると、ミヅキは「乗って」と車のドアを開けた。
空気がぴりぴりしている。ミヅキの顔色を見る限り、そんな悠長にしている暇はなさそうだが、この辺りではなかなか見られない高級そうな赤い車に、カイは内心わくわくした。
エンジンをかける。
「飛ばすよ」
説明もないまま、車はどこかへ発信した。
結果から言えば、ミヅキの運転はとても荒かった。急いでいたから、というのもあるだろうが、そもそも運転があまり上手ではない。せっかくの高級車なのに、ところどころぶつけた痕があったのを、カイは目撃していた。
普段車に乗らないスイは、ぐるぐると酔う感覚のまま外に出た。地面が揺れている。
しかしそこは、そんな状態でも見覚えのある場所だと分かる、見慣れたところだった。
二人に引っ張られ、クルミが働いている店へ勢いよく入って行く。カイは、もうどうにでもして、という状態だった。
「クルミちゃんいますか?」
ミヅキが叫ぶように言うと、おじさんやおばさんだけでなく、店内の客もその物々しい雰囲気に圧倒されたようだった。
「クルミちゃんが、どうかしたんですか?」
「今はもう帰ったんですね?」
早く、と急かすミヅキに、おばちゃんは何度も頷いた。
「今日は七時までいてもらって、七時半に駅前に行っているはずです。待ち合わせしてるって」
店内の時計は、七時半を少し過ぎたところだ。カイは青い顔で口を押さえた。
「ありがと!」
風のように店内を出ると、またカイは車に押し込まれた。
「また乗るんですか……」
そんな声などお構いなく、ミヅキは車を発進させた。
駅前に着いたのは、七時四十分になる少し前だった。そこで、カイは見覚えのある男を見つけた。
「あ、あの人」
クルミと待ち合わせをしているはずの青年だった。きっちりとスーツを着たその姿は、昼に見たあの人で間違いない。また今夜、と言っているのを、カイはしっかり聞いていた。
青年は、きょろきょろと辺りを探している風だった。近くにクルミの姿は見えない。
おそらくクルミはあの人と待ち合わせをしていると告げると、ミヅキは突進するように青年へ声をかけた。
「ちょっと君、クルミちゃんは?」
青年は驚いたようだが、カイたちを見るとその物々しい雰囲気に何かを感じ取ったようだった。
「まだ来てないんです。七時半にここで待ち合わせをしていたんですけど」
クルミが時間に遅れるような人ではないことを、カイはよく知っていた。すでに仕事は終えているのに、遅れるはずがない。
気持ち悪いせいで青白かったカイの顔は、さらに青くなった。そこでやっと、クルミに何が起きているのか、起ころうとしているのか、理解ができた。
「もしかして、クルミちゃん……!」
縋るように言うと、ミヅキは重々しく頷いた。
「おそらく、犯人に連れ去られたんでしょうね」
「犯人?」
青年――峯と名乗った彼だけが置いてけぼりだった。しかし、詳しく説明をしている暇はない。
「クルミちゃんが、連れ去られたんですか? なぜ?」
峯からすれば、やっと誘えた意中の相手が来ないだけでなく、事件に巻き込まれている風であると知れば、心中穏やかではないだろう。一瞬にしてクールな仮面が崩れた。
「ここからそう遠くないところにいるはずよ。この辺りで人目に付かない場所知らない?」
峯の疑問に答えないまま、ミヅキは三人に向かって問いかけた。スイはこの辺りに詳しくないようで、黙ったまま記憶を探っているようだった。カイが、どうだったかなと考えていた時、混乱していたはずの峯が答えた。
「店から駅までの間に、細い脇道がいくつかあるんです。その中でも特に人通りが少なくて、空き家が並んでいて、行き止まりの場所ならあります」
即座に頭を切り替えた峯に、ミヅキは「そこだ!」と走り出した。
峯に案内され、小道を走る。途中から、音を立てないようにとミヅキに言われ、静かに早く歩いていくと、真っ暗な道に空き家がいくつか並んでいた。街灯は半分切れかけていて、パチパチと点いたり消えたりを繰り返している。
「どこだろう」
峯は、空き家を前に独り言のように呟いた。焦っているのか、苛ついているのか、爪を噛んでいる。
明かりが見えることもなく、音もなく、どこにいるか見当がつかない。もしかしたら、どこにもいないのかもしれない。
