第4話
次の日、カイが訪れたのは、この辺りで一番繁盛しているご飯屋さんだった。味もさることながら、町一番の可愛い店員がいると評判なのだ。カイも、以前は何度も来ていたものだった。しかし、今となっては来るのは久しぶりだ。少し緊張する。
扉を開けると、聞き馴染みのある明るい声がした。
「いらっしゃいま……」
しかし、それは途中で止まった。
きゅるんとした丸い瞳。いつだって微笑みを絶やさない唇。林檎のような、ほのかに赤い頬。長い、茶色がかった髪は高い位置でツインテールにしていて、それが働き者の彼女にとてもよく似合っていた。
カイと目が合った瞬間、困ったように笑った彼女――カイの元恋人である愛らしい少女は、本当にカイの彼女だったのだろうかと、今でも不思議に思うくらい可愛い。彼女とついさっきまで話していた様子の、常連客風の若い男や、近所のおじさんと言った風体の中年男が、じとーっとした目でカイを見ている。
彼女は看板娘なのだ。どんな男でも、彼女を見れば一目で恋に落ちてしまうような、そんな魅力があった。
「クルミちゃん」
カイは、少女の名を呼んだ。
「ちょっと、話があるんだ」
時間は、ちょうどおやつ時。休日を満喫している風の若い男がコーヒーを飲んだり、家を追い出された風の中年男がクッキーを摘まんだり。人はかなり少ない時間だった。カイは、それを狙って店に来たのである。
「カイくん、お金ないなら注文できないよ?」
「仕事終わった後、ちょっとだけ時間ないかな」
クルミが考えるように押し黙ると、奥の厨房から、見知ったおじさんとおばさんが出てくる。
「あれまあ。カイくんじゃないの。久しぶりねえ」
「おうカイ! 久しぶりだなあ。最近どうしてんだろうなって、心配してたんだぞ」
この店は、もともと夫婦二人で始めたそうで、四六時中一緒にいるのにとても仲が良かった。子供がいないため、クルミを子供のように可愛がっている。両親がいないカイにも、色々と気を回してくれたり、クルミとのことで相談に乗ってもらったことがあった。それなのに、クルミと別れてからは気まずくて、随分来ていない。
「すいません、ご無沙汰しちゃって。俺、今金なくて来れないんですよ」
「そんなの、カイくんと私たちの仲なんだから、おごるわよ」
今のカイにとって、とても魅力的な言葉ではあったが、カイは「申し訳ないので」と断る。
「クルミに振られたから、遠慮してるのかと思ったぞ」
「そ、それも正直ありますけど」
「なんだ? もう一回よりを戻したいって?」
おじさんの言葉に、店内の空気がぴりっとした気がした。おそらく、この場にいる男性客全員から、殺意を向けられている。
カイは全力で否定した。このままだと殺されてしまう。吹き矢とかで。
「違いますよ! ちょっと、全く別の話で」
「別の話?」
クルミは眉を顰める。しかし、そんな顔もとても愛らしい。
「どうしてもって言うなら、ちょっとぐらいなら、時間作ってあげなくもないけど」
クルミが腰に手を当てると、おじさんとおばさんは、なぜだかとてつもない苦笑いをした。カイは「ありがとう!」と腰を九十度に曲げた。
「今日、いつ終わる?」
訊くと、おばさんが代わりに答えた。
「夜まで休んでおいで。今はもう大丈夫だから」
「え」
クルミはしばらく考えていたようだが、「じゃあ、ちょっと出てくるね」とエプロンを脱ぐと、カイと一緒に外へ出た。
空気の味なんて今まで感じたことはなかったけれど、少し苦みを感じる。
「な、なんかごめんね」
カイが言えば、クルミは澄ましたような横顔だ。
「いいよ。ていうか、会うの何か月ぶりだっけ?」
クルミは少しぎこちなかった。それはカイもなので、仕方がないことなのかもしれない。円満に別れたわけではなかったので、どういう態度でいればいいのか困った。
「で、話って?」
さっそく本題に入ろうとするクルミに、カイは頬をかく。
「歩きながらもなんだから、俺ん家来ない? 金ないし、水くらいしか出せないけど。あ、変なことしないし! 別に普通だから!」
クルミは顔を赤らめた。
「それはそうでしょ! 今私たち付き合ってないし!」
「そうそう! でも他に落ち着いて話せるとこっていうと、限られるし金ないし。ほんと、変なことないから!」
そう。今カイは金がないのだ。本来ならば、どこかこじゃれた店でも行きたいところだが、金がない。金を使わず、落ち着いて話が出来る場所といったら、かなり限られてくる。
「分かった。行くよ」
クルミの顔は、赤いままだった。
ぎくしゃくしながら家へ向かう。すると、カイの家の扉に誰かが寄りかかっていた。
