神は死んだ

意味なんてものに意味がないならば、僕たちはどうやって人生を生きていけばいいのだろうか。


そして、人を構成する要素や記号が意味のないものならば、どうやって人の価値は決まるのだろうか。


「色白、黒髪、高身長の女性」という記号は、数十億人の人々の中から、その数十分の一にまで絞るものかもしれないが、一人にはならない。


人は、社会において交換可能であることに怯えている。


倫理学の思考実験に、トロッコ問題というものがある。


暴走するトロッコの線路の先に、線路上で作業中の5人の人がいる。トロッコがぶつかれば5人は死んでしまう。


しかし、あなたは線路の分岐器の前に立っていて、線路の進路を変えることで5人は助かり、新しい進路上にいる1人だけが死亡する。


このとき、あなたは5人を助けるために、本来死ななくて良かった1人を殺すだろうか。


分岐器のレバーを引くというのでは、レバーを切り替えたとしても、1人の死には、あまり人為性を感じずに済むかもしれない。


では、一直線の線路上に5人の作業員がおり、あなたは橋の上からそれを見下ろせる。


今、暴走するトロッコがその5人を轢き殺そうとしているが、橋の上にいる巨漢の男を突き落とすことで、確実にトロッコは止まり、5人は助かるとする。


そこで、あなたはその男を橋から落としてまで5人を救うだろうか。


そもそも、1人の人間と5人の人間の価値をどうやって比べれば良いのだろうか。


アメリカの大統領1人の命は、平凡な5人の命より重いと、どうして断定できようか。


川に2人の人が流されていて、あなたは1人しか救うことができない。


どちらかの1人をどうやって選べるだろうか。


例えば、あなたが若くて性欲に忠実な男性であるとすれば、美女と、冴えない男が流れていたら美女を助けるかもしれない。


金持ちと貧乏人であれば、金持ちを助けるかもしれないし、老人と子供だったら子供を助けるかもしれない。


では、完全に同じ条件であれば、どちらを選べば良いのだろうか。



人1人と5人を比べて、1人の死を選べるならば、その考えは功利主義的である。

5は1よりも多いから、被害は1である方が良い。極めて合理的な考えに思える。


5人を救うためだとしても、1人の命を奪うことは許されないと考えるなら、カント主義者であるかもしれない。


そして、川に流される2人のうちの1人が自分の隣の家の人であって、もう1人が他の街の知らない人であるとき、迷わず隣人を助けるのは、コミュニタリアン(共同体主義者)かもしれない。


けれども、隣人の命が、見知らぬ人の命よりも重いということが、どうしてわかるだろうか。


隣人は、「偶然にも」救助者が隣に住んでいたから助けてもらえるだけだ。

偶然は、本来の価値すらも凌駕するのである。


あなたが中学校の部活で、野球部を選んだとする。

それは、野球がサッカーやバスケットボール、卓球よりも本質的な価値があるためではない。


たまたま、いつもテレビで野球観戦をする家庭に生まれただとか、仲の良い友達が野球をやっているだとか、近くに野球クラブがあったからだとか、そうした「偶然」こそが、人々の選択を決めているのである。