ミヅキは悩む様子もなく、「私はあそこに行ってみる」と一つの空き家を指差した。両側が空き家で囲まれた小さい家だった。家の前には枯れた鉢植えがいくつか置かれている。
「他のみんなは、ここで待機」
「ミヅキさん一人で行くつもりですか?」
「大勢だと気付かれるから」
「俺も行きます。二人ずつで行動しましょうよ」
ミヅキは渋ったが、もう時間もない。一人で行くなんて危険すぎる。カイはすでにミヅキと行く気満々だ。
「分かった。私たちはあっち。スイくんたちは待機」
「あの隣の家とか、あっち側の家は見なくていいんですか」
峯が言うが、スイが「静かにしてください」と制するので、むっとしたようだったが口を閉じた。刺々しい物言いだから、峯が怒り出しやしないかと、カイの方が冷や冷やしてしまう。
二人を置いて、静かに入って行く。少しでも気を抜けば足音が立ちそうで、カイは息を止めて歩いた。ミヅキは一階を見ることなく、二階へ上がっていく。理由は分からないけれど、おそらくクルミは二階にいるのだろうとカイは確信し、後ろを歩く。いつの間にか、カイ自身もミヅキへ信頼を寄せていた。
いた、とミヅキは声を出さず、ジェスチャーで伝えた。
二階の階段を上がった、左側の部屋、内開きの扉が少し開いていて、そこから荒い息遣いが聞こえた。カイは口元に手を当てて息を殺した。
身を伸ばして見てみると、月の光に照らされて、クルミの姿が見えた。手足や体は紐のようなもので縛られ、口はガムテープで覆われている。眠っているらしく、床に倒れて目は閉じられていた。
そのすぐ近くに、犯人と思われる男が座っている。
隣を見ると、背筋が凍るような目をしたミヅキがいた。視線だけで人が殺せるとしたら、きっとこんな目なのだろうと頭の隅で思った。ゆるりと、音もなくミヅキの右手が腰の方へ伸びた。その手つきがとても洗練されていて、思わず見惚れたその時、カイは音を立ててしまった。ギシ、と床が鳴る。あ、と思った時には遅かった。
男が、こっちを見た。
瞬間、ミヅキが少し動いたようだったが、カイは考える前に大声で叫んだ。
「起きて!!! クルミちゃん!!!」
小さな頃から、お前は声がでかいと疎まれていたほどの声量である。自分で出しておきながら、家がびりびりと震える感覚がした。ぱちり、とクルミが目を覚ました。
男は、クルミを抱き寄せるようにして、持っていたナイフを首に当てた、と思われたその瞬間の出来事だった。
目にも止まらぬ速さでクルミは動いた。
体を縛っていた紐を一瞬にして引きちぎると、自由になった足で男の顎を蹴り上げた。ここまでコンマ五秒。そして、そのまま後ろに飛ばされた男を床に引き倒し、破壊音と共に股間を足で踏みつけた。その衝撃で、床がめき、と音を立てた。もしかしたら床が抜けたかもしれない。ここまで、ものの数秒だった。
男が声にならない声を上げて、悶絶した。カイは、無意識に自分の股間の方へ手をやった。
「いてえ……」
ミヅキは、驚いて目を見開いていた。それもそうだろう。こんな可憐な少女から、こんな怪力技が出るなんて、カイだって実際に目にするまで信じられなかったのだ。しばらくして、音に気付いたスイと峯がやって来た。
「こ、これは……」
状況を把握すると、さすがのスイも額に汗をかいていた。
クルミは、側に落ちていた、クルミを縛っていたのとは別の紐で、慣れたように男の体を縛った。その顔は、確かにカイが描いた絵とそっくりだった。
「クルミちゃん、最高だよ!」
興奮した様子で、ミヅキは両手を広げた。クルミは苦笑いしている。
本当は、あまり知られたくはないし、自慢できることでもない、というのは本人談だ。護身術として習い始めただけなのに、気付けば自分よりも体の大きい男でさえも投げ飛ばせるようになっていたのだという。男は股間が急所だと聞いてからは、無意識的に躊躇なくそこをやれるようになってしまったのだとか。
「すごく強いんだね」
峯は、にこにこと笑っていた。この状況を見てもそんな風に笑っていられるとは、愛の為せる業か、もしくはクルミが無事だったことで頭がいっぱいになっているかどちらかだろうと思われた。