その背格好には、見覚えがあった。すらっとしたスーツ姿の青年は、亀の入った籠を抱え、肩にハムスターを三匹乗せている。
カイに気付くと、不機嫌そうに「遅いですよ」と言った。
「な、なんでいるんですか!」
「あなたの方が、僕を必要とするだろうから、ついでに寄ってみたんです。ミヅキさんが、ちょうど今の時間に家に来るだろうって」
「ほんとエスパーですか。ていうか、俺の家よく分かりましたね」
「調べれば簡単に分かりますから」
スイは、軽くクルミに向かって会釈をした。クルミはその姿に見惚れたようだったが、慌てて同じように頭を下げる。
「そんな不機嫌な顔をしないで下さい。生まれついての顔なもので。さっさと鍵開けてもらえます?」
指摘されるほど不機嫌な顔をしていたつもりはなかったため、クルミに見られる前に手で顔を押さえた。
「分かりましたよ開ければいいんでしょ開ければ!」
怒りながら、鍵を開ける。ほんの少し、怒ったふりをしているのもまた事実だった。何かとミヅキが気にかけてくれていることや、スイがわざわざ家まで来てくれることに対して、どういう反応をしたらいいのか分かっていない。
事実、来てくれてラッキーだと思っているのだ。こちらから出向く必要がなくなったのである。確かに、ミヅキに見透かされていた通り、近いうちにクルミを連れて行こうと思っていた。
部屋に入って落ち着いた後、状況が飲み込めていないクルミに説明をする。
「この人は、雨宮探偵事務所のスイさん。霊が見えるんだって」
「霊?」
クルミの前に置いたコップから、水滴がつーと落ちていく。カイは神妙な顔で頷くと、ポケットに入れていたロケットペンダントを取り出し、三人が囲む机の中央に置いた。
「これ、見たことない?」
クルミの顔が固まった。返事をしなくても分かる。知っている。その顔は、明らかにそう言っていた。
やはり、とカイは確信する。
クルミという名前。年齢。家族がいなくて、親戚と共に暮らしていること。家族の話を振ると、妙に言葉少なになること。姉がいたこと。かつては裕福な暮らしをしていたこと。今までの会話から、得た情報を一つ一つ組み合わせていくと、そうとしか思えなくなった。あくまでも推測にすぎなかったが、やっと今確信に変わった。
なんということだろうと、驚かずにはいられない。
「お姉さん――モモヨちゃんの、持ち物だよね」
クルミは震える手でそれを持った。愛でるように撫でると、静かに頷く。
懐かしさと、恐怖と、悲しみと、色々なものが混ざり合った瞳を閉じる。
「最初は、捨てようと思ったの」
クルミは、ぽつりと話し出した。
「だけど、引き止められて。おじさんに売っちゃった。まさか、カイくんが持ってるなんて思いもしなかった」
聞いたこともない弱々しい声に、カイの胸は痛んだ。
「どうしてこれを」
潤んだ瞳に問われて、カイは洗いざらい一切のことを話した。クルミは静かに聞いていたが、スイに霊が見えるというところに非常に興味を持ったらしい。半信半疑の様子で尋ねた。
「今も、姉が見えているんですか」
「はい。ただ、あなたが妹さんだとは分からないようです。あんまり成長されているので」
今は退屈して、スイの後ろで寝こけているらしい。クルミは、スイの後ろに回り込んで首を傾げた。
「本当に……?」
「信じるかどうかは、あなたしだいです」
しばらく愛らしい瞳を瞬かせていたが、小さな声で「信じます」と言った。
「確かに、うさぎのぬいぐるみは取り合いしていました。姉がもらった物なのに、すごくかわいくて私も欲しくなっちゃったんです。時には喧嘩になったこともあって、母に叱られてました」
「でも、事件後にはなくなっていたそうですね」
手を組んだスイが問いかけると、クルミは頷いた。
「はい。私も、犯人が持って行ったとしか考えられなくて。他には、アクセサリーとか、カップとか、下着とか、そんなもの持って行ってどうするんだって感じの物も無くなっていたみたいです。私、あまり覚えてはいないんですけど。はっきりと覚えているのは、泥棒に入られたみたいに家の中が荒らされていたことでしょうか。ただ、いくつも部屋はあったんですけど、私たち姉妹の部屋は綺麗なままでした。金目のものがなかったからだと言われましたけど、服やぬいぐるみはなくなっていたので、奇妙だなと」
「当時、玄関だけが開いていたんですよね?」
「はい。そのほかは、窓から全て閉まっていたはずです。母はいつも夜になると、戸締りをチェックしていましたから、犯人が何らかの方法で玄関の鍵を開けて入ったんじゃないかと思うんです」
「普段鍵は、誰が持っていたんですか?」
クルミは考え込んだ。