だが、人々はそこに意味を求めたがってしまう。


宗教の信者は、たまたま家がその信者であったり、勧誘されたりといったことで、入信するが、その宗教がいかに崇高なものかということは、絶対に証明できない。


その宗教が崇高であるほどには、ほかの宗教も崇高なのである。


生命は、偶然によって誕生した。


偶然、ビッグバンが起こって宇宙が生まれ、偶然、地球という惑星に水があり、生命が誕生した。偶然、生命の進化の途中に、人間ができた。


今日、社会的に信じられているダーウィンの進化論は、必ずしも「社会的に信じられている」とは言えない。


アメリカでは、ダーウィンの進化論を教えない学校が多く、進化論を信じない人が多い。実に、3人に1人は進化論を信じないという調査結果もある。


彼らがなぜ進化論を信用しないかと言えば、人間が神によって創られたというキリスト教の考え方に従っているからである。


そのような、生命や宇宙が「知性ある何か」によって設計されたとする説を、インテリジェンス・デザイン(Intelligent Design)と呼ぶ。


キリスト教の聖書を基盤として生まれた説ではあるが、ユダヤ教徒やイスラム教徒でもこれに従う人たちがいるという。


宗教が科学を否定するというのは、今に始まったことではない。


ガリレオ・ガリレイは、天動説に対する地動説を主張したが、キリスト教の教義に反していたため、宗教裁判にかけられる。

そこで、彼が言った言葉が「それでも地球は動く」というものだと伝えられている。


それでは、宗教がいつでも科学の敵だったかというと、それは誤りである。


科学は、宗教がなければ生まれなかったという考えもある。


そもそも、科学(Science)という言葉が今日のように使われるようになったのは、19世紀半ばのことであったと言われている。


それまでは、今日で言う物理学などの自然科学は、哲学の一部門であった。今日でも、あらゆる分野の博士号のことを「哲学博士」(Doctor of Philosophy)と呼ぶのは、その名残だ。


その哲学の発展の背景には、キリスト教が欠かせなかった。

キリスト教は一神教の宗教であり、この世を神が創造したとされている。


神が創造した世界であるから、偶然や恣意性なんてものは許容できるわけもなく、世の中には絶対的な公理があると考える。


そして、それを解き明かすために、人々は物の性質や惑星の動きなどを研究し、その原理を学んでいった。

科学とは、宗教の信仰と表裏一体であったのだ。


そのため、一神教のない東洋においては、科学は生まれなかったと言う人もいる。

東洋の文化においては、偶然や恣意性というのは、許容されるものだからである。


すでに述べたように、西洋文化が入ってくるまで、今日使われている日本語の単語の多くが存在しないものだった。それは、中国語においても同じことである。日本人が西洋の言語の訳語として作った熟語の多くは、中国にも取り入れられている。


つまり、東洋においては、哲学を思考し得るだけの言葉すら生まれていなかった。


それでは、偶然や恣意性を認める東洋においては、意味というものが過剰に崇められることがなかったのだろうか。

「意味の病」に対する耐性を持っていたのだろうか。


東洋には東洋の道徳があったが、今日の私たちは忘れてしまったので、どうであったかはわからない。


自死という点に絞れば、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の日本の伝統文化においては、その意味は今日とは違うものであるだろう。


そして、明治維新以降の近代化によって、伝統が歪められた「創られた伝統」の戦前日本の、死が国家のために利用されていた時代、「咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」と歌われた時代においての「自死」の意味もまた今日とは異なるだろう。


いずれにせよ、「意味」という病が人々の心を蝕むようになった今日では、「意味」の崇高性を排除しなければならない。


しかし、「意味」の崇高性なんてものは、すでに紘介のような一部の人間にしか支持されていないイメージでもある。


ニーチェが「神は死んだ」と言ったように、この世に絶対的な価値を持つ存在など

もはや存在しないのだ。


神と一緒に成仏することができなかった、一部の人間だけが、その価値のあるものを求め続けている。

他の人間は、意味のあることよりも、刹那的な楽しさを求めるだろうし、紘介のように恋愛の中に「イデア界の片割れ」なんてことは考えもしないのである。


真面目なだけで、面白みのない人間は、もてはやされるものではないから、紘介は息苦しさを感じながら生きなければならないのだ。


彼は、桐野さんも同じタイプの人間だったのではないかと思う。

桐野さんは、モテないわけではなかったが、意味のあることをしたそうな人だったし、物事の摂理を学ぶことに関心を寄せ続けていた。それゆえに、他人が興味を持たないようなうんちく話も多かった。


神と一緒に成仏できなかった亡霊たちは、きっと私たちの周りに、たくさんいる。そして、見えないところで悲鳴を上げているに違いない。

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