強度
週明け、また会社に行く。
岩倉さんのいる日常にももう慣れてきた。
帰り際、細川課長とたまたまエレベーターで一緒になった。
桐野さんのことがあってからは、初めて一緒になったので、その話をせざるを得なかった。
「彼はとても優秀な人材だったのにね。なんで、彼は人生に意味を見出せなかったんだろうか」
「さぁ、私と飲みに行くときにも、全く悩んでいる様子はありませんでしたし、私もずっと桐野さんに憧れていました」
「君は彼の遺書を読んだのかい。何が書いてあったか教えてほしい。僕は読んでいないから」
紘介もうろ覚えではあった。
「なんだか、自殺する理由は誰もわからない、死なない理由もなく、生きる理由もないから死ぬとか、そんなものでした」
「そうか。彼には、人生は生きるに足りないものなのかな。取り敢えず生きてみるということは重要だと思うけれど」
細川課長と歩いて、駅まで着いていた。
帰り道は反対方向だから、別のホームに上がるため、別れた。
細川課長は、最初、紘介に話しかけたとき、「人生に意味を見出せなかった」という言葉を使った。
果たして、人生に意味なんてものがあるのだろうか。
少なくとも紘介はそんな崇高なものを見つけられていなかったが、細川課長には生きる意味があるのだろうか。
人生に意味というのが、仮にあったとして、それはどこで、どうやれば見つかるのだろう。
いや、人生の意味は、見つかるものではなくて、自分で無理やり作っていくべきものであるかもしれない。
私たちは自分一人の人生しか生きられない。
だから、意味のある人生を探すのではなく、この人生に意味を見出すしかないのだ。
しかし、私たちは酸素が必要だからと意識をして息をしているのではなく、無意識のうちに息をしている。
酸素の存在など知らない太古の人々も、同様に呼吸をしていた。
同様に、なぜ生きるかということを知らなくても、紘介はここに存在し、生命活動を続けているのだ。
では、なぜ人は意味なんてものにこだわるのか。意味がないことをすることに抵抗を感じるのか。
自分の命に意味があり、自分はこの世界を少しでも変えられると思う人は、ハルマゲドンに参加してしまいがちだ。
1995年に地下鉄内でサリンをばらまいた団体には、超難関大学の卒業生が揃っていた。
だからこそ、化学兵器を開発する技術力を有していた。
そうした人間がコミットしてしまったのは、教祖のカリスマ性だけが理由ではなく、彼ら自身の内面にも理由があるだろう。
受験戦争を勝ち抜き、人気の高い大企業に入ったところで、この世界を変えるために何が出来るというのか。
所詮、彼らの努力なんてものは、数十億人が暮らすこの地球において、何の意味もないに等しいものなのだ。
しかし、教団の中では、彼らに生きる意味はあった。
クーデターによって、日本社会を一から作り変えるという、広大な目標があった。
リオタールによれば、ポストモダン社会では「大きな物語」が失われている。
富国強兵のような国家レベルでの物語は、冷ややかな目でしか見られない。
物語のない人生に耐えられない人たちにとっては、クーデターという物語は魅力的なものに違いない。
もっとも、彼らの登場を待つまでもなく、大きな物語のあった時代にも、明治政府の誕生以降、様々なクーデター計画があった。
第二維新を目指した西郷隆盛門下の一派や、大正維新、三上卓らの五・一五事件やその後の二・二六事件に続く昭和維新など。
汨羅の淵に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ
溷濁の世に我起たてば 義憤に燃えて血潮湧く
そう歌って軍事力を不当に利用した連中の義憤の中には、ただの私欲もあったかもしれないが、何より、国を憂いて立つということの物語に心酔していた故の行動だろう。
これらの動きを詳細に研究していたのが晩年の三島由紀夫であった。
三島由紀夫は、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で、自衛隊に決起を呼びかけて、クーデターに失敗し、切腹を遂げた。
三島にとって、その行動は意味のあるものだったに違いない。
余談だが、クーデターは革命ではない。
近現代国家においては、政権を打倒したとしても、複雑化した行政課題に対応するためには、官僚制による既存の省庁のシステムを維持しなければならない。
だから、トップに立つ人間たちは変われど、その下で歯車となって働く人たちや、その社会システム自体は変わらないのである。
そのため、クーデターを起こしたところで、社会の仕組みの大変革は起こらない。
だから、ハルマゲドンによるスクラップアンドビルドの効果というのは、限定的なのだ。
それでいて、その思想はエリート層を引き付け、悲惨な事件が起きてしまったのだ。
これでは、人生に「意味」を追い求めることは罪であるかもしれない。
大学教授の宮台真司は、この延々と続く平凡な毎日に悩む時代を見て、「終わりなき日常」という言葉を使った。
「終わりなき日常」を生き抜く術として、「意味から強度へ」が語られた。
強度とは、感情的な密度のようなものであり、簡略化して言うならば、意味を求めることから、楽しさを求めることで、この時代を生きていけるというのである。
しかし、彼が分析した女子高生たちのように、「まったりと生きる」ことでも、「終わりなき日常」は克服されないから、「脱社会化」という考えに至る。
サリンを撒かずにこの世を耐えるというのは、一筋縄ではいかないことなのだ。
桐野さんを殺したのも、「終わりなき日常」のような、退屈な日々であったかもしれない。
社会学者のエミール・デュルケームは、『自殺論』の中で、自殺を3種類に分類したことで知られるが、彼の研究結果によれば、戦争時や、政変が起きている時期は自殺率が低下するという。
戦争や政変といった「非日常」は、たとえそれは「日常」よりも経済的に苦しいものであったとしても、人々を自殺という愚かな考えから救ってくれるものかもしれない。
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