カイは、家に行った時にスイが玄関をじっくりと見ていたのを思い出した。確か、鍵穴は一つ。鍵を差し込んで、ぐるっと回して開けるのだ。
「母と父、おじいちゃんとおばあちゃん、それに、私も姉も持っていました。全員に一つずつあったはずです」
「失くしたことは?」
「なかったんじゃないかと……ただ、少しの間紛失したことはありました。私なんですけど、いつものように鍵を出そうとしたら、どうしてもなくて。でもしばらくしたら、鞄に入ってたのを見つけたんです。そこも探してたはずなのに、急にひょこっと出てきて。変だなと思ってたので、けっこうはっきり覚えてます」
「それはいつごろの話ですか?」
「暑い時期でしたし、事件があった一か月前くらいだったかもしれません」
「なるほど」
スイは、後ろを振り返って、おそらくモモヨの様子を見るようにすると、またクルミへと視線を戻した。
「犯人の顔は、見ていないそうです。暗かったそうなので」
クルミの手が、微かに震えるのを見た。しかし、その手を優しく掴むことは、今のカイには出来なかった。付き合っていた当時もしたことはなかったけれど。
「ただ、二度目のナイフを振り下ろす犯人の二の腕に、髑髏のような痣があったそうですよ。月の光で一瞬見えたそうです。その日は、満月だったそうですね」
それまで気丈にしていたクルミは、顔を覆った。肩を震わせている。
カイは、声を上げずにはいられなかった。
「スイさん、今日はそろそろ。クルミちゃん、夜からも仕事なんです」
「そうですね。僕も仕事の途中ですし。では僕はこれで」
立ち上がったスイのコップは、一ミリも減っていない水が残っていた。一礼だけし、あっさりと帰っていく。静かに見送った。
気まずい空気の中、二人だけが取り残された。
クルミはしばらく手で顔を覆っていたが、隙間からぽろりと水滴が落ちた。カイは驚いた。クルミが泣くところなんて、見たことがなかった。
たまたま持っていたティッシュを渡すと、目元を拭い、ずびーっと鼻をかんだ。目を何度か瞬かせると、ぽろりと雫が頬を伝う。
「あー! もう、ごめんね。もう十年も前のことなのにね」
クルミは、人を頼らず一人で立ち上がっていこうとする癖があった。今だって、必死に泣くのを耐えてカイに気を使っている。笑っているのに、笑えていない。頑張りすぎるせいで、自分の限界が分かっていないのだ。いつだったか、熱があるのに働いて、帰りに道端で倒れたことがあった。
やはり、思い出させるようなことをするべきではなかった。後悔しても後の祭りだ。
「クルミちゃん、あの」
声のかけ方が分からない。泣いている女の子を慰めるなんて、プレイボーイみたいな真似はしたことがない。しかもこれは、自分のせいなのだ。
「カイくん、言うんじゃなかったって思ってるでしょ」
潤んだままの瞳で、クルミはカップに流れる水滴を見つめた。心の中を言い当てられて、カイはうんともすんとも言えなくなった。
「私、あの時からずっと時間が止まってる気がしてたの。でも、カイくんと出会ったおかげで進み始めた気分になった。でも、そうじゃないの。お姉ちゃんがまだいるって聞いて、もしかしたらけじめをつけられるかもって」
「けじめ?」
「そう。ちゃんと、お姉ちゃんを成仏させて、私も前に進もうかなって」
いつものクルミ全開の笑顔が、カイの胸に刺さる。可愛すぎる。泣いたせいで、鼻が少し赤くなっていた。
「私、そろそろ行くね。またね」
カイは、クルミに手を振り返した。クルミの姿が見えなくなると、フローラルな香りはすぐに消えた。
一人になると、カイはベッドに体を預け、物思いに耽った。
うさぎのぬいぐるみは、今はすでにないと考えるべきだ。そうなると、新しいぬいぐるみを買ってきて渡せばいいのだろうか? しかし、モモヨが欲しがっているのは、あの当時のままのぬいぐるみなのではないか?
ぐるぐると、思考が駆け巡る。
そもそも、犯人は何のためにぬいぐるみを持って行ったのだろう。それを、何に使ったのだろう。目的は、本当に強盗だったのだろうか。そうであれば、金になりそうなものだけを持って行けばいいはずだ。
警察が十年かかっても見つけられていない犯人を、カイごときが見つけられるわけがなかった。二の腕に髑髏のような痣のある人間を探すといっても、一人一人の二の腕を見ていくことは不可能だ。
「途方もないなあ」
ミヅキであれば、犯人が分かりそうなものを。
ぐう、と腹の虫が鳴る。それを聞かなかったことにして、カイは眠りに落ちた。
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