「中身、ゴリラなのかな」
スイは、本人に聞こえない程度の声で言った。
「そんなわけないじゃないですか。可愛い女の子に何てこと言うんですか」
カイが非難すると、スイは改めて、「敵には回したくないですね」と続けた。
その後、ミヅキによる通報で警察が駆け付けた。男は、まだ痛みに悶えながら警察に連れられて行った。
ミヅキと顔見知りらしい刑事が、「捜査にご協力いただき、ありがとうございました」と敬礼をして去って行った。
クルミに怪我はなかった。仕事が終わり、一人で駅へ向かおうとしていると、気配もなく後ろから急に近づかれ、何かの薬を嗅がされて意識を失っていただけらしい。起きたら急にナイフを首元に当てられていて、考える間もなく戦闘モードに入ったとのことだった。恐怖を感じる暇もない、あっという間のことだったそうだ。
「本当にありがとうございました。ご心配をおかけしました」
クルミは丁寧に頭を下げた。
「意識があれば、こんなに大勢の人に動いてもらわなくてよかったと思うので、申し訳ないです」
もし、薬を嗅がせるのではなく、どこかの暗がりに連れ込もうとしたのなら、犯人は一発で撃退されていたことだろう。
「そんなことはないよ。とにかく無事でよかった。私、今日で君のファンになった」
ミヅキが握手を求めるので、クルミははにかみながらそれに応じた。
一時騒然となっていた現場は落ち着きを取り戻し始め、カイたちもそろそろ解散することになった。
「僕が家まで送るよ」
峯が申し出た。カイたちに異議を唱える者もなく、クルミが了承したので、三人は二人の後姿を静かに見送った。峯がすっと手を差し出し、当たり前のようにクルミと手を繋ぐ。クルミは驚いたようだったが、そのまま峯に手を握られたまま、ずっと向こうへ歩いて行った。
「ひゅう。やるう」
ミヅキがおどけて言った。しかし、カイは到底そんな気分にはなれなかった。
「びっくりしたね。ばりっと縛られてた紐を引きちぎるとか、人間業じゃないね」
「クルミちゃんは人間ですよ」
口を尖らせて言うと、ミヅキはにやにやと笑った。
「元カノを奪われて気分はどん底って感じ?」
「いいえ! クルミちゃんが幸せならいいんです!」
「自分は手も繋いだことがないのに、なんであいつは早速繋いでるんだって?」
「な、なんで知ってるんですか!」
驚きのあまり数メートルぶっ飛んだ気分だ。スイは素知らぬ顔でカイたちの数歩後ろを歩いていた。特に興味のない話らしい。
「私は名探偵だからね」
「本当にエスパーですよね、ミヅキさん」
カイには到底考えもつかないことを即座に理解するその頭は、尊敬を通り越していっそ神々しささえ感じるほどだ。同じものを見ていても、普通の人には分からない細かなところまでミヅキには見えているのだろう。
「ねえスイくん? カイくんは、彼女と手も繋げないチキン野郎感が出てるもんねえ?」
「確かにそうですね。でも、クルミさんと手を繋いだら、握りつぶされそうじゃないですか」
「潰されませんよ! いや、正直俺も思ったことはありますけど!」
チキン野郎の件はともかくとして、クルミをそんな風に言われるのは我慢がならなかった。かつて、そこまで直接的ではないが、スイと似たようなことをぽろっとこぼしてしまって、とても憤慨されたことがあったのだ。まかり間違っても、女の子に対してそんなことは言うものではないと、その時学習した。そうでなくても、クルミは強い自分をコンプレックスに感じている。
「やっぱりクルミちゃんには、大人で何でもスマートにこなす、安定した職についてる人がいいんだと思いました。今日だって、峯さんのおかげで居場所が分かりましたし。俺、何も活躍できてないですし。峯さんにだったら、クルミちゃんのことを任せられます。もともと僕のものでもないですけどね!」
あんな大人の余裕は、カイにはない。ミヅキの言う通り、ただのチキン野郎に違いなかった。
二人と別れたカイは、家へ帰り、ベッドに横になって目を閉じた。クルミと峯の後姿が、まぶたの裏にこびりついていた。
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